師を慕い、師を超える。
これは459回目。
蕪村の話だ。
与謝蕪村。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人。
江戸俳諧中興の祖といわれる。
27歳の時、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧体となって東北地方を周遊した。
金が無いので、絵を宿代の代わりに置いて旅をした。
花開いたのは、40歳を超えてである。
与謝蕪村の時代では、連歌タイプの俳諧ではなく、発句(連歌の一番最初の五・七・五の部分のこと)だけを詠むことが主流になってきた。
この発句は明治以降「俳句」と呼ばれるようになる。
俳句自体は、写実的な句が得意だった。
独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱えた。
それだけだったら、優れた写実的な俳人として名を残したかもしれない。
が、蕪村のすごさは、俳句以外の世界でも開花したのだ。
俳画の大成者でもある。
絵は独学であったと推測されているようだ。
いわゆる「南画」である。中国の画家が描いた文人画の世界に、叙情性を加えた南画からはわたしなどは、池大雅の有名な南画シリーズ「十便十宜図」のうち、「釣便図」がとりわけ好きだ。
その洒脱な画風は、心を豊かにさせてくれる。
たまらない陽気を与えてくれるからだ。
その南画を、蕪村も描いた。
そして、むしろこの絵のほうが、当時の日本においてはむしろ高い評価を得ていたようだ。
蕪村の句が評価されるようになったのは、明治以降、正岡子規、そして後に萩原朔太郎によって、その評価が確立したといってもいいくらい、ずっと遅い。
蕪村は、俳句と絵を合わせた「俳画」の創始者になるわけだが、この時点で、弟子は師匠の世界を超えた。
絵画の師を持たなかった蕪村だが、観れば、独自の境地にたどり着いたことがわかる。本人も、この俳画に強い自負を抱いていたようだ。
「はいかい物の草画、凡海内に並ぶ者覚無之候」
その軽妙洒脱な俳画は、南画とはまた違う魅力に溢れている。
芭蕉への敬慕の念は終生変わらず、芭蕉の紀行文「おくの細道」を全文書写し、そこに挿画を加えた「奥の細道画巻」を生涯に複数点制作したことにも、その思いのほどが知れる。
南画的ではあるが、それまでの薄墨による遠方の山々の形式的な表現方法から離脱していることが、一目でわかる。
雲や霞によったいわば中国的な空間のつくりから、連続的かつ具体的な空間に、蕪村は取って代えているのだ。
中国的に、遠近整えられた空間ではなく、蕪村自身がつくりあげた桃源郷をそこにデフォルメして、独自の空間を描き切っているのだ。
だから、蕪村の句は、とても「絵画的」だとよく言われる。
ほかの俳人にはない、突出したイメージの広がりが彼の五・七・五の中に感じ取ることがだれてもできる。
当時、平凡で世俗的な月並みな俳句が流行っていたが、こうした主流のものとはまったく違うものとなった。
菜の花や月は東に日は西に
さみだれや大河を前に家二軒
これらなどは、教科書にもよく使われる名句だろうが、いかにもさらっと読み流しただけでも、情景が鮮やかに脳裏に展開してくるのを感じることだろう。
わたしが好きなのは、たとえば、・・・
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
うつつなきつまみ心の胡蝶かな
住吉の 雪にぬかずく 遊女哉
きのう暮れ けふ又くれて ゆく春や
こんなところだろうか。
これは、詠めない。きっと、南画の大家といってもいいくらいの域にまで到達した蕪村だからこそ詠める俳句ではないか。
一芸に秀でるものは、きっと二芸に秀でているに違いない。
多芸(マルチタレント)ではないのだ。
両方がシナジー効果を与えて、一つの次元を一つ越えた世界を生み出すのだ。
蕪村は、現在の京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。
死因は最近の調査で心筋梗塞であったとされている。
残念ながら、その評価は先述通り、明治以降を待たなければならなかった。
江戸時代とは、こんな蕪村のような人が、あちこちで求められるままに作品を残し、歓迎され、死ぬまでその活動を維持できたというのだから、驚きだ。
なにも、江戸や都、大阪だけではなく、蕪村が旅した地方にあっても、無名の彼の一枚の俳画で、宿代が浮くということを可能にした時代なのだ。
素晴らしいことじゃないか。
今、そんなことができると思うか?
この商業主義が蔓延した世界で。
どんなに江戸という時代が、深い文化を熟成させていたかがよくわかる。
そうした「教養人」が江戸時代には、数多く、いや、そのへんにあたりまえのようにいたのだろう。
うらやましい限りではないか。
今のこの合理性ばかり求める社会で、蕪村が生まれると思うか?