いざ、鎌倉!
これは450回目。
日本という国は、いまだかつて外国に侵略されたことがない。
いや、一度だけある。
元寇だ。
戦後の教科書では、この元寇の記述に関しては、共通して言えるのは「暴風雨」によって元軍が撤退したという記述がほぼ100%確認できる。
戦前の「皇国史観」を批判する勢力が世上支配的であったのに、不思議である。
「神風」は否定したいのではなかったか。
おそらく、蒙古軍の侵略が失敗に終わった要因は、ほとんど鎌倉武士による「奮戦」であったことは明らかになっているが、それを記述するのを敬遠する嫌いがある。
そのため、暴風雨で元軍が壊滅的打撃を受けたと記述しているのであろうと推察される。
戦争に勝ったのではなく、自然の猛威によって蒙古軍が壊滅したのだと言いたいのだろう。
とにかく、ことほとさように「戦争」の記述を避けるのだ。
戦史こそ、しっかり学ばなければならないのに、日本の戦後教育は完全に偏向している。
ここで、元寇をあらためて、時系列的に確認しておこう。
1度目が文永の役(1274年)、2度目弘安の役(1281年)。
3度目も計画されたが(フビライはその意思があった)、すでに元朝はベトナムで苦戦しており、これ以上日本侵略作戦を遂行すると体制が危険にさらされるとの臣下の進言で、取りやめた経緯があるようだ。
余談だが、元寇の後、蒙古軍は1285年、1286年と1万の軍勢を派兵しており、従来蒙古支配地に侵略行為を重ねていたアイヌ人の駆逐を図っている。樺太進駐にまで至っている。
アイヌ人が大陸北方や樺太から締め出され、北海道に大挙移住してきたのはこのころであろうと推察できそうだ。
和人社会において、アイヌ人の記録が鎌倉時代にはじめて登場したことからしても、間違いないようだ。
つまり、アイヌは、そういう意味では北海道の原住民ではないということだ。
それ以前に北海道に縄文文化があったことは確認されているためである。
ただ、江戸時代以降、いわゆる和人が北海道にさかんに入植していった時点からすれば、「先住民族」とアイヌを呼ぶことは可能だろう。ただ、鎌倉時代以前から数千年も北海道に居住していた原住民ではないということだ。(注:コロボックルが、その先住民族=縄文人の末裔?という説もあるようだ。)
ではその本来北海道に居住していた縄文時代以来の原住民はどうなったか?
不明である。
一説にはアイヌ人によって絶滅させられた可能性はある。
これは議論が分かれるところかもしれない。
(注:だからといって、アイヌ人を誹謗中傷する意図など毛頭ないので、念の為。)
それはさておき、元寇である。
フビライは6回の訪日使節派遣で服属を求める交渉を試みたが失敗。
朝廷は、日本の独立性を主張する返書を用意したが、ときの鎌倉幕府執権・北条時宗は返書自体を止めた。
1274年、文永11年10月3日、蒙古・漢郡15000-25000人、高麗軍5300-8000人、水夫を含む27000-40000人を搭載した726-900艘の軍船が現在の朝鮮半島馬山を出航。
10月5日には、対馬に襲来。日本軍を壊滅させ、住民男女200人を高麗王や、フビライの娘などに献上している。
10月14日には、元軍は壱岐に上陸。日本兵は1000人あまりが討ち取られている。
10月16-17日、九州に襲来。松浦、平戸島、鷹島、能古島に上陸。
防備していた松浦党はほぼ壊滅している。
急報は鎌倉に伝えられる一方、九州武士団(御家人)が太宰府に集結しつつあった。とくに南九州武士団は急速に北上し、10月20日には、博多湾に襲来した蒙古軍と激突。
このときは、薩摩、日向、大隅などの武士団が博多に急行するのに際して、九州一の難所と言われた筑後川神代浮橋の渡河に地元武士団が便宜を図るなど、非常に機動的な対応が大いに貢献している。
決戦は博多西部の赤坂だった。
