人生を丸投げした道楽

文学・芸術

これは468回目。
道楽の話だ。

道楽というと、得てして自分の生業や、会社勤めの人なら仕事とは、自体関係の無い趣味のことだ。
「道を解して自ら楽しむ」というのが語源らしいから、徹頭徹尾個人が夢中になれるものだ。

女道楽や、博打道楽など、本人の品位を損ね、自堕落になってしまい、他人にも迷惑をかけたり、家庭を破綻さあせたりする恐れのあるものも、道楽だ。
行き過ぎたら、当然なんでもそうなる可能性はある。

ということは、そうしたリスクを避けるためには、道楽が生業や仕事になってしまえば良いわけだ。
ならば、誰にも悪影響を及ぼさず、それどころか本人が好きなことなのだから、人生をそれに丸ごと入れ込んでしまって良いではないか。それで食えるのだから、本人も本望だ。

しかしなかなか人生、そうはいかない。
かくいうわたしは、実は道楽がもはや生業であり、仕事になっている。

結果的にそうなったのか?
そうとばかりもいえない。
自らその都度人生の折々、選択に選択を重ねてきた結果が、こういうことになっている。

一日、どのくらいの時間をこの生業に打ち込んでも飽くことがない。
それどころか、日々ますます新たな驚きや、新鮮さに心が震えるのだ。

こんな幸せなことはない。

果たして、みんなそうなんだろうか?
おそらくわたしのようなケースは、非常に少数派だろう。

人間、若い頃から好きなことだけやっていれば、それがそのうち生業や仕事になっていく「はず」なのだが、人生そうは単純にはいかないし、そうなるとも限らない。
たいていは、道楽(趣味)はただの「消費行動」に終わってしまい、生きる糧をもたらしてくれるまでにはならないものだ。

しかし、「好き」を諦めたら、人間まったく生き甲斐もなにも失ってしまうではないか。

ゴーギャンは、もともと優秀な株の仲買人だった。
11年も株取引をしていたのだ。
しかも、かなり稼いだ。

手を引いたのは、株が暴落して証券業界に閑古鳥が鳴いたことがきっかけだったものの、すでに日曜画家としての道楽は始めており、多くの画家仲間とも交わっていた。

結局ゴーギャンは、絵が好きだったのだ。
仕事も家族も全部捨てた。

画家ではなかなか食えないが、それでも「好き」にこだわった。
生来の自信過剰も手伝った。(これは道楽を極めるのに、絶対必要な条件である。生業や仕事ではまずいかもしれないが、道楽ならこれがなければ、大成しないはずだ。)

セザンヌからは「シナの切り絵」と酷評され、ずっと後半生は極貧の生活に甘んじ、ほとんど南海のあばら屋でのたれ死にしたようなものだ。

が、2015年、ゴーギャンの「いつ結婚するの」は、プライベートセールでの販売価格はなんと360億円。絵画史上の最高落札価格をヒットした。

同時代の印象派の名だたる画家たちの作品とくらべても図抜けて高額だ。

ゴッホの「ガシェ医師の肖像」は、125億円。
セザンヌのあまりにも有名な「カード遊びをする人々」が307億円。
ピカソの、これまた有名な「アルジェの女たち」が201億円。

彼らより、絵画史上においては、一歩も二歩もその存在価値は低く見られているゴーギャンだが、商品価値は図抜けている。

生前、そうした栄誉に浴すことがなかったのは、残念なことだが、本人悔いてはいないだろう。

こういう「日曜●●」という偉大な芸術家というものは確かにいる。
ゴーギャンの場合はしかし、仕事を放棄してしまった。
だから実生活では地獄を見る羽目になった。

彼と違い、終生、仕事と道楽(と言ったらおこられそうだが、一応生業や仕事以外の「好きで行う」活動をそう呼ばせてもらおう)を両立させた人物もいる。

たとえば、宮沢賢治だ。
彼は、詩や童話小説を書くのが好きだったに違いない。
しかし、ずっと花巻農学校の教諭として過ごし、その後は農業をし、農業指導に明け暮れた。
この間、ただの一度も商業出版したことはない。

「注文の多い料理店」と「銀河鉄道の夜」の2作品だけ、それも自費出版であったから、生前はまったくの無名であったと言っても過言ではない。

究極の道楽である。

かといって、教員や農業、農業指導を、仕事と割り切っていたのではない。
おそらくこれも命を削るのもいとわないほど「好き」だったに違いない。
しかも農業指導などでは、ほとんと無償奉仕に近い活動だった。
まともな生活の糧になどなっていなかったのだ。

