なぜ「型」が重要なのか?

歴史・戦史

これは153回目・型というものは、破らなければいけないとおもいます。新しい世界が開けないからです。しかし、型がなければ、破ることもできません。ともすると、型もわからずに、型破りなことをしようとする自分がいました。

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長い間、ずっと誤解していたことがある。間違った認識をしていたのだ。それが、型の大切さということだ。形式といってもいい。形式、ということが大嫌いだった。若いときにはとくにそれが顕著だった。型や形式というものは、破られるためにある、とさえ言い放っていた。どうもそうではないらしい。

ある有名な将棋の名人が、初心者に「背筋を伸ばせ」と言った。それは、駒のせめぎ合い、取り合いにとらわれてしまい、将棋盤全体の動きを見逃しがちだからだ。背筋を伸ばすことで、将棋盤全体が目に入る。ひとつひとつの駒に目を奪われていたから、全体がわかれば、まったくそれまでと違った風景が見えてくる。視点を高くすることで、全体の変化に気がつく。だから、背筋を伸ばせと言ったのだ。まるで、礼儀作法や精神論を言っているようで、実はきわめて論理的かつ現実的な教えだ、ということになる。

武道でもそうらしい。当たり前のことを言っているようで、実はとてもロジカルな教えであることが多い。池波正太郎の小説に『夜の戦士』というのがある。「武田信玄暗殺」という任務を与えられた主人公の丸子笹之介は、それなりの腕に覚えはあった。が、任務の成功を期して、まず剣の達人である塚原卜伝に入門する。そこで認められれば、卜伝と親しい武田信玄に、自分を推挙してもらうことができる、という算段だった。信玄に近づけば、機会を見て暗殺に及ぶことができる。

さて、卜伝に入門したのはいいのだが、当初、ろくな修行もなかった。やがてしびれを切らした笹之介は、卜伝に早く修行らしい修行にしてくれと直訴する。そこで卜伝は笹之介を滝が落ちている崖の上に連れて行った。そして、滝の水が落ちる様子をずっと見ているように、と言う。それからというもの、言われた通り、延々と毎日この滝が下へ堕ちていく様子をひたすら見続けたのだが、だんだん馬鹿らしくなった。これで何がわかるというのだ。

ときどき卜伝がやってきて、「どうだ、何か見えたか」と聞くが、「相変わらず水が下に落ちていくだけだ」と答えると、まだまだだな、という顔で卜伝は帰ってしまう。そんなことがずっと続いたが、あるとき笹之介の目に、いつもと違った様子が映った。それまではただ水の大きな流れ自体が落ちていくだけだったのだが、知らないうちに、水の一滴一滴が、バラバラに落ちていくのが見えた。

そのことを卜伝に言うと、それでよし、とばかりにいきなり免許皆伝となった。もちろん笹之介は、すでにそれなりの剣の腕があった上での話なのだが、いったい卜伝はどんな極意を、笹之介に会得させようとしたのだろうか。今で言うところの動体視力であろう。剣の勝負は、最終的には一瞬の動体視力で決まる、そのことを卜伝は伝えようとしたのだ。

剣術道場などで、なぜひたすら水拭きをするのか。それは、足腰を強靭にするためだ。ことほどさように、修行とか、型と言われるものは、得てして理不尽な精神論のように見えて、実はすぐれて実用的な、論理的な目的があることが多い。現在、指折りの居合の達人と言われる黒田鉄山氏は、ことさらこの型にこだわる。ひたすら型を学ばせる。実際の切り合いで型通り運ぶなどということは絶対にない、と言い切るのに、である。

型は、何百年にもわたって研ぎ澄まされてきた基本動作だ。それを徹底的に体に馴染ませて、覚えこませれば、実践では体のほうが勝手に、最も合理的な動きをしてくれるからだ、という。完全に型を覚えることで、実践では型にとらわれず、言わば型を超える動きができるようになる。

世の中のさまざまな分野で、この型とか形式というものがある。多くは、形骸化しているかもしれない。その心を知らず、ただ、形だけを整えようとする手合も多い。本末転倒というやつだ。それが生まれた過程の意味、を学ぼうとしない。長らく私もそういう類の人間の一人だったようだ。



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