哀愁のヨーロッパ~地球の歩き方 (写真追補更新)

歴史・戦史

これは94回目。今日は観光ガイドです。松川版「地球の歩き方」とでも言いましょうか。わたしは、恥ずかしいことに、欧州に行ったことがありません。アジアは、あちこち回ったし、アメリカも知っているのですが、どういうわけか欧州を訪れる機会がなかった。つくらなかったといったほうが正しいのですが、今にして思えば、もっと若い頃に、アメリカを一周したように、バックパッカーとして歩いてみるべきだったと後悔している次第。

(トップの写真は、中国・ハルビン、聖ソフィア大聖堂)

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欧州というのは、土台、アメリカ等と違い、歴史と伝統の厚みに凄みがあるのだ。サラリーマン時代の多くを、アジアを歩き回ることに費やした経験では、どこにいっても、往年の欧州の征服者たちの残照をかいまみることができた。

インドが長く英国領だったことはよく知られているが、彼らがインド亜大陸にやってくる前は、オランダ人がおり、その前はポルトガル人がいた。インドが独立して後、最後の最後まで植民地としてポルトガルが手放さなかったゴアは、今ではもちろんインド領に復しているが、いかにもポルトガルの町並みが残る独特の風情がある。

(下はインド・ゴア)

すぐ南には、セイロン(スリランカ)があるが、南端のゴールという町に仕事で行ったことがある。首都コロンボからジープで、海岸線に延々と続く椰子の群落を辿り、2-3時間かけてようやく着くのだが、夕立ともなると、熱い地表からもうもうと水蒸気が上がる。これも熱帯でなければ見られない情景だろう。ゴールは、オランダ人やポルトガル人が残した城砦の町だから、自分がセイロンにいるのか、欧州にいるのか、ともすると幻惑されてしまう。

(下はスリ・ランカ、ゴール)

こういう光景というものは、アジア各地にある。中国ひとつとってもそうだ。ハルビンは、ロシア人たちの町だった。帝政ロシアによって人工的につくられた町である。本国で革命があったためか、ハルビンの白系ロシア人の人口統計には、かなりばらつきがある。5万から10万と推定される。

ハルビンが区画されはじめた直後の1899年、中央にはロシア正教会(ニコライ教会)が建設された。木造の豪壮な建築物だったが、1966年(文化大革命)に紅衛兵によってこの貴重な文化遺産は破壊されてしまった。当初人力で破壊しようとしたができず、とうとう戦車を繰り出して破壊したそうだ。

中国革命後もハルビンにわずかに残っていた白系ロシア人たちがいた。ロシアの革命で追われ、ようやく安住して、安らかな老後を送ろうとしたところに、中国でも革命が起こる。もはや年齢的にも、国外に逃れようという気力を失っていたのか。それとも、先立つものが無いために、やむなく残留したのか。その彼らが、教会が崩れ去っていく様子を遠巻きに見守っていた。年老いた人たちが多かったようだが、彼らは一様に十字を切りながら、「この罰(バチ)当たりが」とつぶやいていたそうだ。(当時を知る中国人とポーランド人のハーフから聞いた話。)

正教会は失われ、その後は、ただのロータリーになっていた。まだいくつか豪壮な正教会はいくつかハルビン市内に残っている。キタイスカヤ・ウーリツァの近くだったと思うが、革命前、ローザヴィルと言う女学校があり、その建物が残っていた。わたしがしょっちゅうハルビン入りをしていた80年代、記憶ではやはりなにかの学校として使用されていたはずだ。

(下は中国・ハルビン)

ハルビンを流れる松花江の広大な中洲に、かつてロシア人たちが別荘として使っていた地域がある。「太陽島」と呼ばれていた。ロシア風の木造建築がずいぶんと残っていたものだ。それこそ、トルストイやツルゲーネフ、プーシキンの小説に出てきそうな、エキゾチックな住宅なのだ。ごくたまにだが、人民服(中山服)を着た綺麗な白人女性などが、流暢な北京語で買い物をしたりしているのを見かけたから、その末裔たちかもしれない。彼女たちの姿と合わせて、町並みはいかにもロシア・センチメンタリズムが濃厚に漂う風情だったのを覚えている。

(下は中国・ハルビン、太陽島の白系ロシア人旧宅)

大連もロシア人と、日本人の町だ。およそ中国をぐるっと回って、個人的には一番美しい町だった。今でも、路面電車は通っているだろうか。五五路(ウーウールー)と、七七街(チーチーヂエ)の交差する一帯は、まさに洋風住宅が立ち並ぶ瀟洒な情緒に溢れていた。

(下は中国・大連)

青島(チンタオ)はドイツ人の町。

(下は中国・青島)

アモイのすぐ沖合いのコロンス島は、英国人の町。中国は、半ば植民地化されていたので、各地にそうした租界や外国人居留地の跡に、多くの洋風建築が残されている。

(下は、中国・アモイ、コロンス島)

もちろん、革命前、世界中の悪徳と腐敗と堕落の坩堝(るつぼ)と称された魔都・上海は、英仏などの租界の名残がまだある。

(下は中国・上海)

