理論と実践(実戦)~あなたはその時、独断専行をしますか?

歴史・戦史

これは、95回目。物事を成功させるためには、理論と実践の両方があります。どちらも大事です。得てして重要なのは、理論より実践です。現実は、往々にして理論通りには展開しないからです。ここでは、理論の破綻を、「実戦」で補って余りあった戦史の例を見てみましょう。あなたは、理論が破綻したとき、そのプロジェクトの最終目的は何かを見失わず、あなたにしか選択できないその局面に立ってしまったら、成功確率も不確かにもかかわらず、それでも命令も無視して、独断専行に踏み切る賭けができますか?

(トップ画像は、NHKドラマ「坂の上の雲」より)

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1905年明治38年5月27-28日、日本の連合艦隊がロシア帝国のバルチック艦隊を破った海戦だ。海外では、「対馬沖海戦」と呼ばれている。(ロシア語では、ツシムスコエ・スラジェーニエ)

過去の海戦史上でも類例がないほど圧倒的な、一方的勝利に終わった艦隊決戦として有名だ。

この結果、和平交渉を拒絶していたロシアをして、講和交渉の席につかせる動機になった点で、日本にとっては大変重要な戦いになった。

背景としては、旅順(遼東半島)のロシア太平洋艦隊がほとんど機能しない状態に陥っていたため、欧州からバルチック艦隊を極東に遠路派遣することになったという事情がある。

ちなみに、バルチック艦隊が極東に到着したら、旅順港に逼塞していた太平洋艦隊が打って出てくるから、日本の連合艦隊は挟み撃ちにあうというきわめて重大な局面に陥るはずであった。

幸い乃木陸軍大将揮下の第三軍が、山の形が変わったとさえ言われるほどおびただしい戦死者を出しながら、辛酸をなめた末に旅順港を陥落させたため、ロシア太平洋艦隊は壊滅している。(実は第三軍の遠隔砲撃によって、旅順陥落前にすでにほとんど壊滅していたというのが実態であったが)

これで、日本の連合艦隊はバルチック艦隊と一騎打ちで勝敗を決することになった。陸軍は、都度非常に困難な状況を克服し、朝鮮半島から南満洲へと戦線を拡大。ロシア軍を押しに押しまくっていた。が、実はそう見えただけだったといっても良い。

ロシア陸軍は戦略的撤退に終始したに等しく、いまだに致命的なダメージを一度も被ってはいなかったのである。一方、日本軍の損耗は甚だしかった。それどころかロシア軍には、シベリア鉄道を通じて、さらに増援部隊の派遣が始まっていた。

日本陸軍は兵力・弾薬ともにほぼ攻勢限界点に到達しつつあり、奉天会戦で辛くもロシア軍を後退させたものの、そこからさらに北進する余力は毛頭残されてはいなかった。

ロシア軍が大兵を擁して(合計すると百万を数える総軍になっていた)縦深隊列を組織できたのに対し、日本陸軍は全兵力を投入しても30万人で、ほぼ横一線の防衛ラインを死守するのが精一杯。ロシア軍による本格的な反撃が始まってしまえば、陸軍は無残な敗北を喫することは火を見るより明らかだった。

もし、バルチック艦隊が極東に到達し、日本がこの活動を捕捉できず、日本海の輸送路を攪乱されでもしたら、ただでさえ補給物資不足に悩む陸軍は、完全に兵站(へいたん)を遮断されることになり、戦わずして敗北せざるをえなくなる。朝鮮半島はロシアの手に落ち、それはすなわち日本本土が丸裸の危機に陥ることと同義であった。

どうあっても、連合艦隊はバルチック艦隊を破らなければならなかった。しかも、ただ勝てばよいという話ではなく、一艦も漏らさず「全滅させる」ことが求められたのだ。満身創痍で南満州に踏みとどまっている陸軍を救うためである。兵站補給を完全に確保しておくためである。この一戦に完全勝利をしなければならないというプレッシャーたるや、言語を絶するものがある。

(下はバルチック艦隊)

当時、見方によっては世界最強とも謳われた大艦隊を相手に、果たしてそんなことが可能だろうか。

連合艦隊では秋山真之先任参謀(旅順港戦に携わった)が、バルチック艦隊撃滅のための作戦立案を担当した。それが、有名なT字(丁字)型戦法と呼ばれるものだが、これはもともと英国艦隊がかつてスペインのアルマダ(無敵艦隊)を破ったときに使用された定石だ。

