誰が信長を殺したか~その5

歴史・戦史


これは217回目。最終回です。家康が、本能寺以降、異常なほど豊臣にたてついた背景は、何だったのでしょうか。そこには「裏切りの裏切り」に対する、執念のような報復という目的があったのではないでしょうか。

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いずれにしろ、光秀はこの共謀者・秀吉の裏切りに狼狽する。そして、畿内の盟友たちを糾合するが、いずれも同調しなかった。あの細川でさえ、与力しなかった(細川こそ、光秀に引き金を引かせて、秀吉に空白の権力を簒奪させる裏シナリオの実行者であったかもしれない。もちろん、その裏シナリオ作成は、堺の商人とバテレンの入れ知恵であろう)。光秀は衆寡敵せず、天王山に敗れて逃亡し、京都伏見の小栗栖(おぐるす)で土民に討たれて果てた、ということになっている。

そこは近衛前久の盟友・観修寺晴豊(かしゅうじ はるとよ)の領地である。まずこれもおかしい。近衛、観修寺ともに、変の成功に拍手喝采した人物たちである。もっとも公家衆は、光秀が合戦で秀吉に敗れたため、謀議が漏れて自分たちの身が危なくなると危惧し、領内で謀殺したのかもしれない。「光秀の首」と呼ばれるものも腐敗がすすんでおり、はっきりと識別はできなかった。ちなみに、明智勢の敗北で本能寺の変は“三日天下”となり、光秀重臣の斉藤利三も討ち死にした。しかし、その後秀吉によって埋葬場所から掘り起こされ、なお磔(はりつけ)で晒(さら)された。

つまり秀吉は、謀議に直接かかわっていたか、あるいは積極的に黙認したか、どちらかの可能性が高いということだ。しかも、そのシナリオを逆手にとって主君に謀反を起こした光秀を討ち、次の政権の正当な継承権を得ようとすれば、これ以上千載一遇のチャンスもあるまい。この「裏切りの裏切り」は、5月15日の安土城における光秀による家康饗応以降の、おびただしい不可解かつ奇妙な謎を、見事につなぐほどの説得力を持っている。結局のところ、謀反を光秀一つに負わせ、秀吉が空白の権力を簒奪(さんだつ)することは、最初から計画通りであったわけで、光秀は体よく「乗せられた」ことになろうか。

秀吉は、光秀を討つことで後継政権での地位を確固たるものにしようとした。ただし、当然その場合、それと引き換えにバテレンから見返りを要求されていたはずだ。それが、「信長が守ろうとしなかった約束」の履行であろう。それが明国への侵略戦争であったとも考えられるし、実際秀吉は履行する。気が狂ったとか、誇大妄想とか批判される朝鮮出兵だが、信長もこの計画については生前言及しており、秀吉が突拍子もないことをしたわけではない。

ところが、朝鮮半島での苦戦から、どうも怪しくなってくる。バテレンによる見返りの督促は引きもきらない。秀吉は慶長2年( 1596年)、二度の朝鮮出兵の間の期間に明確なキリシタン禁教令を発布し、実際に大量処刑に踏み切っている。結局、秀吉も権力を握った後、信長とバテレンの公約を継承したものの、目処が立ちそうにないということが判明してくる段階で、ついに反故にした。それどころか、無用で邪魔な存在とみなしたのだろうか、キリシタン弾圧政策に変更したことになる。つまり、手切れである。

さて、話は戻るが、本能寺における、秀吉による「裏切りの裏切り」は、よほど家康に深く恨みの念を残したようだ。家康のその後の秀吉への、異常なまでの反抗的態度というものも、理解が容易になってくる。以後、この変への関与者と目される人物で、最も注目される動きをしたのが、ほかならぬその徳川家康である。

家康は本能寺の変後に天下を取った秀吉から、何度となく上洛せよとの命令を受けたが、ことごとく拒否して、小牧・長久手では、乾坤一擲とも言える決戦を行ない、実力で秀吉の圧力を撥ね退けている。変後に大勢力となった秀吉に、三河周辺だけの家康が対抗できた最大の理由は、迅速に武田の遺領である甲信地区全域を治める大大名に変貌していたからにほかならない。

もし、本能寺の変が共謀者たちのシナリオ通りに展開していたのであればともかく、意に反して秀吉が裏切ったとすれば、その秀吉の意図は明白(次は、自分が殺られる)であるから、家康が対抗するには、甲信地区の強奪による大大名化しか選択肢はなかったわけである。

