運命の選択

歴史・戦史

これは283回目。フランスの二人の勇将、名将の選択が、かくも悲劇的な結果を招いた例です。運命とは最初から決まっていることなのでしょうか。それとも、選択の余地があるものなのでしょうか。
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ナポレオンには数多の優れた将軍たちがいた。その中でも、とりわけ目立ったのは、ネイとダヴーの二人だ。

まったく見かけも、中身も全く対照的な二人で、ナポレオンに対する敬慕の念においても、余人の追随を許さないほど熱狂的なものだった。

それが、ある時点から大きく運命が分かれていった。その話だ。

ミシェル・ネイは、ナポレオンをして「勇者の中の勇者、le Barve des Braves」を言わしめた勇将だ。もともとフランス革命前、樽職人の次男として生まれた。

(ネイ)

ネイx

後年、戦術理論家として大成したジョミニ(スイス傭兵)という人物がいる。日露戦争の日本海海戦で戦略立案をした秋山真之海軍参謀が、直接私淑した戦術理論家マハンも多くをジョミニの、外線・内線理論に影響を受けたことでも知られている。

この名参謀・ジョミニは、長いことネイに副官としてつかえ心服。ネイは、ジョミニの軍事理論書の出版を、私費で支援したりもした。しかしジョミニの才覚をねたんだその他の将軍たちとの確執・軋轢が増し、ナポレオン帝政末期にはあろうことか敵のロシア軍に移籍した。

ナポレオン帝政崩壊後、ネイの処刑に際しては、ジョミニはロシア皇帝を動かすなどし、ネイの助命に奔走したが叶わなかった。しかし、その後50年も長寿となったジョミニは、終生、ネイへの尊敬の念を失わなかった。

ネイは粗野、単細胞、直情径行と三拍子そろった男だったが、このように人望は異様に高かった。

将軍にもかかわらず、一線の兵士を率いて、自ら先頭で切り込んでいくその姿は、フランス兵を奮い立たせた。真っ赤な毛髪が印象的で、兵士たちからは「赤ッ毛のネイ」「不死身のネイ」と慕われた。

ネイが陣頭に立つと、全軍が高揚するのが常だった。

ナポレオンがロシア遠征に失敗し、敗退すると、パリ争奪戦を巡りナポレオンと将軍たちは衝突した。将軍たちは、パリが炎上することを恐れ、ナポレオンに退位を迫った。その中に、ネイもいた。

ネイの、ナポレオンへの尊敬は変わらなかったが、それ以上にフランスが焼け野原になるのを見ていられなかったのだ。苦渋の決断で、ナポレオンに退位を迫った。

しかしこのネイの裏切りは、ナポレオンにとって致命的なほどのショックだったようだ。ナポレオンは退位し、エルバ島に流された。

パリに復帰して再び革命前の絶対王政を敷いたルイ18世は、ナポレオン揮下の将軍たちをそのまま留用した。ネイは、ルイ18世に忠誠を誓った。

ところが翌年、ナポレオン敗退後の欧州各国は、戦後処理に滞った。利害の調整に手間取ったのだ。フランス国内では、復活した絶対王政に対する怨嗟の念が日増しに増大していた。

この間隙を縫って、ナポレオンはエルバ島を脱出。数百人の近衛兵だけを伴い、フランスに上陸したナポレオンはパリを目指した。

ルイ18世は恐怖し、ネイにナポレオンを捕らえろと命令。ネイは「鉄の檻に入れ、引っ立てて来る」と豪語した。

ネイは大兵を率いて、北上してくるるナポレオンの捕捉に向かい、両者一触即発という事態となった。フランス軍同士の戦闘の危機だった。

ネイの大兵と対峙したナポレオンは、近衛兵たちに銃を降ろさせ、一人ネイ軍の前に歩み出た。

(ネイ軍に呼び掛けるナポレオン~映画「ワーテルロー」から)

