成人になると、大人になると・・・

歴史・戦史

これは71回。成人年齢が現行の20歳から18歳に引き下げる改正民法が、2022年4月1日に施行されます。成人の定義が1876(明治9)年の太政官布告で「20歳」と定められて以来、約140年ぶりに変わることになります。成人って何でしょう。そもそも大人って何なんでしょうか。書いているうちに、なんだか怒りにまかせて、ついつい筆が走っているような気がしますが、平にご容赦。

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学生の頃、「社会人になれば、試験が無くなる」と喜んでいたものだが、現実には愚にもつかない資格試験や勉強をさせられて、つくづく閉口したものだ。企業というのは、余計で、無駄な研修ばかりやり、現実的な教育システムが非常に少ないと、痛感した次第。

たとえば、(恥をさらすようだが)証券会社時代、内部管理者試験というのがあった。3分冊の教科書は、法律用語が一杯で、ほぼ日本語として読むことができなかった。

どうにも面白くない。いやでいやで仕方がなかった。年二回の試験だが、ことごとく落ちた。勉強しなかったわけではない。『権威に従順』なわたしなりには一生懸命にやったのだ。教科書は赤ペンでどのページも真っ赤だ。しかし、受からないのだ。なんと、9回連続で落ちた。

まだこの制度は新しかったが、すでに足掛け5年落ち続けていたことになり、とうとう人事部に呼ばれた。

「次長の君が、どうしてこんなに何度も落ちるんだ。新入社員だってみんな一回で受かってる。9回っていうのは、君、記録だよ、記録。ナメてるんじゃないのか」

「とんでもないです。ほれこの通り」と、使い込んだ教科書を見せた。
人事部の人は、納得がいかない、という顔をしていた。

そのうち、直属の上司から別室に呼び出された。部長だ。

「松川くん、頼むっ。この通りだ。」と、部長は机にごつんと頭をぶつけて両手をついてわたしに「哀願」した。
「頼むから、今度こそ受かってくれ。人事によれば、9回落ちた人間というのは、歴史始まって以来のことだ、そうだ。」
(これまた、「歴史始まって以来」とは大げさな。開始されてわずか数年のことではないか。)
「しかし、そう言われましても、さっぱりなにが書いてあるのかわからんのですよ。日本語じゃありませんよ。こりゃ。わかるほうがどうかしてる。この日本語がわかって、試験に受かってる人間は、みんな頭がおかしいですよ。だって読んでくださいよこれ。『~については、~では無い場合にのみ、~では無い以外は、~の限りではない。』わかりますか、部長。これ、日本語じゃないですよ。」
「だって、君だけじゃないか、受からないのは。」
「だから、わたし以外、みんな頭がどうかしてるってことですよ。」
「なに言ってるんだ。きみだよおかしいのは。こんなものね、勉強なんかしても駄目なんだ。過去問題やっときゃ、通っちゃうんだよ。」
「そんなもんですか。」
「そうだよ。わかった。よし、次の試験まであと一ヶ月だ。鈴木君をつけるから、なんにも仕事をしないでいい。とにかく、鈴木君に教えてもらって、これだけ一日中やってくれ。頼むよ。」
「はあ。仕事のほうがずっといいな。」
「困るんだよ、それじゃ。ぼくがね、ぼくが困るんだ。頼むよ。」
「はあ。」

ということで、鈴木君という当時のわたしの片腕の指導の下、いわゆる過去問題をやらされた。一枚目、いきなり20%くらいしか正解がない。鈴木君はその正解を見せてくれて、覚えろという。で、覚えた。翌日、もう一度、同じ過去問題をやった。ほぼ100%。当たり前だ。それを、すべての過去問題でやらされた。結果、教科書は一度も読まずに、過去問題をやっただけで、恐るべき10回目の試験は合格した。

ますます、思った。なんと下らない。こんなことで、管理者としての資格を計っているのか。この国はどこか間違ってるのではないかとまじめに思った。証券マンたるもの、投資理論の一つも勉強させないで、なにが愚にもつかない資格試験の勉強だ。

最近の子供が勉強しないと良く言うが、そもそもこういう社会をつくったわれわれの責任である。それこそ馬鹿馬鹿しい勉強だけをして、何の役にも立たないことに時間とエネルギーとコストをかけている嫌いが強い。まったく中身を伴わない学歴主義など最たるものだ。

