円とは何か?

文学・芸術

これは157回目。日本の通貨単位は円です。が、中国も韓国も「円」です。呼び方が違うだけです。中国はユエンですし、韓国はウォンです。区別するために、元やウォンと書き表したりしてますが。

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為替の交換レートには、その国が置かれている位置や立場が鮮明に示されるという。かつてドル円は、幕末の日米通商修好条約で1ドルが1円でスタートした。どちらも、前近代国家と、開発途上国家だったから、お互い立ち位置が皆目わからなかったのだ。

明治になって、日本では西南戦争が起こり、戦費調達で国債を乱発。円は、1ドルに対して2円に暴落した。ずっと時代が下って大恐慌のころ、金本位制離脱で4円20銭までさらに暴落。その後はおおむね落ち着いていたが、第二次大戦の敗戦によって暫定的に15円に暴落させられた。これはただちに修正されて、さらに50円にまで暴落。占領下の軍事交換レートである。

1949年、東証再開のころ、ようやく1ドル360円という固定レートが始まった。この「360円」という数字は、敗戦の焼け跡に立った日本人にとって、いわく言いがたい無力感を与えた交換レートである。国際連盟時代に常任理事国であった日本が、対ドルで3ケタの交換レートである。いかに敗戦国とはいえ、3ケタの交換レートの国など存在しない。

俗説では、円周に等しい360という数字の選択は、要するにゼロ(0)、お前は無価値だと思い知らせるメッセージがこめられているとも言われる。500だろうと、1000だろうと、アメリカにとってはどうでもよかったのだ。円が破滅的な暴落をした、ということを思い知らせるために、わざわざ意味深長な360という数字が使われたのだ、と。それほど、敗戦という事実は重い歴史だったはずだ。

この国家的屈辱を、日本人は歳月の経過とともに忘却のかなたに追いやったようだ。敗戦ではなく、「終戦」と呼び習わしていること自体が、日本人が失敗の本質を見極めようとせず、できれば避けて通ろうとする癖の表れかもしれない。その結果だろうか、70年代以降、変動相場制に移行して、80円を切るにいたるまでの大円高時代が到来したが、その前半は、日本が再評価されたと勘違いしたのか、バブルに舞い踊った。果たして、あの8月15日を本当に経過した国民なのかと目を疑う。

しかも今度は、円安を喜ぶという異様なありさまとなっている。なるほど、この過去20年にかんがみれば、円安でこのデフレを脱却していくことができるかもしれないという期待感から、円安を渇望したのはわかる。株価も上がったし、不動産も上がった。しかし、円安の本質的な意味を、日本人は心のどこかで身にしみているだろうか。決してよろこばしい話ではないのだ。

かつて作家の高橋和己が自著『孤立無援の思想』の中で、太平洋戦争を3つの思想の戦いだと述べている。アメリカは、人間の非力を痛感していた。だから、それを物量と合理性で補完しようとした。中国は、やはり人間の脆弱さを熟知していた。だから、それを広大な土地に依存して敵を分散し、小規模化し、各個に分断・包囲・殲滅するというゲリラ戦で補おうとした。

日本は、あらゆる物量の欠乏と、貧弱な資源、狭隘な国土という弱点のすべてを、生身の人間という肉体で補おうとした。そして生まれたのが、「特攻」の思想であると。これは日本が未曾有の敗戦を被った多くの理由の1つにすぎない。しかし、このたった1つでさえ、本当に戦後の日本人が克服できているのか、と自問すると、なんとも疑問が残る。為替を見るたびに、8月15日を経過したことの意味を、考えさせられてしまうのである。



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