長く、二度も香港に住んでいたので、週末にはよく隣のマカオ(当時はまだポルトガル領で残っていた)に息抜きにいった。博打はやらないので、物見遊山だ。なにより、あの爛(ただ)れたような古色蒼然としたポルトガル風の町並みを歩くのが楽しみだったのだ。

(下は中国・マカオ)

半島中央部にある有名なセントポール寺院は、全面の壁だけが残っている。あの寺院を建築したのは実は戦国期、東南アジアに大量に流出していた日本人たちだ。だから、全面の石壁に施されている彫刻には、菊がしつらえてある。

(下は中国・マカオ、セントポール寺院)

マカオには、ベラヴィスタ・ホテルという、180年くらいの歴史はあったろうか、こじんまりとはしているが名門のホテルがあった。なにしろ、古いのでベッドもスプリングででこぼこしており、さんざんだったが、ベランダで海を眺めながらの食事は格別なものだった。マカオが中国に返還されたと同時に廃業したらしいが、今はどうなっているのだろうか。

(下は中国・マカオ、ベラヴィスタ・ホテルのベランダ)

ホテルで売っていた写真集を買い求めてみると、19世紀から20世紀初頭にかけてのセピア色の写真ばかりだ。当時の若い男女たちが、ダンスパーティなどを催している様子、日常の街並みの様子。一枚一枚観ていくと、このホテルだけ180年、時間が止まっているような錯覚に陥ったものだ。

建物だけではない。彼ら白人たちの在りし日の日常をかいまみるのには、実は墓地が一番良い。香港やマカオでは、共同墓地を歩くのも好きだった。彼らの墓というのは、たいてい墓碑銘が刻まれている。短い文章でも、どんな人生を送ったのかが、彷彿としてくるから不思議だ。

英国水兵の墓では、彼が何年何月何日の海賊襲来に応戦して命を落としたということが刻まれていた。確か二十歳そこそこだったと記憶している。少女の墓に、両親がありったけの愛情を刻み込んだ碑文も読んだことがある。夭折した人の墓石には、柱が途中で折れたようなものが多いからすぐわかる。

東南アジアにも数多くの白人たちの名残がある。観光でにぎわうプーケットの旧市街はポルトガルの町。ボルネオでは、クチンの運河沿いにかつての英国商館が今でも立ち並ぶ。ジャングルの中でさえ、ゴムなどの荘園経営に携わった数多くのオランダ人たちが宿泊したホテルが、現役で使用されている。

(下は、マレーシア・ボルネオ、コタ・キナバルの旧市街)

サイゴン(ホー・チミン)は、フランス色が非常に強い町並みを残している。ベトナムというと、北部沿岸のハロン湾の奇観が有名だが、わたしなら、ハロン湾より、中部高原地帯のダラトに行く。フランス人たちが開いたゴム園の街だが、昔から1400mの高地ということで、格好の避暑地になっていた。アジアでも有数の美しいフランス住宅が立ち並んでいる。アジアであれほどおしゃれな街は無いだろう。カフェのようなフランスの習慣は、そのまま残っているから、あちこちで気の利いた散策をすることができる。

しかし、なんといっても西洋文化を圧倒的に浴びたのはフィリピンだろう。全土は7000の島で構成されているが、各地にコンキスタドール(征服者)たちの跡を見ることができる。城砦は、かなり見る影もなくなっているものが多いが、やはりカトリック教会の夥しさが目に付く。

(下は、フィリピン、ヴィガン)

400年の時を超えて、カトリックの伝道師たちの夢が眠っている。中部のレガスピには、富士山よりも見事な円錐形の秀麗なマヨン火山がある。たびたび噴火しては、大きな被害を地元に及ぼしてきたが、1814年2月1日の大噴火では、街は壊滅した。現在のレガスピは新市街だ。灰に埋もれた旧市街は、アジアのポンペイだ。その荒野に、地表からいきなり教会の尖塔部分だけが、若干かしがったまま突き出している。カグサワ教会の遺跡だ。

(下はフィリピン、レガスピ、マヨン火山とカグサワ教会尖塔遺跡)

アジアに行けば、アジアを観るのが当たり前なのだが、歴史というのは面白い。そこで、往年の白人たちの夢の跡を思いもかけず目にする機会を得られる。古い建物ばかりだから、いまは廃屋になっている場合もあれば、いまだに現役の場合もある。しかし、どれもこれも、そこで彼らが日々どういう生活をしていたのか、なにを求めて地球の反対側にまできて、どうやって死んでいったのか。調べていくと、歴史の教科書には出てこない、一般の人々の夢と悲哀に出会うことができる。

実際のヨーロッパを見たことがないわたしがこんなことを言うのもなんだが、写真で比べて見る限り、わたしがアジアの各地で見た欧州人たちの建築物は、本国以上に自分たちの存在をアピールするかのような強烈な主張をしている気がする。様式やデザインという観点からしても、おそらくそうに違いない。本国以上にフランス的であり、本国以上にスペイン的なのだ。

アジアを観光で訪れるなら、ふとこんな視点で見ると、そのアジアの町が辿ってきた歴史に理解が及ぶようになる。アジアを裏側から理解することができるかもしれない。一味違った、なかなか上質な旅だと思うが、どうだろうか。哀愁のヨーロッパが息を潜めているアジア各地を訪れて、往年の征服者たちの栄光と挫折を肌で感じる旅も、またいいものだ。



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