英国艦隊は、一列の単縦陣(一列縦隊)で突っ込み、敵(スペイン)の前方を遮断。T字型で敵の頭を抑える。敵に対して全英国艦隊が側面をさらすことになるが、片側全砲門を総動員して集中砲撃ができる。敵が先頭の主砲しか使用できないのに対して、圧倒的な十字砲火を浴びせて壊滅させた例がある。自分の肉を切らせておいて、敵の骨を絶つという戦術理論である。

後年、英国は名将ネルソン提督がトラファルガー海戦で、ナポレオンのフランス艦隊を撃破したときにも、このバリエーションで勝利している。

秋山はこの例にならったのか、対バルチック艦隊戦にこの丁字型戦法を立案計画したのである。実際の戦闘では、完全な丁字は形成されなかった、いやされた、といろいろ議論があるが、戦闘詳報を追う限りは、ほぼ「敵前大回頭」といってもいい。つまり、Uターンである。とても丁字には見えない。ほぼ両艦隊並走しての砲撃戦に近かったと言える。

ここに、理論の難しさがある。現場は理論通りには進行しないのだ。時系列を追って戦況の進捗を見てみよう。

14時02分、旗艦・三笠は左に進路変更。三笠をはじめ第1戦隊は、バルチック艦隊に対して約6,000m手前で完全に敵とは反対の針路に入った。反航戦(すれ違いざまの砲撃戦)に入るような偽装をしたのである。そのまま両国の艦隊が直進すれば先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃となるはずだった。

14時05分、東郷は急角度で左に進路変更を指示。敵の先頭を斜めに圧迫することを意図した判断である。

バルチック艦隊からみれば、連合艦隊がまさに自分たちに側面をさらけだした格好になったわけで、14時02分に砲撃を開始。日本側は一切、応射していない。バルチック艦隊は先頭の三笠に砲撃を集中した。全工程で三笠は推定40発の砲弾を浴びていたと推定される。もっとも、中小砲弾が多かったとは思うが。

14時10分、三笠は砲撃を開始。この頃、第1戦隊は回頭を完了し、応戦を始めている。第2戦隊は、続いて14時15分から大回頭を開始し、第1戦隊の航跡の後ろについた。このあたりではすでに両艦隊の先頭集団はほぼ並走状態となり、猛烈な砲撃戦が繰り返されている。バルチック艦隊は連合艦隊にくらべて、練度が低く、多数の被弾で急速に戦闘力を喪失。そのため、戦闘続行しながらも、一気に北へ逃走しウラジオストックに逃げ込む動きを見せた。

14時35分、三笠はじめ第1戦隊は東に進路変更。その後さらに東南東へと進路変更。これで、逃走を試みるバルチック艦隊の進路を遮断しようとしたのだ。この間も、連合艦隊の発射弾は着実に敵の各艦を捉えてダメージを加えている。この最初の30分で、バルチック艦隊は攻撃力を著しく減じてしまった。

バルチック艦隊は、そこでほぼ戦闘不能に陥りただ漂流しているだけの状態になった先頭の旗艦と、後続艦隊が分裂した。二手に分かれ始めたのである。

乱暴だが、話を簡単にすれば、ロシア旗艦クニャージ・スワロフがハチの巣になってしまったことで、操艦不能に陥る一方、後続艦隊は旗艦を見捨てて全速力で直進逃走しようとしたのである。

ロシア旗艦は自身を制御する機能を失っており、なんと連合艦隊の間に割り込み、そのまま強行突破するかのように、日本側には見えたようだ。

ここで東郷が一世一代の誤断を下す。旗艦クニャージ・スワロフを抑え込む(後続艦隊もこれに続くと考えた)ために、三笠はじめ第1戦隊は北に転進。

しかし、ロシア側の後続艦隊はそのままの進路を維持していたので、これで日本海軍という目前の障害がなくなったと判断し、全速力でウラジオストックに逃げ込む算段をした。ここでバルチック艦隊は、二つに分裂したことになる。制御不能のまま左にそれた旗艦と、そのまま直進してウラジオストックに逃走しようとする全艦隊である。

このとき、第1戦隊に続いていた第2戦隊旗艦「出雲」では、参謀の佐藤鉄太郎中佐が即座に「クニャージ・スワロフは、舵が故障をしています。旗が揚がっていません。」と、上村彦之丞中将(かみむらひこのじょう)に具申。つまり、「東郷の判断が間違っている」と言ったのだ。そして暗に「東郷の命令を無視し、クニャージ・スワロフを置き去りにしたまま、後続艦隊を追撃すべきだ」と進言したのである。