エルバ

エルバ2

「兵士よ。おまえたちの皇帝を殺したいものがいるなら、いまだ。わたしはここにいる。」

ネイは、射殺を命じたが、誰一人撃つ者はいなかった。中には、緊張のあまり、失神して倒れる兵士も出てしまった。やがて、誰かが「皇帝万歳!」と叫ぶと、ネイ軍の将兵たちは雪崩を打ってナポレオンの下に駆け寄り、胴上げしてしまうありさまだった。

消沈するネイに、ナポレオンが近づくと、ネイは馬上からサーベルを抜き、ナポレオンに渡した。
降伏である。

ナポレオンは、笑って「ネイ、お前は俺を鉄の檻に入れて帰ると言ったそうだな。」ネイは無言だった。
ナポレオンは一言「俺に、ついてこい」、そういってパリを目指した。
軍がナポレオンに寝返ったのを知ったルイ18世は、またもロンドンに逃亡した。

ネイは、これで生涯に、二度裏切りをしたことになる。

さて、一方のダヴーだ。二コラ・ダヴー。おそらく、数あるナポレオンの将官たちのうち、突出した名将は、このダヴーだったろうと言われている。ある意味、ナポレオン以上であったという高い評価もある。

(ダヴー)

ダヴーjj

「不敗のダヴー」と呼ばれ、これまた将兵たちからは絶対の信頼を勝ち得ていた将軍だった。

ちび、でぶ、はげの三拍子そろったこの男は、見るからに風采の上がらない容姿だった。爵位がないとはいえ、一応貴族出身。しかし、烈烈たる共和主義者だった。革命前、王国軍の正規士官でありながら、連隊内で共和派を組織し、逮捕投獄され、軍籍も剥奪されるという憂き目にあっている。

硬骨漢として知られ、革命中は革命軍に身を投じ、優秀な指揮官として知られるようになったものの、戦線から撤退しようとする上官たちを、怒りのあまり砲撃したりするなど、頑固一徹、節を曲げない一本気なところがあった。

将官たちの中では、あまりの頑固さゆえか、人に迎合しないたちだったためか、嫌われもので、一人浮いた存在だったと言われている。また彼自身、それを苦とも思っていなかったようだ。

ナポレオン治世下では、34歳で元帥に任命されているが、元帥任官としては最年少である。アウステルリッツの戦いでは、常識外れの用兵で、敵主力を一手に引き受け見事な遅滞戦術を見せ、ナポレオン本隊が敵中央を突破分断していく上で、決定的な働きをした。

アウエルシュタットの戦いでは、2倍以上のプロシャ軍を撃破して、ナポレオンもその報せをしばらく信じられなかったくらいである。

イエナ・アウエルシュタットの戦いは、ナポレオン本隊がプロシャ軍をイエナで撃破。これはナポレオンが数的に圧倒的な優勢を有していたから、当たり前と言えば当たり前。

一方。敵地深く侵攻して「くさび」の役目をはたしていた別動隊のダヴー第3軍団は、このとき26000人、砲45門でイエナ北方のアウエルシュタットにいた。

実はプロシャ軍の本隊は、ダヴーを目指していた。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世自ら率いる63000人、砲230門の大軍である。ナポレオンは、自分が破ったのが本隊ではなかったと気づき、急ぎダヴー救援に向かう。しかし、同日の戦いであるから間に合わない。

なんとこの状況下でダヴーは、敵の指揮系統が杜撰なのを利用しながら、徹底抗戦。あとからあとから後続支援してくるプロシャの軍団ごとに各個撃破。挙句の果てに、総反攻に出て、滅多打ちにするという驚くべき戦勝を博した。

ダヴーは総兵力の四分の一にあたる7000人を失ったが、プロシャ軍は兵員13000人、砲115門という多大な損害をだし潰走。

ダヴーの第3軍団は、実に2倍以上の敵本体主力軍を相手にして、2倍の損害を与えたことになる。これほどの兵力差を覆した戦例は戦史上でも稀であり、ナポレオン自身の戦いにもやはり一例も無い。ダヴーの傑出した野戦指揮能力がなければこの勝利はありえなかった。