なにかというと資格、資格、資格。英語検定だことの、何検定だことの。糞の役にもたたたない習い事ばかりが跳梁跋扈しており、それがビジネスとして成り立つというのだが、空いた口がふさがらない。明治時代を見ろ。学歴や資格なんぞなくたって、抜擢でいくらでも生き生きした時代をつくったではないか。

一番実学としての勉強が足らないのは、なんと言っても官僚である。日本で最も優秀なエリートであるはずだが(アメリカでは、逆だが)、明治以来、官製大学(旧帝国大学)出身者の就業率がきわめて低く、路頭に迷うものが多発したことに心を痛めた伊藤博文らが、現在の国家公務員試験のようなもので、ほぼ自動的に官僚職につくことができるようにした。それが、現在まで結局続いており、およそ社会の構造変化などに対応できていない。

いわゆる「キャリア制度」というものだが、1888年(明治20年)にスタートした試補制度に起源を持っている。当時は、帝国大学出身者は無試験で任用できるようにしていた。不足した分を、帝国大学出身者以外の試験選抜という形で採用したのだ。

当時は致し方ない。なにしろ、文明開化のなにかもわからない時代だ。とにかくエリート集団を速成しなければならない急務があったからだ。さすがに、帝国大学出身者の無試験任用には批判が多く、1894年には、高等文官試験という、現在のキャリア採用制度と同じようなものが誕生した。

戦後、GHQは、この制度の改編を試みたが、各省庁の抵抗で不徹底に終わっており、実際にはほとんど戦前と変化していない。

わたしの同期に、こうした制度に乗って官僚となった人間がいるが、一度同窓会のような集まりで話をしたときに、目が点になるような発言を聞いたことがある。

当時わたしはタイヤメーカーにいたが、彼からこう言われた。「幅の広いレーシングタイヤあるでしょう。あれは、暴走族が多用しているのだから、製造禁止にしたほうがいいよね。メーカーも、どうしてあんなものつくるんだろうか。」

あれは、モータースポーツ用のタイヤとして設計されたものだ。暴走族のためにつくったわけではない。それを暴走族がつかって、公道を乱暴に走ろうとなにをしようと、タイヤメーカーの知ったことではない。

タイヤが悪いのか、暴走族が悪いのか、という話だ。ゲームでも同じかもしれない。子供たちが勉強しないのは、ゲームがあるからだ。だから、ゲームは製造禁止にしたほうがいい。とくに、バイオレンス物は、青少年の精神に悪影響があるかもしれないから、製造禁止にしたほうがいい。なんでもそういう結論になる。

これは、極端だが、官僚というのは得てしてこういう発想でしかものを考えられない。思考回路が、なんでも芽を摘んでしまう方向に向かうのだ。そして、二言目には、「前例が無い」ときたものだ。前例が無いなら、おまえがつくってみせろ。そのくらいの気概がなくて、なにが国家の選良だ。これでは時代が退行現象を繰り返すばかりじゃないか。彼らの思考回路で行けば、つきつめていけば、文明というものは、およそ社会の害悪であるという結論になる。原始時代にでも戻れというのか。

上記は極端な例だったが、彼らの発想とは、往々にしてこんなものである。日本でもっとも優秀なはずの人材がそろっているはずの官僚が、数年もたつと、いきなり呆けてしまうのだろうか。彼らが悪いのではなく、あの伏魔殿が彼らをそう変えてしまうのか。それが、役所というところの恐ろしい「文化」だ。その対極にあるのが、大企業の「利益」のために、「やむなく」一線を踏み越えても「仕方ない」という「文化」だ。どっちもどっちだが。

なぜ官僚というのはそうなのか、というと彼らは、一度として実業に就いて労働をした経験が無いのだ。提案としては、国家公務員試験は構わないが、任用以降、早い段階で、所属官庁の管掌分野において、民間会社に出向という形で何年間か就労義務を課すべきなのだろう(給与などは、すべて役所持ち)。そうすれば、宇宙人ばかり集まったような日本の役所も、ずいぶん視点が変わってくるはずだ。

