続・傭兵たちの挽歌

政治・経済, 歴史・戦史

これは384回目。

中国共産党機関紙・人民日報系のニュースサイト「人民網」は、2015年6月29日に驚くべき記事を掲載した。タイトルは「抗戦勝利後、国共双方は大量の日本軍捕虜を作戦に使った」というものだ。

しかもこの記事は、その後、環球網、北京晨報など多くのサイトが記事として転用掲載している。日本人の協力で、日本人の協力で、中華人民共和国は空軍を創設し、奇跡的な軍の近代化に成功した、としているのである。

まず記事が書いているのは、終戦時に国民党・蒋介石総統が、支那派遣軍総司令官・岡村寧次(やすじ)大将の罪を問わず、無罪にしたところからだ。その後、蒋介石は共産党との内戦に敗れ、台湾に逼塞。金門島で、最終的な決戦が行われた。

このとき、中華民国・台湾には、岡村をはじめ、旧日本帝国軍人が多数顧問として台湾軍に組み入れられ、白団と呼ばれていた。このことは、以前、「昼行灯と呼ばれた男」で、書いた。根本博を中心に書いたのだが、根本をはじめ、旧軍人が蒋介石側の軍事顧問となって、大挙金門島に押し寄せた中国人民解放軍を撃破したことで、知られている。

これも、実は長らく台湾では、その事実を秘匿していたが、昔から噂はつきなかった。90年代に入って、ついに国民党もこの事実を公開した次第だ。

かたや中華人民共和国の人民網の記事は、この件について、「国民党は敗軍の将に指揮権を与えた」などと激しく非難している。確かに、敗軍の将兵を、自軍に取り込んで戦闘に動員するということは、国際法違反である。

しかし、終戦後、日本に復員した後、一般人として、まさに個人として彼らは台湾に密航したのであり、すでに正規の日本陸軍軍人たちではなくなっていた。そもそも帝国陸軍そのものが消滅していたのだ。だから共産党が言う、国際法違反でもなんでもない。いいがかりもいいところだ。

ところが、この人民網の記事は面白いことに、共産党も同じことをした、と言う事実を公然と公表しているのだ。

共産党側については、旧満州に残っていた軍と医療スタッフを「使用した」と明確に紹介。国民党との内戦では、日本人医師や看護師が三日三晩不眠不休で前線から運ばれてくる負傷した将兵を治療したなどと紹介。また、記事中には、実戦で敵の陣地を確実に壊滅させる砲撃を見せ「神の砲撃手」と呼ばれたが、武器点検中の事故で「若い命を捧げた」旧日本軍人のことも紹介した。

記事が一番多くを割いているのが、共産党がそれまで保有していなかった空軍の創設に関するくだりだ。共産党が獲得したのは、関東軍の錬成飛行隊長だった林弥一郎(最終階級は少佐)だった。大阪府藤井寺町の農家出身。同隊は投降後、操縦士20人、整備士など約100人、その他の地上スタッフ200人が共産党の軍事組織である東北民主聯軍に加わった。中国共産軍初のパイロット160人を育成したとされる。

しかし、このことも、従来中国では禁句であったはずだ。日本ですら、林弥一郎ほかが戦後中国でなにをしたかについて、知っている人のほうが少数だ。人民網は、台湾側についた旧日本軍人の件では非難しているものの、共産側についた林弥一郎たちについては、賞賛するという、論理の不整合が見られるが、これも中国共産党の政治的意図の表れであるとすれば、理解できる。

蒋介石の連敗につぐ連敗を続けていた国民党軍が、人民解放軍を金門島で撃破できたのは、旧日本軍人による作戦指導があったからだというのは、間違いない。また、彼ら(白団)がその後も、国民党軍の再建に大きく功績を残したことも事実だろう。

一方、林弥一郎らが育成した中共空軍パイロットのほうも、朝鮮戦争で活躍した。米軍は「せいぜいプロペラ機時代」と考えていた中国空軍のレベルだが、ソ連製の「ミグ15」ジェット戦闘機を投入しており、米軍戦闘機を撃墜したことに衝撃を受けたのである。

中共軍がジェット戦闘機パイロットを急速に育成できたのは、第二次世界大戦時の「最速機」のひとつだった米国製の「P-52」を共産党が手に入れ、林弥一郎が率いる旧日本将兵らが徹底的に研究し、中国人の練習生に「高速機の操縦」を伝授したためだ。