やがて、ナポレオンが徐々に決断力が鈍っていく中でロシア遠征が行われたが(ボロディノの戦い)このとき、ダヴーの献策をナポレオンを受け入れていれば、フランス軍は完全にロシア軍を捕捉し、降伏か壊滅させることができた。そうすれば、ロシア遠征は成功裡に終わり、その後の帝政崩壊も無かっただろうと言われるくらいだ。残念ながら、ナポレオンは、ダヴーの主張を取り上げなかった。

遠征敗退後、将軍たちはこぞってナポレオンに退位を要求したが、ダヴーは根っから、熱狂的なナポレオン信者であった。ここでも節を曲げない。

自軍一つだけでハンブルグに籠城し、諸国軍が包囲する中、頑強な抵抗を続けた。なんと一年以上にわたって、連合軍の真っ只中で粘り通すという驚異的な実力を見せつけている。ついに説得に次ぐ説得の末降伏したのは、実にナポレオンが退位した1ヶ月後のことである。

ルイ18世はパリに戻ると、ネイたちと同様、ダヴーにも絶対王政に忠誠を誓えと言うが、ダヴーは当然拒否。そこで、国外追放となった。

実はこの二人、ネイとダヴーは、大の仲良しだった。選択は違ってもこれは終生変わらなかった。脇は甘いが人情型の武骨なネイと、首尾一貫した硬骨漢のダヴーは、出身も違い、ものの考え方もまったく異なっていたが、どういうわけか馬があった。ただ、ネイがフランスという国家のために意思を貫こうとしたのに対して、ダヴーは共和制とナポレオンに対する思いが絶対的信仰のように強かった。この違いが、それぞれの人生における選択の差となって出たようだ。

パリに帰ったナポレオンは、ダヴーを追放先から呼び戻した。そして、大陸軍の再建を命じる。ナポレオンは先制攻撃を考え、ベルギーに駐屯する英軍(ウェリントン)と、プロシャ軍(ブリュッヘル)が合流する前に、各個撃破してしまおうとしたのだ。ダヴーは軍を結集し、自ら一個師団の指揮を申し出たが、ナポレオンは信頼できる者が少ないだけに、ダヴーをパリの防衛に残した。一方、ネイは前線に連れて行った。ネイは、死に場所を求めていたようだった。

1815年6月18日。ワーテルローの会戦では、ナポレオン軍は英軍・プロシャ軍が合流していない間隙を使って、まずプロシャ軍を叩き、これを撃破。このあたりまでは、往年のナポレオンを彷彿とさせる水際だった戦いぶりだ。

その後、グルーシーという忠実だが、命令に従うことしかできない(臨機応変の対処ができない)将軍に、三分の一を委ね、この追撃に向かわせた。ナポレオンは残軍を率いて、こんどは英軍と戦火を交えた。

ここでどういうわけか、ナポレオンらしさが消える。かつてのナポレオンであれば、プロシャ軍を撃破したら、ただちに休息せずに英軍に急接近して攻撃に入ったであろう。英軍に防衛態勢ができないうちに、一気に破砕するのである。

ところがこのときには、一晩かけている。雨を理由にしているのだが、それであれば余計急がなければならなかったはずだ。街路が泥濘と化し、行軍がはかどらなくなってしまうからだ。(とくに砲兵)

ウェリントンの英軍。これが難物だった。両軍の間にある二つの農家を巡って、前哨戦が繰り広げられたが、英軍の抵抗は頑強で、なかなか落ちなかった。

確保したと思っても、すぐに奪回され、また取り返すという争奪戦が延々と続き、仏軍は次第に焦りが出始める。ここで三分の一をグルーシーに任せて、プロシャ軍追撃に向かわせたことに、ナポレオン自身も後悔し始める。

あの軍団があれば、一気に強襲をかけて、英軍を木っ端みじんにできるものを。

この状況下で、ネイは血気にはやり、胸甲騎兵5000騎の大兵団を率いて、丘陵の尾根に展開する英軍歩兵師団に十三波の強襲を試みた。

(ネイの率いる胸甲騎兵大集団の強襲~映画「ワーテルロー」から)