少弐景資を大将とした日本軍は、騎馬にとっては足場の悪い赤坂ではなく、博多での決戦を予定していた。
しかし、肥後の御家人・菊池武房隊が、赤坂の松林に陣を布いた元軍を奇襲し、上陸地点まで敗走させるという大金星を上げた。
このため、日本軍は追撃戦を敢行。鳥飼潟で撃破し、さらに百道原へと追撃した。
この段階では、豊後、肥前、筑後勢など九州各地からの軍勢も続々と到着しており、かなりの血戦になったと思われる。
当初、蒙古軍が上陸してしばらくは、かなり一帯を荒らし、抵抗する在地の武士団も相次いで敗れて後退するなどしていたが、上記のように続々と到着した九州武士団が膨張していくにつれて、蒙古軍の疲弊も激しくなり、21日未明の時点では博多湾から全軍撤収している。
途上、海上で防風に遭遇してさらに被害が増えた模様。
このようにざっと見ると1度目の元寇は、暴風雨はほとんど存在意味がなく、とりわけ九州武士団の奮戦だけで撃退したことがわかる。元軍被害は13500人。
捕虜はことごとく斬首された。
そこで2度目の元寇である。
7回目・8回目の使節をフビライは派遣したが、北条時宗はこれをいずれも斬首。
徹底抗戦の意思を示した。
使節が日本の内情視察などスパイ行為を働くとの判断があったとも言われる。
鎌倉幕府は、承久の変以来、50年余り発動されたことのない東国武士への大動員召集令をかけた。
九州武士団に合流するための、東国武士団の大派兵である。
東国武士団は、「いざ鎌倉」と唱和して、大移動。千葉氏など元寇後に九州土着化する前提の武士団も発生した。
1281年、元軍は朝鮮発の40000-56989人(東路軍)、江南発の100000人(江南軍)、合計140000ー156989人の大軍で日本侵略を開始。7年前とは比較に成らないほどの大軍である。
予定では、6月15日に壱岐で合流、一気に太宰府を総攻撃する計画であった。
5月3日、朝鮮半島から東路軍が進発。
早すぎた。まだこの時点では、はるか遠方の中国江南地方を、まだ江南軍は出発していなかったのである。
当時両軍の通信・連絡がうまく取れていなかったことが原因だが、この東路軍の先行進発は、弘安の役失敗の大きな要因である。
ただ、東路軍は早め進発せざるをえない事情もあった。
当時朝鮮半島は、きわめて食糧事情が悪く、恒常的な飢饉に見舞われていた。
大兵を賄うだけの糧食はきわめて限られていた。
耕作力が非常に低く、当時の日本とは比較に成らないほどだったのだ。
そのため、大兵は慢性的な糧食不足に見舞われており、むしろ日本侵略を先行して、支配地での現地調達をせざるをえないという状況だったことも指摘されている。
5月21日 東路軍は対馬に侵攻。
日本軍の激しい抵抗で、複数の将軍が戦死する事態に陥った。
5月26日、東路軍は壱岐にも襲来。
東路軍は、対馬での情報収集によって、日本軍が太宰府の西六十里から移動したことを知り、その間隙を衝いて一斤太宰府を占領する戦術に出た。
当初の計画と異なり、江南軍の到着を待たず、単独で手薄と推測された太宰府西方面からの上陸を開始した。
ところが、すでに日本軍は博多湾に石築防塁を全長20kmに及び整備していたので、博多湾岸からの上陸を断念した。
日本軍の中には、防塁から外に出て迎撃する部隊もあり、日本軍の士気は旺盛であった。
石築防塁は、一番頑強な箇所で高さ3m、幅2m以上もあり、日本の騎馬隊が内陸方面から、騎乗のまま駆け上がって海岸線に突入することができるように、土を盛っていた。
また、上陸する元軍にとっては、海岸一帯に乱杭(らんぐい)や、逆茂木(さかもぎ)などの上陸妨害物も設置されており、上陸自体はきわめて困難な地勢となっていた。
古来、上陸戦、城塞への攻撃戦ともに、攻撃側は防備軍の3倍の動員兵力がなければ突破できないとされてきた。
第一に、攻撃側は全体を露出してしまうので、軍事行動が完全に敵に把握される。