家康の、反秀吉のスタンスは終生変わらず、33年後に豊臣家を滅ぼして、宿願を果たす。長々と諸説を織り交ぜながら本能寺の変の裏読みをしてきたが、家康が、光秀と非常に近かったことを裏付ける重要な事実を記しておく。

関が原合戦の4年後、慶長9年( 1604年)に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の家光)の乳母に、「ふく」という武家の離婚女性が正式に任命される。正史では、徳川が高札を立てて乳母を募っていたのに応募し、合格したということになっている。後の三代将軍の乳母の人選である。しかし、そんな馬鹿な話があるわけもない。

ふくは、家光を全力で育て上げ、あらゆる諜略を駆使して三代将軍の座を確固たるものにさせる。家康亡きあとも幕府の裏側で大奥という権力中枢を築き上げていく。これが後の春日の局(かすがのつぼね)である。そして、この春日の局こそは、家康を謀殺から救った恩人・光秀の重臣、斉藤利三の忘れ形見にほかならない。表向き、織田信長、豊臣秀吉という権力の継承を受けた徳川家康が、信長謀殺の張本人である明智方重臣(それも、もっとも反信長色の強い急進派)・斉藤利三の娘を、三代将軍の乳母などにするであろうか。誰が見ても、不可解な事実だ。その答えは、一つしかあるまい。

そもそも、三代将軍・家光が、「家」康と、「光」秀の二字を取っていることも意味深長である。二代将軍・秀忠の正室は織田信長の妹・市の娘・於江与であっただけに、この名付けは普通であれば忌避されて当然。それを強行している。しかも、家光自身が、秀忠の子ではなく、家康とふくとの間の子であるという説は、非常に根強く残っており、それを明示している文書・文物まで残されている。つまり、家康は、秀忠と於江与の血筋には跡目を与えず、徳川に入り込んでいる織田の血を絶やして、自身と明智一党の血脈に次代を委ねようとしたとしても、不思議ではない。

こうなると、徳川幕府は、明智光秀によって引き起こされた本能寺の変に始まり、33年の時を経て、共同謀議者である徳川家康によって完成された、壮大な権力争奪のプロジェクトだったということになる。そこには、さらにプロジェクトを補強する朝廷、バテレン、堺の商人、そして秀吉まで巻き込んだ。“完全犯罪”の匂いがプンプンするではないか。

その大プロジェクトは、秀吉の変節によって頓挫し、家康はその後、執念のプロジェクト遂行に成就する。プロジェクトが当初の計画通りではなく、秀吉の「裏切りの裏切り」を引き起こしてしまったことを深く悔い、その元凶であったとされるバテレンの追放と弾圧を、秀吉以上に苛烈に行なったのは、この背景ゆえであろうと推察される。そして、今はなき、悲運に倒れた光秀一党への慙愧(ざんき)の思いを抱いた家康が(明智光秀は、信長による家康謀殺の危機を救ってくれた恩人であり、謀反の盟友である)、その一党の血脈との間に実子をもうけて、徳川300年の礎としたという、およそ正史や教科書には載らない仮説が浮かび上がってくる。

よく知られていることだが、日光東照宮のある一帯には、華厳の滝近辺に明智平(あけちだいら)と呼ばれる地域がある。家康が、未来永劫、幕府を加護しようとした墓所近くにこの地名があることも不思議だ。家康の側近・天海上人が名づけたといわれるが、この天海は家康の歴史の中で、本能寺の変の後、突如として登場してくる。出身も年齢も、およそ現実離れしていて、謎だらけの人物だ。

記録によると「ふく」は天海と以前から知り合いであったようだ。しかも、天海のほうが上位である言葉の使い方だった。二人が公式の場で初対面した際の様子の目撃記録では、ふくが「おひさしゅうございます。」と頭を深く垂れたというから、ずっと以前、しかも主従の関係であったことが伺われる。

俗説では光秀は死んでおらず、天海に成り代わったというのもあるが、光秀の片腕として重用されていた明智秀満(自身が光秀の縁者であり、妻は光秀の娘)が、変後に自害したのではなく、生き延びて天海上人として家康側近となったとも言われる。このあたりは定かではないが、天海上人が、かなり明智一党の中枢に位置した人物、なおかつふくの父・斉藤利三より上位だったことから、明智一族の一人だったことはうかがわれる。

歴史は、やはりことごとく残った者によって書き換えられている。それを解きほぐすのは容易なことではないが、これからも多くの研究者たちによって、少しずつ、疑念の糸がほぐれされていくことだろう。

(了)



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