東郷は、バルチック艦隊旗艦が北に転進したので(というより事実は、操艦不能でただ漂っていただけといってもいい)、当然に残りの後続艦隊もこれに続くと読んで、それを制圧しに向かったわけだが、現実にはロシアの後続艦隊は右にそれて、どんどん旗艦から離れつつあった。

上村中将のこのときの心中は察するに余りある。東郷の乗艦している三笠ほか第1戦隊は、事実上航行不能となったクニャージ・スワロフを追って、無意味な軍事行動をしようとしているのか。すでに第1戦隊は完全に回頭し終わっており、バルチック後続艦隊は第1戦隊とはどんどん離れていっている。

しかし、第1戦隊からは、「我ニ続ケ」の信号機が上がっていたのだ。東郷の判断は、佐藤参謀の言うとおり、ほんとうに間違っているのか? 東郷には、東郷の深謀遠慮があって「我ニ続ケ」と命令しているのかもしれないじゃないか。

この命令を無視して、右に分裂していくロシアの後続艦隊を自分たちは追撃すべきなのか。あくまで、東郷の命令通り、第1戦隊に続いて、北に転進すべきなのか。その場合、ロシア残存艦隊はなんなくウラジオストックに逃げ込んでしまうことになる。そもそもこの海戦の最終目的な何だったのか? バルチック艦隊の全滅である。

仮に命令無視をして、ロシアの逃走艦隊を追撃するとしたら、今即断しなければ間に合わない。しかし、巡洋艦だからこそその高速性を生かして、追撃し、これを捕捉することは、今即断するならば可能だ。

ところが問題がある。追撃したところで、ロシア側は戦艦主体だが、上村の第2戦隊は装甲巡洋艦だけであるから、まともに至近距離の砲撃戦になったら勝目はない。およそそれまでの海戦史上に、巡洋艦が戦艦相手に砲撃戦をいどむなどといった例は皆無だ。命令無視をして追撃したところで、一体自分たちに勝てるのか? 失敗すれば、軍法会議どころではない。切腹ものである。

さまざまな思いが一瞬上村中将の頭に錯綜したはずである。わたしなら、もう投げ出したくなるような同情すべき局面だ。このとき、上村はもう一度聞いたという。「間違いないか。」

「間違いありません」佐藤参謀の判断には一点の迷いもなかった。東郷は間違っている、右にそれていくバルチック後続艦隊を追撃すべきだと、再び断言したのだ。

上村は東郷の乗艦する「三笠」からの、「左八点一斉回頭(左へ90度回頭せよ)」の信号命令を無視。ついに独断専行に踏み切った。大目的は、東郷に従うことではない。バルチック艦隊の全滅である。上村は、続いて後続艦隊に「我ニ続ケ」の信号旗を出した。第2戦隊は全速力で、逃走するバルチック艦隊の残存部隊の猛追撃に入った。

第2戦隊はこの瞬時の判断によって、逃走するバルチック艦隊を見事に捕捉することができた。やがて、誤断に気がついた第1戦隊が北から反転して南下。一方で上村艦隊は南からバルチック艦隊を追い上げ、期せずして連合艦隊は南北両方から、バルチック艦隊を完全包囲の中に取り込んでいくことになった。かくして世界最強とも言われたバルチック艦隊は、十字砲火を浴び、文字通り全滅した。

後日、生き残ったロシア海軍の将校たちは、このときの戦闘状況を振り返り、口々に「あのときの日本艦隊の操艦は、まるで神が乗り移ったようだった」と述懐している。

秋山の立案作成した丁字型戦法が、現実の戦闘において破綻をきたしたとき、これを補って余りあったのは、叩き上げられた現場の経験値からくる機動的な判断だった。

理論と実戦が見事に噛み合った、世界の海戦史上でもまれにみる一方的な奇蹟的大勝利の詳細が、日露戦争直後にアメリカの海軍兵学校で講義された。このとき、兵学校の生徒たちは感極まって、一斉に「ブラヴォー!」と大歓声をあげたそうである。

日本海海戦は、以降アメリカの海軍兵学校において基本教科に盛り込まれている。しかし、日本の映画やドラマでは、日露戦争の帰趨を決定づけたこの上村艦隊の、悲壮な、そしてぎりぎりの選択について描いたものは、ほとんど無い。



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