河童とこけし
これは218回目。河童(かっぱ)もこけしも、いまや全国区的なものですが、やはりそのメッカといえば東北地方でしょう。それが生まれた淵源を辿っていくと、面白いことがわかってきます。果たして本当でしょうか。
:::
こけしは、もともと木(こ)で作った、芥子(けし)粒のような小さな人形ということで、「こけし」と呼ぶようになったという。このこけしの通説に対して、1960年代に異論が出てきた。「子消し」などは、その代表だが、要するに貧困の中から生まれた「間引き」によって、親がその子を供養する意味合いで作られたという解釈である。
これに、「だからこけしはどれをとっても、何やら悲しげな表情をしている」といったような解釈まで上書きされた。だが、幕末の記録に、「こふけし(こうけし)」という名称が確認されていることから、この段階ですでに、「こけし」に近い呼び習わしがあったということになる。「こふけし」はどう考えても、「子消し」には結びつきそうにない発音だ。
また、木で作った芥子粒のように小さな人形というのも、「こふけし」という音からは、やや距離が遠いような気がする。このへんは、言語学者にでも聞いてみないと判然としない。
なんでもかんでも東北のかつての貧困と、その習俗を結びつけるのも、やや解釈が偏りすぎているだろう。そもそも、こけしは、圧倒的に湯治場に多く点在することから、あまり「子」とは関係がないような気すらする。湯治場は、農民にとっては疲労を癒す必須の場所だった。
ただ、子に関係する点としては、赤物(あかもの)という赤い染料の発達が、こけしの誕生にはこれまた必須だった。赤は天然痘から身を守るとされていたことから、子供に持たせて遊ばせるには格好のアイテムであった、という発生理由もここにある。
さらに、山の民は、その昔、どこの山でも八合目以上の木なら自由に伐採できる特権があった(木地師=きじし)。その特権が失われ、山から下りた彼らは湯治場に定着し、農民などの湯治客相手に、縁起物の土産として轆轤(ろくろ)でつくり、赤で彩色したものを作り始めたらしい。こうしたいくつかの要素が合体した段階で、こけしが誕生したのではないか、と言われている。
となると、陰惨な「子消し」説は吹き飛ぶことになる。ところが、一方でやはり東北に多い、河童伝説のほうは、この忌まわしい「間引き」とのかかわりを、依然として強烈に残している。
周囲に「間引き」を悟られぬよう、河童にさらわれたといったような嘘をついたことが、その本質であるらしい。河童と相撲を取って負けたら肝(キモ)を取られて死ぬとも言われたが、この場合の肝というのも、俗に言う肝臓とはまた違うようだ。肛門に近いあたりともされているが、実際には架空の臓器らしい。
キモを取られた死体は、いわば肛門の括約筋(かつやくきん)が弛緩しきった状態(水死体)を形容しているともいう。河童の形状そのものが、水死体の形状をデフォルメしたものとも言える。さらに、「仏前に供えた飯を食って河童と相撲を取ると、絶対負けない」という言い伝えは、いわゆる亡者(河童)による復讐・怨念に対して、調伏する意味合いを示している。
こけしの「間引き」由来説は、ほぼ破砕したと思うが、河童のほうは、なかなか手ごわい。ただ、未だに各地で河童の目撃談があるわけで、ツチノコと並んで、全国区的な未確認生物の代表格と言える。
民間伝承や民芸文化というものは、ときに暗黒の生活裏面史を色濃く映しているものもあれば、まったくそれとは無縁のものもある。その一つひとつの謎を解きほぐしていく民俗学者の仕事は、大変な作業だろう。一方、壮大なパズルを小さな1ピースごとにはめこんで、その実体がどういう形をしているのかを想像していくわけであるから、これほど面白いゲームもない。
それは童謡などにも及んでおり、「花いちもんめ」は、歌詞をつぶさに読めば一目瞭然。「子供を対象にした、人買い」の歌であることは、誰でも分かる。が、「とおりゃんせ」や「かごめ」になってくると、一種の交霊術・降霊術だという説に始まり、多種多様な解釈が炸裂していて、いまだに定説というものが出来ていない。
しかし、存在しているものには必ず意味がある。およそ人工的なもので、無意味なものというのは、あり得ないのだ。とりわけ、日本という国の、もっとも原色をとどめる地域として、豊後から高千穂にかけての一帯、そして、なんといっても東北という世界が、日本人本来の姿の「謎」を数多く残している。
その「謎」の手がかりが広範囲にわたり、天災によって多くの人命とともに、跡形もなくこの地上から消え去ってしまった。東京が失われるより、もっと深い意味で悲しみを覚えるのだ。
ただ、・・・河童を実際に見たと言う人が、結構いるのだ。それもまともな信頼に足る人たちが至近距離で出くわした、という例が実際に何件もあるのだ。河童はただの伝説ではないのだろうか。