では、一方の民間企業の人間は、どうしたら矯正できるだろうか。これはもう答えが決まっている。徴兵制復活しかないだろう(笑いごとではない)。そして、2年兵役に行くか、それとも、4年社会奉仕活動に就くか、どちらかを選択させるのだ。民間企業にどっぷりとつかっている人間は、のきなみこの「公的任務」の洗礼を受けるが良い。

わたしみたいな、実際の戦場にいったら足手まといにしかならない老頭児(ロウトル)でも、体が動く以上は問答無用で兵役だ。体力的に無理があるから、おのずとカリキュラムは若い人たちと同じにはできないだろうが、それなりの任務に就かせることはできるだろう。いよいよとなれば、爆弾を抱えたまま上陸してくる敵兵を待ち伏せして、自爆することくらいはできるだろう。

同じことは、教員についても言える。北欧では、教員というものは、教職員、生徒、親などから評価点数を受けることになっているという。また、同時に教員は、実際に何年か民間会社に出向して実社会での就労をすることが、何年かに一年といった頻度で義務づけられているそうだ。でないと、教員の資格そのものを失うのだ。

話は変わるが、わたしが在学していた大学は、ミッション系で、カトリック神父が軒並み教授陣に名を連ねていた。外人も多い。なにしろ、みんな日本語は達者だった。講義は当然日本語だった。すらすらと、難しい漢字で、どんどん板書していく。

これを日本の仏教系大学出身者で、高等教育に携わっている人たちと比べてみたときにどうだろうか。サンスクリット語やパーリ語は出来て当然だろうが、どのくらいの人が習熟しているのだろうか(ほんとですか?)。ましてや、中国語(日本で使う経典はすべて中国語である)、密教系であればチベット語などまで、自由に操れるほどの学術僧が、一体何人いるのだろうか。

もっと言えば、そうした日本仏教の精髄を、海外に布教するには、最低でも英語は習熟していなければおかしくはないか。日本に大挙してくる外人観光客に、納得してもらえる説明が可能な英語力を何人が持っているのであろうか。

もちろん、祈祷を専らとする僧侶はまた別格だろう。彼らは、24時間、地獄のような修行にあけくれているから、勉強などしている暇はない。生きたまま死臭が漂うほどの修行なのだ。しかし、そうではない僧侶は、いったいなにをしているのだ。

ネットで、日本居住歴の長い外人の論評を読んだ。なにしろ、日本はプラクティカル(実利的、現実的)ではない。日本人はまじめだが、それまでの形式に乗って漂うばかりで、頭の固さはどうにもならない、とこぼしていた。たとえば、観光立国を目ざすといいながら、日光の名所の周辺の店舗では、ほとんどクレジットカードが使えない。出雲へいくといっても、交通費が何万円もかかり、実際に出雲で観光客が落とせる予算は数千円でしかない。出雲大社に行くまでに馬鹿高い交通費だけで、マネーは消費されてしまい、肝心の出雲に落ちる量は少ない。

日本の観光資源といったら、それはもちろん温泉や自然、アニメやエレクトロニクスや料理など、さまざまあるだろうが、なんといっても寺社の名跡であろう、とその外人は言う。京都、奈良、鎌倉、日光みなそうだ。ところが、どこの寺社に行っても、英語のパンフレット一つ、ほとんどない。まるで、「勉強してから来い」と言わんばかりだ、という。

まったくその通りであろう。寺社は、外人たちに、いったい「取水舎」というものはなんなのか。祀られているものはなにであり、なんのためにこういう作法があるのか、詳しく、わかりやすく説明するのが、客人を迎える饗応というものだ。どこに「おもてなし」があるのだ。外人たちが知りたいのは、それが何であり、なぜなのか、なのだ。せっかく日本にきてくれたのに、なにも理解してもらえないではないか。

いつまでたっても、「フジヤマ、ハラキリ、カミカゼ、ゲイシャ」では困るのだ。実際、未だに、白人が作った映画の中にでてくる日本は、珍百景そのものではないか。まず違和感の無い日本を描いていたのは、わずかにクリント・イーストウッドが監督した「硫黄島からの手紙」だけだろう。