言うなれば、詩作や童話執筆なども、教員や農業・農業指導も、どれもこれも彼が死にたいほど好きなことばかりだったのだ。

畑山博著『教師宮沢賢治のしごと』には、こう書かれている。
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・・・
月の夜、そば畑の花があまりに美しいので、一人でそこで泳いでしまう先生でした。
いつも服やズボンのポケットの中を、何かしらない宝物でいっぱいにしている先生でした。
私が、この今の人生を全部投げ出してでも、生徒になって習いたかった先生でした。・・・
その先生の名は花巻農学校教諭宮沢賢治。この世で一番美しい、あの物語「銀河鉄道の夜」を書いた作者です。
・・・
公式だけでは絶対に解けない代数の問題。
生徒たちを二班に分けて競わせた英語のスペリング競争。
土壌学の授業では、地球の成り立ちをまるで詩のようにうたいあげ、肥料学では、一枚の細胞絵図から生命の記憶を説き起こす。
そして、まだ生まれたばかりの『風の又三郎』や『春と修羅』の作品群を生徒たちに朗読して聞かせたという国語の授業・・・

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きっと、宮澤賢治にとっては生活のすべてが、道楽そのものだったといっていい。
歯を食いしばって行っていることなどに、一体だれがこれだけの共感や感動を呼び起こされるだろうか。
必死の道楽以外に、これだけの他人への影響力を及ぼすことはできまい。

音楽の世界にも、こうした希有な道楽者がいる。
たとえば、ロシアのアレクサンドル・ボロディンである。

リムスキー・コルサコフやムソルグスキーなどとともに、「ロシア五人組」と呼ばれるクラシックの大作曲家の一人だ。

かれは帝政ロシア時代の著名な化学者だ。

サンクトペテルブルク大学の医学部に入り、最優秀で卒業し、陸軍病院に勤務。
24歳のときに、医学会議出席のため、欧州に長期出張し、そこでムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、本格的に音楽というものに興味を持ち始める。(幼少期から、ピアノの稽古をしており、音楽の素養はあった。しかし、正規の音楽教育を受けたのは、30歳になってからである。)

ボロディンはあくまで化学者であった。
ピサ大学(伊)では臭化ナトリウムを使った有機窒素の定量法を発見。
ハイデルベルク大学(独)を経て、母校サンクトペテルブルク大学医学部生化学の助教授・教授と昇進し、終生にわたり有機化学の研究家として多大な業績を残した。

収入はすべて化学者としてのもので、とくにアルデヒドに関する研究では、非常に尊敬されていた人物である。
ボロディン反応(ハロゲン化アルキルの合成法、ハンスディーカー反応の別名)として、その名は化学史に刻まれている。
つまり、完全な「日曜作曲家」だ。

なにしろ化学者、教育者として繁忙を極めていたから、同時代のクラシックの大作曲家たちと違い、多作ではなかった。

未完成作品も意外に多い。
オペラ「イーゴリ公」、交響曲第3番など未完成だ。
チェロ・ソナタにも未完成品がある。

しかし彼が遺していった音楽は、いかにもロシア的な、骨太の叙事詩的性格と、切ないほどの叙情に溢れたセンチメンタリズムに満ちており、その比類無い和声法は、ドビュッシーやラヴェルなどフランスの作曲家に大いに影響を与えている。

ボロディンは、53歳の若さで急死した。
謝肉祭の週間に、数人の友人を呼んで上機嫌に歌って踊って楽しんでいたが、突然ひどく青ざめて卒倒。動脈瘤の破裂だったという。

生前、妻エカテリーナに捧げた弦楽四重奏曲第2番は、わたしが知る限り、もっとも美しい名作だ。
ボロディンが愛を告白した20周年の記念として献呈されたものだ。
宮沢賢治ほどの早死にではないものの、惜しい。

日曜作曲家の道楽の金字塔といってもよい弦楽四重奏曲を、今宵耳を傾けてはいかが?

ボロディン 弦楽四重奏曲第2番第1楽章

同第3楽章

おまけ・・・

歌劇「イーゴリ公」から、「ダッタン人の踊り」→ソロ・ギター編曲版:

 



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