誰が信長を殺したか~その4

歴史・戦史


これは216回目。今回は家康の不審な行動です。本能寺の変以降、家康はどう合理的に考えても、不可解な軌跡を残しています。ここにもう一つの謀略があったようです。さらに恐るべき仮説は、謀略の裏をかく謀略です。やはり、秀吉の影がちらつきます。光秀と家康は、まんまと秀吉に「羽目られた」ということかもしれません。

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この頃、家康は堺にいた。一般的な史実としては、一刻も早く三河へ帰り、信長公のあだ討ちをするということで、畿内からの脱出を試みたということになっている。これについては、古くから疑問が指摘されていた。

本能寺当日、家康の重臣・本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろう ただかつ)は京へ逆に戻る最中だった。家康が信長のもとへ挨拶に伺うための先遣隊だったと思われる。途中、商人の茶屋四郎次郎(ちゃや しろじろう)と出会う。京にいた茶屋は、本能寺の出来事を知ると、懇意であった家康に知らせようと堺へ向かっていたのだということになっている。

タイミングが良すぎる。しかし、堺の商人たちと家康、光秀が変に絡んでいたとすれば、この偶然は容易に理解できる。そして、その後の家康の行動がまた奇々怪々なのである。

京都を抜けるのは危険だからと、わざわざ伊賀越えをして、伊勢から三河へ海路を辿って帰還しているのだ。伊賀は、明智光秀の息がかかった地域である。もし光秀と家康が型どおり敵同士であれば、いわば「敵中突破」ということになる。普通、これは考えられない。

しかし、光秀と家康が共謀していたとすれば、話は逆で最も安全な地域ということになる。いわば、明智の庇護のもとに安全に伊賀から伊勢へと抜けることができたわけだ。史実の意味が逆転してくる。おまけに、ここで異様なハプニングが発生する。同行していた武田の遺臣・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)一行と、家康一行は山中で別れているのである。

穴山は、家康一行の挙動に不審を抱いたことは間違いない。でなければ山賊なども横行する伊賀越えを、分かれて進むほうが遥かに危険である。それを敢えて選択しようということは、何らかの身に危険が迫っていることを感じていたに違いない。30名余りの家康一行と道程を共にすることなく、穴山一行は8名前後で別路を取る。

結局、穴山は山中で暴民に虐殺されている。穴山が金品を持っていた、穴山が家康に間違われた、など諸説あるが、説得力に欠ける。これで最大の得をしたのが家康である。ここに本能寺の変に隠れた、家康によるもう一つの謀殺計画があったと考えられる。

その後、(正史によれば)命からがら三河に戻った家康の行動が、不可解極まりない。もし、盟友・信長の仇を討つということであれば、ただちに全軍を率いて、明智打倒を旗印に京都に攻め上るはずだが、彼は三河に戻っても一向に軍を発進させようとしなかったのだ。それどころか、穴山亡き後、まったくの権力の真空地帯となっていた、甲斐・信濃への勢力拡大を一気に進めている。

小田原の北条氏が、火事場泥棒さながらに上州などに攻め寄せ、織田家臣・滝川勢を追い詰めており、家康としては時宜を逸してはならなかった。諜略、武力あらゆる手段を通じて、甲信地域の制圧に全力を注いでいる。京都のことなど、どうでもいい風情である。8000の兵を甲斐・信濃へ侵攻させ、結果、武田の遺領をことごとく掌握すべく、全力を注いでいたのだ。

甲斐の施政を信長から任されていた織田家臣・川尻秀隆(かわじり ひでただ)は、甲斐における一揆によって退勢著しく、挙句の果てには武田遺臣によって殺害されている。だが、この一揆にしろ、川尻謀殺そのものにしろ、家康による謀略であった可能性はきわめて高いだろう。まさに家康の目算は、ここにあった。そして、そのことは光秀と事前に合意がなされていたのではないか。

変が成功したあかつきには、畿内は光秀、甲信は家康という棲み分け、協力体制が合意されていた可能性が高いと思われる。この謀議に、直接かかわっていたか、少なくとも知っていたと目されるのが秀吉だが、秀吉最大の謎である「中国大返し」を見てみよう。