ましてや、仏教はただの葬式宗教で終わっているわけにはいかないだろう。日本の文化の重要な一翼を担ってきたのだ。武士道というものが成立するには、この仏教なくしてありえなかったのだ。その仏教がだらしないから、日本の現代文明がだらしないことになっているという側面は、多分にある、とわたしは思っている。武士道は無くなってしまったとしても、その根幹を形成して余りあった仏道が、この調子ではお先真っ暗だろう。

話は戻るが、会社は会社でこれまたくだらない研修が幅をきかせている場合が多い。リアリズムの欠如なのだろう。実学、というものが、日本には無いのだ。勉強しなければならないのは、子供たちではない。大人のほうだ。こんな状態が続くなら、成人を20歳から、18歳に引き下げたところで、なにも変わらない。勉強しない人間は、40歳になろうと、60歳になろうと、未成年となにも変わりはしない、と思っている。

怒りにまかせて駄文を連ねてしまったが、実はここまでが前置きで、本題はここからなのだ。

わたしの両親ともに、教員だった。二人とも、戦前派であるだけに、表からみても右。裏をひっくり返してもやっぱり右という思想の持ち主だった(母親はまだ存命だが)。コテコテの戦前の国家主義的な匂いがぷんぷんした。アメリカが入ってきて以降、にわかに民主的になった教員も多かったろうが、うちの両親ともに、頑固なまでに戦前派であった。

昭和天皇崩御に際して、父親はもともとミーハーではないから、宮城に赴いたり、記帳するなどといったことは一切しなかった。が、ずっと家で、何日も黙り込んでいた。一週間か、十日くらいだったと思うが、相当のショックだったのだろう。あの多弁な男が、ずっと口を利かなかったのだ。母親も言っていた。「かなりお父さんは、まいってるみたいだよ。」誰が死んだより、ずっと落ち込んでいた。実家は、しばらく火が消えたようだった。

その父親が死んだ後、毎年毎年、一人の男性が墓参りにきていた。母親によると、父親が校長をしていた頃の用務員だという。(今は、この用語は使わないらしいが、なんと呼ぶのか寡聞にして知らない。)よほどいわくがあるのだろうが、残念ながら父親がなにをしたのか、わたしは知らずじまいだ。その用務員も、いつの頃からか姿を見せなくなった。すでに高齢であったから、亡くなっているのだろう。わたしの中では、このときに「父親の時代」が、本当の意味で終わった。

あるとき、父親曰く、「終戦などという言葉でごまかして、こともあろうにアメリカに茶番のような裁判を強いられ、恥ずかしいと思わんか。なぜ、極東軍事裁判の後でもよい。日本人が日本人の手で、改めて、敗戦の責任を追及しなかったのか、それが無かったから、今の日本がメリハリのつかない、情けない国になっているんだ。戦(いくさ)はな、理屈もくそもない。事情がどうあれ、やるからには、なにがなんでも勝たにゃいかんのだ。しかし、日本は負けた。日本人は自分でその落とし前をつけてないじゃないか。アメリカに決算してもらって、なにが『終戦』だ。じゃあ、『敗戦』の責任はどうなってるんだ。」

そんな父親が、一度とんでもないことを言った。「敗戦の責任は天皇陛下にある。」わたしが、ふだん「天皇」と呼び捨てにすると、いちいち「陛下と呼べ」と注意する男が、である。「右のくせに、矛盾してるよね。」とわたしが言うと、「なぜだ。天皇陛下の御名御璽(ぎょめいぎょじ)のもとに、みんな戦っては死んでいったんだ。勝ったなら良い。しかし負けじゃないか。それも、悲惨極まりない。そのけじめもつけずに、なにが国体護持だ。」

今、振り返って、彼の心持に成り代われば、恐らく天皇が「済まなかった、許せ」と国民に一言呼びかけていたら、父親は涙を流して、すべてを受け入れたのだろう。彼にとっては、天皇陛下が「神」であろうが、「人間」であろうが、どうでも良かったのだ。そういう時代の男だ。この敗戦というけじめが無いままに、すんなり時代が終戦にすりかえられていったことに、彼としては痛憤の思いを禁じえない日々の連続だったのだろう。