ネイ77

騎兵が出動するときというのは、あらかた大勢が決まった段階で突き崩すのに使われるが、このときのネイは判断を誤った。焦ったのか、早すぎたのだ。英軍が尾根の向こう側に後退したのを見て、英軍退却と誤認したのである。

しかし英軍歩兵師団は退却したわけではなかった。仏軍の騎兵強襲を察知して、たくさんの密集方陣隊形で尾根裏に防衛線を張っていたのだ。馬の機動力や突破力を阻止する陣形である。

ネイはこの方陣を破れず、最後の歩騎砲兵合同の強襲も失敗し、これで仏軍は予備兵力を使い切ったことになる。が、この強襲で、実は英軍の戦線は崩壊寸前にまでなっていた。ただ、ひたすらこらえていただけ、と言っても過言ではなかった。

事実この時点で、ウェリントンは「負けた」と本当に思っていた。必死に思っていたのは、「夜よ来い。はやく闇が訪れよ。」ということだった。

夜陰に紛れて、退却するしか、英軍にはもはや道はないとウェリントンは覚悟していたのだ。

一方ナポレオンのほうは、ネイが余計なことをしてくれたが、どうやら「勝った」と思った瞬間だった。虎の子の近衛兵団を投入すれば、勝てる、とそう判断した。

しかし、地平線上に、黒い集団が見えてきた。英仏両軍ともそれが友軍であることを期待したが、次第にそれはプロシャ軍の黒の軍服であり、フランス軍の青の軍服ではないことがわかってきた。

ナポレオンは、プロシャ軍が戦場に到達するまでのわずかな時間に、虎の子の近衛兵団で強襲をかけ、英軍と木っ端みじんにしなければならなかった。

逆に、ウェリントンは、勇気百倍し、あとわずかな時間さえ持ちこたえれば勝てると、信じた。

ウェリントンは、仏軍からは見えない尾根のこちら側に、歩兵を腹ばいにさせ、フランス近衛兵団が丘を越えて来るのを待った。

ナポレオンは、乾坤一擲の博打を打つ。近衛兵団の密集戦列歩兵による強襲である。

近衛兵たちは、丘を越えて英軍を突き崩すだけだと思っていた。ところが、尾根を越えたところで、一斉に立ち上がった英軍歩兵の掃射に、前列からばたばたと倒れていった。

英軍に接近することもできないうちに、無敵の近衛兵団はただひたすら一斉射撃で壊滅した。

敗走するプロシャ軍を追っていたフランス別動隊・グルーシー隊が駆け付けていれば、英軍を突き崩すことも可能だったろう。しかし、グルーシー隊は前夜の雨でぬかるんだ道路に難儀をし、プロシャ軍を見失い、遊軍と化し、あてどもなくプロシャ軍を求めて迷走していたのだ。

グルーシーの副官ジェラールは、その中でワーテルロー村方面からの砲声を聴いた。そして、グルーシーに、「皇帝陛下の本隊が英軍と交戦し始めているようです。わたしたちも、今から、砲声に向かって急行しましょう。」

グルーシーは、かぶりをふった。

「陛下からは、プロシャ軍を追えと命じられている。」

「しかし閣下、プロシャ軍はどこにいるか、もはやわからなくなってしまっています。わたしたちが今やるべきことは、ひたすら砲声に向かって進むことです。」

しかし、グルーシーは独断専行を拒み、ひたすら行方不明のプロシャ軍を追い求めて、迷走を続けていった。

この敗走したはずのプロシャ軍が、仏軍グルーシー別働隊の追撃を振り切って戦場に到着し、英軍に合流。形勢は逆転した。仏軍は総崩れになって敗退。潰走する仏軍将兵の中で、ネイが狂ったように絶叫しながら、将兵を押しとどめようとしたが、無駄だった。もはや、流れを変えることは出来なかった。ナポレオンにとっては再起のための一戦に敗れ、連合国はナポレオンにとどめの一発を打ち込んだ。こうして、ナポレオンの百日天下は終わったのである。