そもそもが、光秀から毛利への密者が秀吉の陣で捕らえられ、その密書が「信長の死」と「毛利方による秀吉攻撃、光秀はこれを東から挟撃する旨の計略」が書かれていたというのも、あまりにも出来すぎた話だろう。秀吉は、さっそく毛利軍と和睦し(その前から事実上、馴れ合い状態となっていたことは明らかである)、主君の仇を討つとして急遽反転、京都に攻め上るという挙に出た。とても、まともには信じがたい。毛利と組んで秀吉をはさみ撃ちにしようというのであれば、光秀の密者が秀吉の陣によって、鼠一匹漏らさぬ封鎖をしている山陽道をわざわざ通るとは到底考えられない。

それどころか、光秀はまったく秀吉に注意を払っていないのだ。織田遺臣たちは、いずれも外地にあって合戦に明け暮れていたから、本能寺の変はその間隙を縫った絶妙のタイミングだったわけだが、もっとも京都に近い危険人物は秀吉であったはずだ。真っ先に、光秀鎮圧に動き出せるのは秀吉しかいない。しかし、その秀吉に何の警戒もせず、本能寺の変の直後、朝廷への報告を終えた後は、ただちに琵琶湖畔の安土城奪取に向かっている。6月3日から4日にかけて坂本城入りし、5日に安土城を占領している( 7日まで滞在)。

一方秀吉は、本能寺の変を当日2日の午前中に知ったと言われているが、そもそもこの事実自体が、まったく考えられない話である。それは別としても、ただちに毛利と和睦して、一気に京都へ大強行軍を敢行したのである。

ただ、この行動はあまりにも不可解である。光秀にしてみれば、秀吉も変の共謀者の一人であるだけに、まったく警戒をすることなく、逆方向の安土城へ向かったとすれば納得できる。正史では、安土城奪取によって大量の金塊を得ようとしたからだとするが、これでは到底承服できまい。ただちに、もっとも危険な秀吉を壊滅させるべく、軍を西へ進発させて、毛利軍と共同で秀吉を討ったはずである。

そして、本能寺の変が、光秀の意表をつくシナリオで、勝手に動き出してしまったのだ。それが、秀吉の「中国大返し」である。旧帝国陸軍が実地検証してみたところ、現実的にはほぼ不可能に近い一挙であることが確認されている。

仮にそれができたとしても、秀吉軍はその強行軍の凄まじさゆえ、山崎(天王山)で明智軍と対峙したときには疲労困憊しており、とても戦闘能力はなかった、という結論に至っている。

そこで考えられるのは、唯一つ。秀吉は最初からこの本能寺の変を知っており、中国で毛利と戦っている間にも、自陣と京都の間の補給、軍勢分散駐屯など、周到に配備していたということにほかならない。それであれば6月2日に出発したとしても、自身と側近だけで馬を乗り継ぎながら、分散駐屯させていた部隊を逐次糾合しつつ、6月13日の天王山での決戦まで、余裕で間に合ったはずだ。

このように家康や朝廷と謀議をし、堺の商人やバテレンの取り持ちで秀吉とも通じ、完全包囲の中で光秀は謀反を起こす。ところが、それにはさらに裏があった。ハナから秀吉は光秀の謀反を鎮圧し、主君の仇を討った英雄として、後継政権内部で絶大な発言権を得ることを画策したのだ。これまでの考察から、この恐るべきシナリオを練ったと十分に仮説できる。光秀、家康はいい面の皮である。この人を食ったような二重の謀略シナリオを描いたのは、言うまでもなく、堺の商人やバテレン、そして、尻込みする秀吉の背中を思い切り押したのが、恐らく重臣・黒田官兵衛であろうと推察される。

この「中国の大返し」は、光秀にとって青天の霹靂(へきれき)であったろう。秀吉の、変に対する直接関与の有無はまだ多くの疑問を残しているが、その死に際して、日々執拗な信長の亡霊に怯えていたという事実は、何かを物語っている。

(続く)



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