朝鮮戦争の際、中国人民志願軍第3師団副師団長だった王海は、1人で米国の戦闘機を9機撃墜した。そこで、彼が操縦する戦闘機には9つの赤い星が記された。

1950年代初期の朝鮮戦争の際、元中国空軍司令官の王海上将が率いる「王海大隊」は、米国空軍と80回余り死闘を繰り返し、米軍の戦闘機29機に打撃を与え、その名を四方に轟かせた。米国空軍参謀長・バンテンバーグ将軍は、「中共は、一夜のうちに世界の主要な空軍強国の一つになったようだ」と絶句した。それまで朝鮮半島全域にわたる制空権を握っていると信じた米軍指導部が浮き足立ち、その制空権そのものが揺らいだ。

先の人民網は、このことを書いているのだ。いわく、「新中国の空軍は、日本の友人たちの支援のもとで誕生した。帝国軍人だった日本人たちは、中国共産党が初の航空学校を創設するのに協力し、初代のパイロットを育成した。王海上将も日本人の教官から教えを受けた戦闘の英雄である。」

人民網は、続けて言う。「戦争の時代はすでに過ぎ去り、平和の日々を享受している今日、中国人民は新中国に貢献した日本の友人たちを忘れることはない。」かつて、中国共産党初の航空学校「東北民主連軍航空学校」(通称・東北老航校)の創設にも、旧日本軍人がかかわっているのだ。

1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。かつて「粟飯と小銃」という水準にあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有することは奇跡だと、世界が驚いた。この奇跡の陰には、旧日本軍人が関与していたのである。

日本の民間人が、元空軍司令官・王海にインタビューした内容が明らかになっている。王梅は終戦の翌年、1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。

林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林たちは、これらのモミが来年の種モミであり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動するとともに、内心忸怩(じくじ)たる思いだった。

ほどなくして、民主連軍の指導者は林部隊を瀋陽に呼び寄せた。中国共産党中央東北局の彭真書記は、「中国空軍の創設に協力していただきたい」と要請した。林はそれに対し、「私たちは捕虜ですよ」と驚いて答えた。そばに座っていた民主連軍の伍修権参謀長は、「われわれはあなたを全面的に信頼しています」と言った。

林は少し考えたのち、「訓練生は教官に絶対服従すること、日本人の栄養を保証すること、日本人の生活問題に関心を持つこと」という3つの条件を提出した。思いもしなかったことに、民主連軍の指導者はこの条件に即座に応じた。伍修権参謀長は会談後、「2万5000里の長征」でずっと携帯していたブローニングの拳銃を林に贈った。

こうして、林は約280人の部隊を率いて吉林省東南部の通化へやって来て、共産党の空軍創設に協力することとなった。日本航空大隊は、東北民主連軍航空隊に改編された。彼らは東北各地から飛行機や燃料、機材を収集した。

瀋陽近くの奉集堡飛行場には、日本の「隼」(一式戦闘機)と、「九九式高等練習機」が十数機あった。林は部下に、出来るだけ早く修理して通化へ移送するよう命じた。

林たちの協力のもと、1946年1月1日、東北民主連軍航空総隊が設立された。同年3月1日、航空総隊は航空学校と名を改め、林はその参議兼主任教官に就任した。これは新中国初の航空学校であった。

この1946年1月から3月にかけて、くだんの満州・通化では、国共内戦勃発(6月)直前、共産軍(八路軍)が支配していたとはいえ、きわめて混乱状態が続いていた。まだソ連軍も駐留しており、国民党軍も共産軍、そして日本軍の残党も乱立する異常事態の中、共産軍による日本人の軍人・民間人など、老若男女3000人の大虐殺が起こっている。いわゆる「通化事件」である。この内容は、あまりにも悲惨にしておぞましく、ここではとても書くに耐えない。心ある人は、Wikipediaなどで「通化事件」を検索されたい。

余談だが、タレントとしても有名なケント・ギルバートはいわゆる国際弁護士だが、慰安婦問題も、南京虐殺も事実無根の捏造だとしている。「世界抗日戦争史実維護連合会(通称、抗日連合会)」は米国に本部を置く、中国系のロビー団体だが、ギルバートはこの抗日連合会の一方的な史実歪曲は、完全に特定の民族(日本人)に対する差別行動であり、米国の公民権法の趣旨に反している、と主張。米国はこのような差別団体を取り締まるべきである、と訴えている。