第二に、(そのため)攻撃側は最前線に到着するまでに、甚大な被害を覚悟しなければならない。
第三に、攻撃側は最前線に到着するまでに体力を消耗し、戦闘能力が落ち、さらに第一線の兵士しか実際には攻撃できない。反対に防御側は体力温存したまま、弓矢などを使い、ほぼ全部隊が戦闘に参加できる(アウトレンジ戦術)。
このとき、日本軍の動員数は(諸説ある、江戸時代の記録には25万騎とあるが、現実味はない)、一説には6万5000人くらいではなかったかという。
元軍(東路軍)は14万から15万超とされているから、防衛側の日本軍の3倍に満たない。
東路軍のこの判断は賢明だった。初戦で甚大な被害を蒙り、江南軍到着以前に再起不能な状態に陥るところだったと言える。
このため、東路軍は志賀島に上陸してこれを占領。
軍船の停泊地とした。
しかし、博多湾沿岸にはすでに日本軍が全隊配備されており、一隊がその夜、命令を無視して独断専行し、海上から小舟で夜襲をかけ、軍船上に斬り込みさんざん被害を与えた末、夜明けに引き上げた。
そこで火災を起こした元の軍船を見て、沿岸に配備されていた日本軍兵は雪崩式に海路、元艦隊への総攻撃を始めた。
一方、志賀島は島とは言え、陸続きであるため、陸上からも海の中道づたいに東路軍に総攻撃が始まった。
海陸両面から攻め立てられた元軍は狼狽して後退。
あやうく司令官の洪茶丘は討ち死に寸前にまで追い込まれた。
幸い、一部の元軍が追撃戦に入った日本部隊の側面攻撃をしたため、日本軍の陸上部隊はいったん退いた。
翌9日の戦闘でも東路軍は防御に徹して陣を固めたが、この日の戦闘でも日本軍の優勢が明らかであり、連日の敗戦を重ねたため、東路軍は志賀島を放棄。壱岐へと後退し、そこで江南軍の到着を待つこととした。
しかし、先述通り、江南軍は予定日に到着せず、6月15日にも姿を現さなかった。
東路軍内部では、疫病が蔓延し、これだけでも3000人が死亡している。
東路軍は進退極まった。
ほぼこの時点で、東路軍は継戦能力を失っており、撤退論も飛び出したが、責任問題を回避するため、なかなか結論がでず、10日余りも不毛の議論が続き、一段と戦力は落ちた。
糧食は、残り1ヶ月分。
結局江南軍を待つという結論に至った。
江南軍は、当初の計画と異なり、壱岐ではなく平戸島を目指した。
嵐で遭難した日本人漁民に地図を描かせたところ、太宰府に近く、軍船停泊にも便利であり、日本軍は防備を固めていないという情報を得たからだ。
江南軍の出航日時は定かではないが、一部が6月18日であったことは確認されている。
先遣隊は6月24日に日本軍と戦闘に入ったようだ。
6月下旬、江南軍主力は平戸島と鷹島に到着。防塁陣地を築き、日本軍の襲来に備えた。
6月29日、日本軍は壱岐に逼塞していた東路軍に、松浦党、龍造寺など合計数万の軍勢で総攻撃を開始。
7月2日には、日本軍は上陸に成功。
激戦の末、東路軍を壱岐から撤退させた。
東路軍は壱岐を放棄して、平戸島に移動。
江南軍のほうは、7月中旬から27日にかけて、4000人を平戸島に駐屯させ、残軍はすべて鷹島へと移動。
ここで東路軍はようやく合流を果たす。
両軍は、太宰府への侵攻計画の実施を準備した。
しかし、日本軍は待たなかった。
27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船に対し、日本軍船が集結して攻撃を仕掛け、海戦となった。
日中から夜明けにかけて長時間の戦いとなり、夜明けとともに日本軍は引き上げた。
日本側にはこの戦闘の詳細が残されていない。
元軍側の記録からすると、太宰府侵攻計画を躊躇している様子がうかがえる。
鷹島で進軍が止まったのである。
むしろ、鷹島に土塁を築くなど、日本軍のさらなる攻撃に備えるような動きをしている。
軍船を縛り付けて砦のように使ったことも明らかになっている。