仏軍が、総崩れとなって退却していったあと、ワーテルローの戦場にはまだ傷つき、動くこともできなくなった近衛兵団の一隊が、身を寄せ合ってひと塊になっていた。英軍はこれを包囲した。

ウェリントンは副官を通じて、彼らの奮闘をねぎらい、降伏勧告を行った。しかし、近衛兵たちの返答は、「くそっくらえ!」だった。

ウェリントンは、やむなく、一斉射撃で全員を射殺した。・

もしダヴーをナポレオンが連れて行っていれば、間違いなくプロシャ軍の横やりを排除できたろう。グルーシー別働隊が、もしダヴー別動隊だったら、プロシャ軍を見失った時点でただちに反転、間違いなく急ぎ本隊に合流し、プロシャ軍・英軍もろとも粉砕したであろうことは疑いの余地もない。ワーテルローの戦いは、ナポレオンの圧勝となり、歴史が大きく変わったかもしれない。

実際パリに残っていたそのダヴーは、ワーテルロー敗戦の報を聞くと、英・プロシャ連合軍がパリになだれ込んでくると判断。手勢を率いて直ちに出陣した。小部隊だけで、なんと勝ち誇るプロシャ軍を撃破するという神業を見せつけている。ダヴーが立ちはだかったことにより、連合軍はパリ突入を断念した。

意気消沈したナポレオンは再び退位し、大西洋、絶海の孤島、セントヘレナへ流刑となった。ダヴーは降伏し、再び追放された。

ルイ十八世の怒りは収まらず、裏切り者のネイを、みせしめのために軍法会議にかけた。裁判では、ダヴーは身の危険も顧みず、自ら出廷してネイの弁護に奔走したが、判決は最初から決まっていた。

判事団にいた、ネイのかつての同僚将軍たち(ルイ18世に忠誠を誓った者たち)も多くは、処刑賛成票を投じた。一方ダヴーは、警察の監視下に置かれ、すべての役職を剥奪され、一時は逮捕されたりもした。

けっきょくネイは、銃殺刑となった。兵士が目隠しをしようとすると、「おれが、ずっと銃弾を見据えてきたことを知らんのか」と言って拒否。

「兵士よ! 私は撃てと命じる時、必ず標的の心臓をまっすぐ狙えと言ってきた。 これは私の最後の命令だ。私は、判決に抗議する。私は何百回とフランスのために戦ってきた。だが一度たりとも祖国に背いてはいない……兵士たちよ、撃て!」

(ネイの処刑)

ネイ3

ネイの死後、未亡人が墓碑にこう刻んでいる。

「五十年の栄光。一瞬の錯誤」

ルイ十八世に組みしたことが錯誤だったのか。それとも、一度は裏切ったナポレオンに再びついたことが錯誤だったのか。

ネイの処刑から六年後、絶海の孤島でナポレオンは病死する。その翌年、ダヴーも二人の後を追うように、結核で死去した。ダヴー夫妻は、息子にナポレオン、娘にジョセフィーヌ(ナポレオンの前妻)と名をつけていた。

ダヴーはネイと同じ墓地に葬られている。「大陸軍(グランダルメ)」でも突出した二人の墓には、今でも献花が絶えない。

ネイとダヴーは、どちらも私心のない生粋の軍人だった。ネイは、ひたすらフランスが外国軍に蹂躙されることを避けたかった。その意味ではフランスを愛する思いにブレはなかった。ダヴーは、共和制とナポレオンへの忠誠という点で、一貫してブレがなかった。しかしその運命の選択は、二人のその後をまったく違う結果に運び去った。

人は、ときに運命を避けようとした道で、しばしばその運命に出会う。ドイツの哲学者、ショーペンハウエル流に言えば、「運命がカードを混ぜているとしたら、カードを切るのは、けっきょく私たちだから」なのだろう。



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