エスプリとユーモア~冗談にも色々ありますが。

宗教・哲学


これは122回目。いろいろ人を笑わせる冗談(ジョーク)というものには、種類があります。大きく分けて、エスプリとユーモアだと言われます。あなたは、自分の言う冗談がどちらだと思います? そして、それはどう思われていると思います?

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ジョークとは、聞き手や読み手を笑わせることだ。ただ、同じ笑いを取るのにも、えらい違いがある。つとに有名なのが、エスプリとユーモアである。よく知られているのが、フランス人の笑いは、基本的にエスプリが多いことだという。そして、イギリス人の笑いは、ユーモアが基本なのだそうだ。

近年、このフランス的なエスプリの効いたジョークが問題視された「事件」があった。フランス国営テレビ「フランス2」が放送した情報バラエティー番組で、サッカーのフランス代表と対戦した日本代表のゴールキーパー川島永嗣さんに、腕が4本ついている合成写真を映した。そして司会者が、「日本には素晴らしいゴールキーパーがいた」と述べ、「福島(第1原発の事故)の影響ではないか」と揶揄(やゆ)する発言をしたのだ。

これについて、スタジオの一般参加視聴者からも拍手と笑いが起きたという。日本がフランスに1対0で勝ったこともあって、「負け惜しみ」ということなのだろうか。「趣味の悪いジョーク」が炸裂したわけだ。

これで笑う人たちについては、その感性や人間性を疑う。ただ、フランス的なジョークというのは、得てしてこういうものなのだ。被爆という現実を、こうしたジョークで笑い飛ばす感覚というのは、なかなか日本人には理解し難いものがある。が、フランスのジョーク、俗に言うエスプリというのは、人を「けなし、貶める」パターンが実は多い。

フランスというのは、だいたいがこういう文化性が強そうだ。2006年に、週刊風刺新聞「シャルリー・エブド」が、イスラム過激派による世界的なテロ事件を非難するために掲載したものが、関係者・警察官12名を殺害するテロを誘発したことなどは、記憶に新しい。

その内容は、「原理主義者にお手上げのムハマンド(イスラム教教祖のマホメット)」と題した表紙画で、頭を抱えるムハンマドが描かれ、吹き出しには「ばかどもに愛されるのはつらいよ」と書かれていた。

平時で、しかもキリスト教とイスラム教がなにも紛争を抱えていない状態であればいざ知らず、状況が状況である。フランス政府ですら、「行き過ぎた挑発だ」と自粛要請をしたにもかかわらず、シャルリー・エブドは「表現の自由」を大義に掲げ、さんざん強烈な風刺(罵倒といってもいい)を繰り返した。結果が、悲惨なテロだった。

これを、大阪のジョーク(ツッコミ)が似ていると言ったら、かなり飛躍になってしまうが、相手に対する攻撃的な発言で笑いを取るというパターンでは、いわゆる関西の漫才も共通した点がある。ところが、関西漫才とフランスのエスプリでは、実は決定的な違いがある。

関西漫才の場合は、聞いていて不快に思うぎりぎりの臨界点で、寸止めをするところがワザであり見事な芸なのだが、フランスのエスプリは寸止めをしない。徹底的に相手をつぶして笑いを取るようなパターンが見受けられる。似て非なるものである。

しかも、大阪人のツッコミというのは、それ自体が笑いなのではない。ボケという強烈な自虐的ギャグを引っ張り出すためのトリガー(引き金)だという点も忘れてはならない。二つの掛け合いが、笑いを生むのだ。フランスのエスプリには、ハナからボケなどはない。フランス人には、自虐的ギャグなどという発想はないのかもしれない。

皮肉、揶揄、侮蔑、こきおろし、けなしで、上手に笑いに持ち込むのがフランスのジョーク・エスプリなのだが、これも先述の「腕4本」の話などは、さすがのフランスでも問題視する声が上がったそうだ。ここまでくると、およそ品格が疑われる。

一方、イギリス人が得意なユーモアは、このフランスのエスプリとはまったく逆で、どちらかというと「自虐的笑い」のネタなのである。自爆型のジョークなのだ。コメディアンのローワン・アトキンソン(なんと、オックスフォード大卒のエリートだ)の『Mr.ビーン』シリーズなどを想起してもらえば、あああれか、と合点がいくはず。それはおそらく、イギリスのユーモアというものが、どこかで「マナー」と密接に結びついていることとも大いに関係があるのではないか。

イギリスのユーモアの一端を垣間見ることができる、分かりやすい例がある。
中国かインドか不明だが、外国から要人を歓迎するために、英国高官がホストとなって晩餐会を開いた。その要人は、フィンガーボールが目の前にあったので、お茶だと思ってその中の水を迷わず飲んだ。居並ぶ英国人たちは、ぎょっとした。フィンガーボールは、食事中に卓上で汚れた指を洗い、脂を落とすために使うものだからだ。

それを見たホストは、賓客に恥をかかせるのは忍びないと思い、自らもフィンガーボールの水を飲んでみせた。ほかのイギリス人たちも、笑って一斉にフィンガーボールの水を飲んだという。

それが、実際にあった話かどうかはともかくとして、これがイギリス流だとされてきたこと自体が、イギリス人のユーモアのセンス、マナーを重んじる精神との関係を如実に表している。いずれにせよ、相手を不快にさせることは“罪”だという、イギリスのジェントルマン・スピリットなのだろう。そうなのだ。マナーというのは、人を不快にさせないこと、ただそれだけなのだ。作法そのものではない。

フランスなどの欧州大陸と比べて、どうも日本人はイギリスのほうが「普通に話ができる」相手のような気がするのだが、どうだろうか。

オリンピック招致決定後、フランスの有力新聞「カナール・アンシェネ」は、腕や足が3本ある力士が土俵で立ち会っている風刺画を掲載、「すばらしい。福島のおかげで相撲がオリンピック競技になった」とのコメントをつけた。ことほあとさように、私などには欧州大陸のこうした“文化性”というものが、「下品」を通り越して、不快に思えてならない。

ただここに一つ、もう少し突っ込んでみたほうがいい問題もある。先日もこのNOTEで書いたが、パリという文化性と、その他の伝統的なフランスの文化性では、相当懸隔があるらしいということだ。

パリジャンはパリジャンであって、フランス人ではない、とすら言われる所以だ。もしかすると、わたしのように知ったかぶりでこんなことを書いているのはやはり間違いかもしれない。この一連の「フランスのエスプリ」というものを、欧州大陸全般の傾向であるかのように錯覚しているだけにすぎないのかもしれない。

この特有のエスプリというのは、パリならではのものであって、フランス全土は全然違うエスプリなのかもしれない。実際、シャルリー・エブド襲撃事件の前、フランスでは同紙の風刺画に対して、かなり批判が強かったという。やはり、なんでも物事を一面だけで観てはいけないのかもしれない。



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