このとき日本軍は、九州武士団の敢闘につぐ敢闘に加え、六波羅探題から派兵された、6万騎ともいわれる大軍が進撃中であった。
すでに先陣は長府に到着していた(もっとも、彼等が前線に到着したときには、元軍は壊滅していたので、実戦参加は無かった)
7月30日夜半、台風が襲来した。
これが、記録に残る「神風」である。
多くの元軍の軍船が沈没、損壊し大損害を被った。
東路軍が進発して3ヶ月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから2ヶ月が経過している。
北九州に上陸する台風は平年3.2回であるから、3ヶ月もの間海上停滞していた元軍にとっては偶発的なものではない。
結果、4000隻の軍船のうち、残存艦船はわずか200隻であったというが、おそらくこれは間違いで、被害はあったものの、元軍側の記録では、軍船の損害自体は軽微であったようだ。
ただ多くの溺死者を出したことは事実らしい。
上級将校や将軍クラスが相次いで溺死していることから、それはわかる。
おそらく、4000隻の第千段は、平戸島、鷹島だけではなく、海域広く散開していたために、一部の海域の軍船はひどい損害を被ったかもしれないが、全体的には軽微で済んだということであろう。
とくに東路軍は非常に軽微であったようだ。
結局元軍は撤退を決定。
頑丈な船に指揮官たちは移り、元軍10万人余りを置き去りにした。
ほとんどが鷹島とその周辺に集結していたらしい。
日本軍は、7月7日、鷹島への総攻撃を開始。
この攻撃で、元軍は壊滅。
2万から3万人の捕虜を得た。
鷹島には、首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、胴代、死浦、地獄谷、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(いのり)の浜などの地名が代々伝わっていることから、捕獲された元の軍兵はことごとく惨殺されたと考えられそうだ。
フビライも真っ青である。相手が悪かったのだ。後の戦国に続く鎌倉時代の武士団は、蒙古兵以上に鬼畜とみなされ畏怖されたはずである。
この鷹島での残敵掃討戦で、元寇は終わった。
日本軍は、蒙古人、高麗人、漢人は殺害。
交流のあった、南宋人の捕虜は助け、奴隷としたようだ。多くは、工匠や農事に知識のあるものが多かったらしい。
元軍資料によれば、遠征した元軍のうち、データがばらばらなのだが、生還したのが全軍の1割から4割と、かなり差が大きい。
ただ、過半が戦死・処刑、あるいは奴隷化されたと推測される。
こうしてみると、やはり神風(台風)は、あまり日蒙戦の決定的な要因にはなっていないことがわかる。
ほぼ、九州武士団の徹底した準備、機動力、そして細かい作戦に拘泥せず、見敵必殺のスタンスで果敢に攻撃を繰り返したということに尽きるようだ。
こういう史実を知らずに育っていく日本人の子どもたちというのは、不幸なことだ。
唯一わたしたちの国が史上、経験した侵略というものに対して、先祖たちはどう対処したのかということを知らずに、どうやって今後、対処できるというのだろうか。
元寇で見せた鎌倉武士団の教えとは・・・
・独立自存の貫徹。交渉などしない。
・専守防衛の構えから、カウンター攻撃に主眼を置く。
・接近戦と、アウトレンジ戦術を効果的に併用する。
・機動的な攻撃を反復することで、成功確率が飛躍的に向上する。
・執拗に残的掃討を完遂するが、決して深追いはしない。
この五原則が守られたのは、日清戦争・日露戦争までだった。
かつて戦国の武田二十四将の一人、鬼虎・小畠虎盛は今際の際に言い遺したという。
「みのほどをしれ」
その後、日本はこの五原則から離れた。結果はご存知の通り。喧嘩というものは、こちらにその気がまったくなくとも、勝手に与太者がいいがかりをつけてくるものだ。それも教えないのが今の日本だ。