ギルバート曰く、「抗日連合会」が真に史実を尊ぶというのであれば、戦前に国民党軍が行った通州事件での日本民間人虐殺や、終戦直後の満州・通化で共産軍が行った日本人大量虐殺や、中国国民を数十万人も犠牲にした黄河決壊事件や、米軍の東京大空襲ならびに広島・長崎への原爆投下の史実も直視し、史実として喚起すべきだ、という論旨である。

ここにもでてくる満州・通化における共産軍による日本人大量虐殺事件については、まさに現場にいた先の林弥一郎たちの挙動が問題になってくる。

事実として明らかになっているのは、あまりに非人道的な弾圧・無差別処刑、暴行・掠奪に耐えかねた日本人居留民と将兵が、2月3日に蜂起したこと。林弥一郎少佐の部下であった、鈴木中尉・小林中尉を筆頭に下士官たちが蜂起に参加しようとしたが、合図前に中共軍に拘束されたということ。そして、事件後、林弥一郎は、共産党中央から三度に及ぶ「処刑命令」が発令されていたこと、などから、おそらく通化蜂起に通じていたと考えるのが妥当のようだ。

ただ、この三度の処刑命令も、実行に移されることはなかった。政治委員の黄乃一が、蜂起前日に林から蜂起の情報を得ていたと弁明にこれつとめた。しかし、これは林をかばうための嘘であろう。なぜなら、林自身、蜂起直前の航空事故に重症を負っており、事実、蜂起当日は、歩行困難であったからだ。いずれにしろ、黄乃一は事実無根であると訴え続け、林は処刑を回避されたとされている。

さて、中国空軍発祥の歴史に話を戻す。例の元空軍司令官・王梅によれば、林たちや中国人訓練生の環境は厳しかったという。飛行機は、各地に散らばっている部品を寄せ集めて造ったため、性能が悪く、危険性も高かった。燃料や機材、気象条件の制限により、訓練生は1人あたり1カ月に平均10時間しか飛行訓練が出来ない。

食事はトウモロコシのひきわりやコーリャン飯で、1週間に1回しか白い曼頭(まんとう)が食べられない。

飛行訓練を始めるにあたって、最大の困難は言葉が通じないことだった。通訳は飛行の専門用語が分からないので、これに関する笑い話も絶えなかったという。

王海によれば、「日本人教官は真面目で、厳しく自らを律し、訓練生に対しても厳格だった。冬は朝目が覚めると唇に白い霜が付いているほど寒かったのが、日本人の地上係員たちは、私たちの正常な訓練を保証するために、毎朝早く零下40度の厳寒の中で、飛行機の検査・調整を行っていた。本当に頭が下がる思いだ。」と当時を振りかえる。

逆に、中国人訓練生の勇敢さも、日本人教官から称賛された。「隼」の訓練科目には、上昇しながら機体を反転させるものがあるが、十分に注意しないと事故につながる。

王海がこの動きを練習したとき、飛行機が突然失速し、急速に回転しながら墜落し始めた。しかし王は冷静に状況を見極め、方向舵操作ペダルを踏み、操縦桿を押して、機体を正常な状況に回復させた。着陸して飛行機から降りた際、日本人教官は親指を立て、「王君、良かったぞ。とても勇敢だ」と喜んでいたという。

危険な飛行訓練の間、中日双方に犠牲者は1人も出なかった。しかし残念なことに、後方勤務部で2人の日本軍人が、尊い命を失った。

新海寛は1948年3月、ガソリンを輸送するために中国人の同僚たちと千振(現在の黒竜江樺南県)駅へ出かけた。非常に寒い日で、みんなは仕事の合間に室内で火にあたって暖まっていた。

すると急に、火が中国人同僚の関の綿入れに引火した。綿入れにはガソリンが付いていたため、火はすぐに全身に広がった。新海はとっさに駆け寄り、関さんを抱えて外へ引きずり出した。関は助かったが、新海の身に火が燃え移り、全身火達磨になってしまった。

火が消し止められたとき、新海はすでに重傷を負っていた。昏眠の中にありながら、「関君は大丈夫か、ガソリンは全部積み込んだか」とうわごとをつぶやいていたという。新海のやけどはひどく、2日後に亡くなった。

航空学校は新海のために盛大な葬式を行った。そして、自分を犠牲にして人を救った崇高な精神を称え、松花江のほとりに彼の記念碑を建てた。

もう1人、尊い命を失ったのは、川村孝一である。彼は機材を受け取りに長春駅へ出かけた際、バックしてきたトラックと貨車の間にはさまれて重傷を負い、治療の甲斐もなく亡くなった。

