仏に会わば、仏を殺せ。

宗教・哲学

これは454回目。

なかなか出来ないことなのだ。
生き馬の目を抜くような、娑婆の世界にあって、泰然自若として生きていくということは。

仏教では、それを説くが、ほとんどの経典は、寺院や僧侶、いわゆる出家した側からこれを説く。
しかし、非常に稀有な例だが、『維摩経』というのは、反対に市井の人が説いた珍しい経典だ。

大乗仏教の根本を説くこの『維摩経』は、全編物語のような筆致で進む。

維摩居士(ヴィマラキールティ)は、釈迦の在家の弟子である。
彼が病臥に伏したというので、釈迦が菩薩たちに慰問させたのだ。

ところが、みな、皮肉屋の維摩居士と論争となった挙げ句、ことごとくやりこめられて、ほうほうの体で帰ってきた。
誰も、もう維摩居士を見舞いにいこうとはしなくなった。

その中で、最高の知恵者・文殊菩薩が訪れて行くこととなった。
宇宙・天体の奥義を極めたというあの文殊菩薩である。

果たして両者の間で、丁々発止の論争が巻き起こり、まるで活劇でも観ているようで、仏経典としては驚くほど面白い。
妙法蓮華経も、説話のオンパレードであるから、その意味では面白いのだが、維摩経の寸鉄釘を刺すような描写はまた格別のものである。

一言で表現すれば、「無著(むじゃく)」。
つまり、「とらわれるな」ということに尽きる。

人の命、人生というものは、水の泡のようなものであり、いつ消え去るかわからないものなのだ。
そんなものに執着してはいけない。
人生は無常なものなのだから、さらりと生きて行くことが大切なことだと。

それはブッダの言説集の最も古いスッタニパータなどの言葉に非常に近い。
以前もこの閑話休題で代表的なものを引用したことがある。

・・・神も人も、ものを欲しがり、執着にとらわれている。この執着を捨てよ。(スッタニパータ 第2 10-333)

・・・なんでも与えられていないものを、取ってはならない。(スッタニパータ 第2 14-395)

ブッダの一番古い言葉には、こうした「無著」を説く詩のようなものが多い。

曰く、「音に驚かない獅子のように。網にとらわれない風のように。水に汚されない蓮のように。」
曰く、「満ちていく潮のように。忍び寄る月のように。」

他の多くの後世の経典は、ロジックが非常に多い。
たとえば、各種の般若経典というものは、「空」という概念に集中的に説く。
とてもむずかしい。
ロジックがあるからだ。
それ故か(ロジックを飛ばしてショートカットすると言ったら語弊があるだろうが)、全典にわたって呪術的な色彩が強い。
最後は呪術で超常的な験を生み出そうとする。
いわば、問答無用である。

般若心経も、空を簡潔に説いているものの、ロジックはロジックである。
「有る」のに、「無い」ことの説明が肝なのだが、なかなかわたしのような素人には長いこと難解であった。
とどのつまりは、「ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテーボージーソワカ」と唱えよと心経は議論を締めている。

長大な大般若経も、随所にこうしたマントラ(真言)や、陀羅尼(だらに)という、いわば呪文が引っ張り出されている。

妙法蓮華経ですら、この各種宗派とも、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えることを最終的な行の着地点にしている。
言うなれば、これも一種のマントラにほかならない。

浄土系宗派でも同じだ。「南無阿弥陀仏」などはその最たるものだろう。

しかし『維摩経』には、こうした呪文の類は一切出てこない。
なにしろ在家であり、七面倒臭いロジックも及びでない。

そうした七面倒臭いロジックをふっかける文殊を、維摩居士はひらりひらりとかわして煙にまく。

だから、ロジックや文字に頼って解脱することを勧めない。
そして、「煩悩を断たずに、涅槃に入る」ことを説く。

維摩居士は言う。

・・・わたしは掌(てのひら)の中にあるマンゴーを見るように、三千大千世界の仏国土を見る。

そして出家してた悟りと教えの専門家たち(職業僧侶)を嗤う。

・・・出家(無為)には、利益(りやく)も功徳もない。絶対的境地だからだ。しかし、娑婆(有為)にこそ、利益も功徳もある。

そうなのだ。愛欲や怒り、愚かさから離れることで、解脱が得られると人は考えがちだ。
しかし、維摩経ではそうは言わない。
経典中に出てくる天女が言う。

・・・それらを離れて解脱するというのは、慢心のある者に対して説かれたものだ。慢心のない者においては、愛欲や怒り、愚かさといった本姓のままに、それ自体がすでに解脱なのだ。

高騰なロジックも、超絶的な修行も無意味だということだ。
これが、俗に言う在家における                                 『不二の法門』と言われるものである。

文殊との問答の最後のほうに、さまざまな菩薩たちがこの『不ニ』とはなにかを説いている場面がある。
全員が説き終わったところで、文殊菩薩も促されて自説を説く。

「・・・それは、無語、無言、無説、無表示であり、説かないということさえ言わない、・・・これが不ニに入るということだ。・・・」

そこで維摩居士の考えを一同が求めた。
すると、維摩居士はただ沈黙を守った。
それを観て文殊菩薩は満足だった。

この場面は、『維摩経』の中でも最も圧巻とされる名場面だ。
これは後の禅に通じる。

「無著」の先には、束縛されない自由な境地があると言える。
「煩悩即菩提」「生死即涅槃」というのも、これに通じる。
大乗仏教の真骨頂を表している『維摩経』は、ときに曲解されては危険な経典とも扱われたりした『理趣経』とその説くところは同じように思える。

そう言えば、『理趣経』第七段・転字輪の法門では、文殊菩薩が登場し、一切の如来を切って捨てる場面がある。

「仏に会わば、仏を殺せ」(碧巌録)

さてわたしたちは、一日のうち、何回この執着を捨てることができていようか。
いや、執着を捨てたことも忘れているようでなくてはならないのだが。



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