父親の同僚は聞いている限りでは、2人南方で戦死している。教え子の親御さんも3人、沖縄その他で戦死している。空襲で亡くなった教え子や家族を含めたら、一体どのくらいになるのか、聞いていない。こういう事実は、かなり彼にはこたえたらしい。自分が結核で生き残っただけに、なおさらその思いは原罪のように重くのしかかっていたのだ。この苦衷というものは、同時代を生きた多くの生き残った日本人が、共有していたものであろう。ようやく結核が治り、九十九里で爆弾を抱えたまま蛸壺に隠れ、上陸してくる米兵や戦車に自爆攻撃をかける訓練を受けていたところで終戦と相成った。

その父親は、祭日には必ず国旗を玄関先に掲揚するようわたしに「任務」を課した。わたしの子供の頃は、まだ小学校の卒業式などでは、国旗掲揚、国歌斉唱、仰げば尊し斉唱は三点セットだった。中には、日教組の類いだろうが、反対する教員もいたようだが、わたしの父親が校長でいた小学校は、問答無用で三点セットを強行していた。

当時まだ若い(70年安保で、学生時代にゲバ棒を振るったり、ジグザグをやっていた人たちだった)教員二人が、我が家にまで押しかけてきて、反対論をまくしたてたことがある。しばらく父親は静かに聴いていたが、やがて怒髪天を衝き、「この未熟者! 国家や革命を口にするなど、貴様らには百年早いわ!」と一喝して、沈黙させた。「貴様ら」という言葉が印象的だった。奥の部屋にいた小学生のわたしに聞こえたのは、この怒号だけだったが、びっくりした。ふだん家で、大きな声を荒げることなど一度もない男だったのだ。

何時間も、彼らは家にいたが、そのうちに泣き出した。その後はずっと静かに父親が話していたので、なにを話したのかわからない。ただ帰る頃には、すっかりおとなしくなっていた。その後、ちょくちょく家に遊びにきたりしていたが、どうも完全に父親の熱狂的な信者になってしまったらしい。

死線を潜り抜けたあの時代の男たちが、ここぞというときに見せる凄みは、とても今のわれわれには真似ができない。その二人の若い教員は、いずれも校長になっていった。後に、二人が家に来た折に、よく「先生(父親のこと)に怒鳴られたときには、正直足が震えてましたよ。」と言っていたのを覚えている。

このように、父親というのは、骨の髄からナショナルな人間だったが、あの時代を生きた人間として、とてもわれわれからはうかがい知ることのできない、複雑な心境というものがあったことは間違いない。ただ、一貫していたのは、「筋を通す」ということだった。

その父親にして、不思議なことに、わたしの成人式に際して「別に行かんでもいい」と言ったものだ。これには驚いた。国旗掲揚、国歌斉唱は当然という男が、息子の成人式など、別に役所が主催する式典に赴く必要は無い、というのだ。「おまえが行きたきゃ、行けばいいが、それ自体はどうでもよいことだ。」と言ったものだ。

その心は、要するに、成人というのは覚悟の問題であって、本人の自覚がなければ、成人式などという儀式は、無意味だというものだった。15歳であっても、覚悟ができていれば、立派な成人であり、年をとっていても、甘えた根性のままなら、しょせん未成年と変わらない。きわめつけは、この一言だった。「なにしろ、大日本帝国が葬式すらちゃんと出してないんだ(先述の敗戦の決算のこと)。若い連中に成人式も何も無いもんだ。」

父親は言った。「おまえが、大人だと自認するなら、それで十分だ。おれが祝ってやる。ほかになにが要る。おまえのことを知らず、おまえもその人のことをこれまで見たことも無く、そんな連中に成人式だといって、おべんちゃらのお祝い事を述べられて、同窓会かなんぞのようにわいわい騒ぐ。そんなことがおまえ、うれしいか。おまえのことを一番良く知っていて、おまえの成長を世界中の誰よりも一番心待ちにしていたこのおれが、今、ここで祝ってやる。喜べ。」

これが、今は亡き、ほとんど明治生まれといってもいい父親の残した、数少ない金言の一つだ。この言葉が蘇るたびに、ひたすら恥ずかしく思う。正直、合わせる顔が無い。明治はおろか、昭和でさえ、遥か遠くになってしまったようだ。



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