東北民主連軍航空学校は、3年半の間に560人の航空技術幹部を育て上げた。その中には、パイロット126人、整備士322人が含まれる。彼らのほとんどが、王海のように後の朝鮮戦争において米空軍の心胆を寒からしめる功績を挙げている。

空軍部隊の指揮官や航空学校の教官になった人もいた。彼らはみな、新中国の空軍の創設、航空工業や民航事業の創業の主力となった。

林弥一郎は、飛行主任教官として、中国共産軍の航空隊育成を行った後、1956年昭和31年、帰国。その後は、日中友好会会長を務めた。

林ら6人は1985年、招待に応じて北京を訪問した。当時、全国人民代表大会常務委員会委員長だった彭真は彼らと接見し、「空軍の航空学校創設の際には、困難な情況にありながら、さまざまな障害を克服し、工夫に工夫を重ねて、空軍の中核的な力を育成してくださった。その功績はまことに大きい。中国人民はあなたがたに深く感謝しています。私たちは必ず、あなたがたの功績を中国の空軍史に記録し、子々孫々まで伝え、永遠に忘れません」と話した。

翌年には、林は中国人民解放軍空軍司令部を訪問した。当時、空軍司令官だった王海は、林さんの両手を固く握りしめながら「日本人教官の方々が教えてくれた操縦技術のおかげで、今日の私たちがあるのです。私たちは心から日本人の先生方に感謝しています。林先生、帰国されたら、私たちの感謝の気持ちを必ず日本のみなさんにお伝えください」と言った。

かつて航空学校で、日本人から製図を教わっていた西亜夫が言う。

「日本人は私を大空へ飛ばせてくれたのです。彼らの仕事をおろそかにしない態度、堅忍不抜の精神から多くの影響を受けました。これは私の貴重な財産です。林さんをはじめ、たくさんの日本の友人たちは、中国の革命や建設、そして両国の友好に大きな貢献をしました。中国人民はこのことを永遠に忘れません」

立場立場で、日本人はその場における最善を尽くしてきたのだ。あるものは、人民共和国創設に協力し、あるものは台湾に赴いて恩を返そうとした。

山西省では、2600人に及ぶ日本軍将兵が、閻錫山軍閥の第十総隊として最後まで共産軍に徹底抗戦して壊滅している。いわゆる「太原決戦」である。国共内戦の最後の最後まで大陸で闘っていたのは、国民党側の軍閥に組み込まれた旧日本軍将兵であり、国民党軍ではない。

太原決戦のさなか、頭目の閻錫山や蒋介石総統は、台湾に脱出している。台湾ではどういう評価かわからないが、第十総隊(日本兵部隊)は、恐らく「捨石」にされたということだろう。閻錫山は太原の残留軍に対し、「太原を最後まで死守せよ!」という最終電文を送りつけている。中国では、この第十総隊はわたしの知る限り戦争犯罪人扱いである。林弥一郎とはまったく真逆の取り扱いになっている。

また、遠くは、インドネシアでも2000-3000人(推定)が残留して、インドネシア独立戦を成功させた。その生き残りの最後の一人が先年亡くなった。カリバタ英雄墓地に、みな、丁重に葬られている。独立記念日には、式典のパレードで、現在の国軍の軍装だけではなく、旧日本軍の軍装が公然と用いられている。

ベトナムでも800人に及ぶ日本軍将兵が軍事顧問として残留し、北ベトナム軍に協力。その軍事指導によって、フランス軍をたたきだし、最後は米軍をもたたき出した(以前、「傭兵たちの晩歌」で書いた)。彼らは、中国山西省に残留した将兵のような無残な扱いではなく、未だにベトナム救国の英雄である。

日本、敗れたりと言えど、その敗軍の日本将兵に全面的に依存したのは、一体だれであったか。アジア全域の人々であったというのは、事実である。右も、左も、共産党も、独立派も、守旧派も、みな日本軍将兵を頼みとしたことは、歴史のそれこそ皮肉な事実である。

そのひとつひとつが、歴史の流れの中で、ときに評価され、ときに逆行したと非難されるが、今のわれわれのうち誰が、彼らを批判できるような生き様をしているか、考えてみたほうがよい。

知らなさ過ぎるのは、われわれ現代の日本人のほうだ。