おやつの話

未分類, 雑話

これは、466回目。
おやつの話だ。

間食、つまみ、その類だ。

おやつ、というと、どうも昭和の世代(とく20ー30年代前後生まれ)の場合、今のおやつと様相が違う。

こんなにいっぱい種類が無かったと考えがちだが、そうでもない。
日本は昔から、お菓子の文化は世界に冠たるものがあったのだ。

今ではもう死語になってしまったが、「おさんじ」という呼び方も確かにあった。
わたしの子供の頃は、少なくとも周囲で、たまに聞いた記憶がある。

もともと「八つ時=14時頃」に食べる間食ということから「おさんじ」という言葉が残ったようだ。

ウイキペディアによると、食事の間が長時間にわたって空いてしまう文化においては、あるいはまた昼寝を取らなかった時の眠気覚ましで食べるようになったとも言われるらしい。

英国のアフタヌーン・ティーという習慣は、日中の栄養補給の意味合いもあったらしい。糖質や炭水化物が主体となる傾向がどうしても出てくる。

これはしかし、日本の農民が、古くは朝夕一日二食であったから(わたしも今では完全に二色体制だ)、体力維持のために休憩時に軽食をとり、これを中食(ちゅうじき)とか、間食(かんじき)などと呼んでいたらしい。

江戸は元禄のころ、一日三食が一般化したが、このあたりから「おやつ」なる語が出現したと言う。

わたしの世代はどうだろうか?

人によって好みがあるからなんとも言えない話だが、思い出せば、歌舞伎揚、甘いものならマコロンとか、そうそう「たまごボーロ」なんてものも良く食った。が実は、こういうものを食ったのは、人より随分遅い。

もっとも、小学校の頃までは、母親がどういうわけかわたしにおやつをくれなかった。理由はよくわからない。
「虫歯になるからだ」と言われたりしたが、そのおかげでいまだにわたしはすべての歯が健在なのかどうか、本当のところは知らない。

なにしろ、にぼしをフライパンで(油を引かずに)炙って、生味噌をぽんと醤油皿に盛り、「これをつけて食え」と言われたものだ。

年端も行かない倅(わたし)が、ぽりぽりとその「おやつ」をいただいている間、当の本人(母親)は、せんべいやら、あんみつやら、ところてんやらを食っていた。

食い物の恨みは恐ろしい。

結局、小学校の頃に「食えなかったおやつ(おかし)」を、中学以降になって、猛然と食い始めることとなり、およそ中学・高校になると恥ずかしくて食わないような子供のお菓子を、それこそ猛然と食ったのである。そのまま、現在に至っている。

よく言うではないか。子供の頃食えなかったものに、異常に執着するというあれだ。

大学芋だことの、パンの耳揚げ(砂糖をまぶしたやつ)だことの、カルメ焼きだことの、ラムネ菓子だことの・・・どうやらやはり甘いものが多いようだ。

今の世代なら、どうだろうか。
プリン?
古いか。

フレンチトーストとか、洒落たものでも食ってるのだろうか?
もっとも、コンビニに行けば、目が回るほどたくさんのスナック菓子の洪水だから、わたしなどは立ち尽くすばかりだ。
ようやくにして手が出るのは、せいぜいポテトチップスとか、「森永のアーモンドチョコ」くらいだ。

と、ここまで書いてきたものは、要するに既製品である。

歳をとってくると、だんだん自分でなにか一工夫しないと、つまらなくなってくる。食えればなんでもいいというものではないのだ。
なにか、そこにエンターテイメント的な付加価値が加わらないと我慢できなくなってくるのだ。

それも、それなりに舌が肥えてしまっているので、まずいものはいただけない。
やはり美味しくないといけない。

料理ならともかく、こういうどうでもいい間食のことを、あれこれ考えるのは、やはり偏執狂であろうか。
そんなことはないだろう。きっと同好の士というのは大勢いるはずだ。

最初のうちは、(わたしはクラッカーが好きなので)これにピーナッツクリームを塗って食ったり、肉のペーストを塗って食ったりと、誰でも考えそうなことをしていた。

一工夫と言っても、その程度のことでしかない。

あるいは、(これこそ本当に好みだが)メキシコでは定番の、トルティーヤ・チップをサルサで食うことが非常に多いかもしれない。

アボガドを皿にぼとりと落とし、サルサをドバっと入れて、液体チーズも入れる。
皿の中は、この3つが天下三分の計でいがみあった状態になる。

これをトルティーヤ・チップスで掬いながら食うのだ。

結構ハマる人もいるんじゃないだろうか。
なにしろアボガドを使うから、健康的だ。
現代人にはうってつけと思うがどうなんだろうか?
あまり一般的ではないのだろうか?

しかし、これもありきたりと言えばありきたり。
メキシコに行けば、誰でも食ってる。

そうじゃない、珍しい食い方が知りたいのだ。

だんだん、味そのものより、この自分にとっての初体験というものに対する異様な執着が膨張してくる。

あったのだ。

数年前のことだ。

ひょんなことで江ノ島の鵠沼海岸の海浜掃除のボランティアに、毎年二回参加するようになったのだが、そのとき参加者たちとイタ飯屋で食事をした。

すると、アペタイザーで出てきたのが、フランスパン(しっかりトーストしてある)が4-5cm四方に切ってあり、それに「しらす」が載っていたのだ。

「ほっ?」と思い、食ってみるとこれが絶妙に美味い。

江ノ島あたりでは、店屋によっては、生しらすを丼で食わせてくれるところがあり、わたしは好きなのだが、このフランスパンに載っていたのには驚いた。

もちろん生シラスではなく、熱を通してある。

どうも、この料理が気になり、臨席の人たちと「これはどうやってつくったんでしょうな?」とひとしきり議論になった。

おそらく、オリーブで軽く炒めているのだ。
若干、バジルを混ぜているようだった。

シラスはいわゆる片口いわしの稚魚だが、さっと塩ゆでしたものは「釜揚げシラス」、半干ししたものは「シラス干し」、そして飴色になるまで干しきったものを「ちりめんじゃこ」と呼ぶ。

どうもこのイタ飯屋で出していた、おつなアペタイザーは、生シラスをオリーブで軽く炒めたもののような感じだ。

これはいける。

ところが、残念ながら江ノ島で生シラスを売っているところは、あるにはあるが、意外に見つけにくい。
生シラスの直売所は、江ノ島付近の腰越、長谷付近の坂の下あたりに複数分かれている。

また、江ノ島・湘南あたりでは、1-3月は禁漁だ。
足が速いだけに、結局生シラスを楽しめるのは、3月中旬(まさに今ごろだ)から、12月までである。

どうもシラス干しや、釜揚げシラスを使っても、あの味が出ない。
やはり生シラスでなければと思うと、目の色が変わってくる自分がいる。

どうも、GW前後を狙うと、生シラスが手に入りやすいようである。

ものは試しで一度味わっていただいたらどうだろうか。
さらに一工夫加えたら、絶品のおやつが誕生するかもしれない。



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