自分に疲れてきたら・・・
これは434回目。みなさん、あまり「自分」のことばかり悩んでいると、疲れてきませんか。わたしはほとほと疲れるので、できるだけ考えないようにしているのです。
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世の中、どこを向いても「自分」のことばかりだ。自分に関心があるのは、当然で。わたしもそうだ。
流行の歌を聞いても、「自分」の世界観が炸裂するものばかりだ。あるいは、聞き手の「自分」を一生懸命励まそうとするものもなかには、ある。
しょせん、「自分」ご大切の世界観だが、当たり前のことではないのだろうか。この生きている世界が一つの舞台だとすれば、好むと好まざるとにかかわらず、自分が「主役」であり「主人公」だ。
その役柄から逃れることはできない。
なにをそこまでその当たり前の事実にこだわるのか。
かつてわたしもそうだった。
過ちを犯したり、失敗をしたり、思うようにいかなかったりすると、わたしなどはとくに性格的に「自分」を責める。社会や相手に恨みがましい思いもあるが、わたしの場合、それを上回るほど自分自身を責めてしまう。相当「根暗」なほうだと、思っている。
もちろん、人さまから見たら、そんなふうには見えないかもしれない。結構自己主張が強く、戦う人のように見えているかもしれない。
が、実はそうではないのだ。その何倍も、自分を責めてしまうのである。
そうすると、自分を信じたくなる。無理にでも信じようとする。
太宰治がたしか『もの思う葦』の中で、こんなようなことを書いていたと思う。(正確ではないが、だいたいこんな調子の文章だったはずだ)
「人が自分を批判すると、なに言ってやがると思う。人が自分を褒めると、いやそんなたいそうなものじゃないんだと、恥ずかしくなる。」
人間、この繰り返しをしていたら、ほんとうに疲れてしまうのだ。
そのことに、いつの頃からか気づいた。
で、わたしはどうしたかというと、「自分」をできるだけ捨てようとした。
もちろん、そんなことはできやしない。それは付き従う影のようなもので、どんなに突き放そうとしても、それ自体無駄なことだ。
ただ、「自分が●●」という発想に、一番の上座を与えないようにしたのだ。
「横に置いておく」ような感じかもしれない。
その代わり、「この状況には、きっと意味があるのだ」と思うようにした。どんなに酷い事態に陥っても(それが、自業自得か、不可抗力的なピンチかは問わず)、「次になにかが起こる予兆なのだ」と思うようにしたのだ。
もっと言えば、「これはわたしになにかを気づかせようとしているのだ。」と思うようにしたと言ったらいいかもしれない。
そうすると、不思議なことに、明日をわくわくして待ち望むようになってくるものだ。
もちろん、不安でどきどきしてしまうこともあるだろう。
なにが起こるか誰にも予想はできないからだ。
しかし、不思議と人間というのは、自分をいったん捨ててしまうと、「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあり」という言葉通り、ふわりと軟着陸することが多い。
ずいぶん前のことだが、武田鉄矢さんがご母堂から子供の頃聞かされた言葉を知った。
極貧時代のことだったと記憶している。母親が言ったそうだ。
「よう味わっておけ。こんなことは滅多に経験できんぞ。これが大底ってものだ。」
これも正確ではないが、そういったニュアンスだったと思う。
偉いご母堂ではないか。つくづく関心した。
必ず、転機が訪れる自然律を知っている人だけが吐ける言葉だ。
「わくわく」であろうと、「どきどき」であろうと、どちらでも良いではないか。ずっと「自分」という内の中に閉じこもって、自分でさえよくわからない自分を見つめているより、ふと目を離して明日を期待したほうがずっと健康的だ。
表現を変えてみれば、「闇の中の手探りを楽しんでしまえ」、ということだ。
わたしがそんなコツを覚えたのは、おそらく株式市場にかかわって長いからかもしれない。もう30年だ。昔から、市場では暴落や、長い低迷期のときに、ずっと言い習わされてきた言葉がある。
・・・明けない夜は無い。