自由主義とは何か?

宗教・哲学, 政治・経済


これは435回目。

今日、安倍晋三総理大臣が辞任を正式に表明。残念なことだった。市場にたずさわっているわたしとしては、政策の不十分さ、不徹底さばかりが目に付き、フラストレーションの多い政権だったが、歴代政権に比べてみれば、その事績はもっともっと評価されて然るべきだと思っている。

安倍政権は、ご本人の言葉を借りれば志半ばで終わった。哀しいかな、ブレイクスルーにまでは至らなかった。しかしその大きな障害となったのは、頑迷な政治派閥や、財界から官界にまで、利権をいっかな手放そうとしない既得権者たちだ。

これだけ中国でおぞましい人権蹂躙が行われていても、大陸から撤退しようとしない数多くの日本企業の経営判断を見れば、それは明らかだ。

大陸では独裁政権によって毎日多くの命が失われているにもかかわらず、見て見ぬふりをする。自分たちは、「善意の第三者」だと決め込む、普段労働者の幸せなど考えもしない経営者たちが、そういうときだけ「利益を確保し、雇用を守るため」に大陸に居座り続けるのである。

自分は手を汚していないと言って、見て見ぬ振りをする不作為犯である。

人間の自由を踏みにじる者たちに加担していると言われても、とぼけた顔をしてみせる。

そんな日本の経済人に、利益を追及する資格などない。学校で教えられるまでもない、人間としての矜持の片鱗も見られないのだ。

ところで話は飛ぶが、その「自由」とはなにか?

自由主義というのは一体なんだろうか?

かつてハイエクが先鋭なこの自由主義というものの概念をわたしたちに見せた。さまざまな自由主義の考え方はあるが、ハイエクが抜きん出てすぐれた指摘をしたとすれば、それは「可謬性」ということだろう。

一言で言えば、「試行錯誤を許容する社会」ということだ。過ちといっても、犯罪は困る。しかし、間違いはあるのだ。

これを許容できない社会こそが、自由主義の敵だと言っていい。共産主義がその最たるものである。

人間の知や理性といったものは、深奥な神秘に包まれていたが、しかし実は大したものではないということがだんだんわかってきた。

それがわかり始めたのは、AI(人工知能)の発達によってである。

そもそもAIのディープラーニング(深層学習)というツボは、原理的には単純な最小二乗法という、誤差を最小にする近似計算の一つの方法にすぎない。その積み重ねなのだ。それも極端な高速で行うだけのことだ。

AIという衝撃的な誕生も、しょせんは単純な近似計算の寄せ集めにすぎないといってもいい。

AIが間違えないということはないのだ。なぜなら、AIが最小限の近似値まで迫ろうとする人間の知というものが、そもそも間違える存在だからだ。

いずれも、それだけのものでしかない。

これが人間の本質なのだ。

たとえば、先述の「敵」である共産主義はそれを認めない。共産党の指導に「間違いはない」からである。

この人間性の本質、自由、つまり「可謬性(かびゅうせい)」を否定し、一方的な独善による淘汰を強いる思想は、だから人類の敵にほかならない。

この敵の支配下にあって、「善意の第三者」をかこつ日本や西側諸国の企業というものは、一度襟をただしたほうがいい。企業人である以前に、人間であることを忘れた自分のありかたというものを。

責任ある経営者などという、屁理屈で誤魔化しても人々はみんな見ている。ハナからお里が知れているのだ。

ハイエクの市場システムというものは、多様な存在者が共存し、それぞれの自由が最大限に優先される社会である。自由が最大限に最優先されなければならない理由は、先述の可謬性から導かれるのだ。

その自由とは、自分だけの自由ではない。隣に存在する他者の自由も最大限に優先されなければならないことを忘れるな。

それを否定するものは、なんであろうと、この世から排除されなければならないのである。