デザインということ

文学・芸術, 雑話

これは408回目。

デザインというのは、そういうお仕事に従事されている方々を除けば、一般に見過ごされてしまいがちなものです。

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デザインとはなんだろうか? インテリア・デザイナーもいれば、服飾デザイナーもいる。稲川淳二氏のように、怪談が本業のように思われているが、本来工業デザイナーだ。賞も取っているくらいだ。

このデザインというものを、意外にわたしは見過ごして生きてきた。

調べてみると、デザインのデというのは、「取り除く」という意味だ。デカフェとかいうときのデもそうなのだろう。

ザインのほうは、サインなのだが、「形にする」という意味だそうだ。

デザインというのは、デッサンと語源が同じ。要するに、語源から直訳すると、余計なものを取り除いて取り出した本質を形にするという意味になる。

これは結構深いではないか。

なにかをデザインしようとしたら、その物の本質とはなにかを突き詰めてまず答えを出さなければ、製品に真のデザイン性は宿らないということになる。

見栄えや、かっこよさや、ファッション性はまた別の話。以前、美とはなにかということを、柳宗悦らの持論を引用してここでも書いたことがある。

そのときは、「実用に耐えないものは、美しくない。美しいものはたいてい実用的に優れている」と書いた。

これに通じるものがあるかもしれない。

本質への洞察を欠くと、デザイン性なきデザインに堕落してしまう。総じて日本製品は、品質に比べてデザイン性が劣ると評されてきた。おそらく、機能を最優先しすぎるからではないかと思ったりもした。

たとえば、車のデザインだが、トヨタのAというブランド車があるとする。これは過去60年くらいモデルチェンジがずっと繰り返されてきたわけだが、どうしてもその車のイメージが一定にならない。

外車はその点、非常にはっきりわかる。たとえば、メルセデス・ベンツ一つみても、その時代時代のモデルの同ブランド車は、たしかに違うのだが、どれもこれも、どう見てもメルセデス・ベンツだとわかる。「らしい」のである。

ポルシェも同じだ。ジャガーもこれに近い。ランボルギーニやフェラーリもそうだろう。

が、日本車にはこれが当てはまらない。

なんどモデルチェンジを繰り返しても、その車のイメージが、ぱっと頭に浮かんだのは、(最近はもう変わってしまって、どうも該当しなくなっていると思うが)かつてのスカイラインである。

テールランプは、珍しい大きな一つ丸。攻撃的な、直線的なラインは印象的だった。誰が見ても、車に詳しくない人がみても、「なんの車でした?」と聞かれて、即座に「スカイライン」と答えられた、稀有な車種であった。

しかし、そのくらいだろう。どうしてこうなるのか。とくに欧州車はこの傾向が顕著であり、それをただの「こだわり」で片付けるのは早計な気がするのだが。

あの「こだわり」は、そのデザインに、メルセデスなりの、ジャガーなりの、フェラーリなりの「本質」をとらえた主張に確固たるものがあるのだろう。だから、何十年たっても、「形が変わらない」のである。

実はこのポイントというのは、古来日本人が非常に得意とした分野のはずなのだ。なにしろ、歴史と伝統という意味で、日本ほどの長期間にわたる民族文化はほかにそう無いのだ。世界に200年、400年、600年という老舗が今に至るまで存続している会社は、日本がダントツ、桁違いに世界中でも最多の国家である。

それがどうしたことだろう。こと、現代デザイン、それも消費者向けのデザインになると、とたんに「機能」優先で、「本質」がややもするとおざなりになってしまっているような気がしてならない。

だから、いつもわたしは車を見るにつけ、外車のセンスのよいスタイリングを見るにつけ、「そんなはずないのだ」と独言を愚痴る癖がずっとなおらない。



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