コードネーム『桐(きり)』~(2)日中和平工作の軍人たち

歴史・戦史

これは322回目。上海に続いて、北京郊外の盧溝橋で、日中両軍が衝突します。これを現地軍は必死で停戦に持ち込みました。今井武夫もその最前線で交渉に立っていた一人です。

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この白川の殉職を受け、白川の腹心だった田代皖一郎(かんいちろう)参謀長が、白川の後を受けて事態収拾をし、これもまた内外から高く評価された。人物は温厚で、部下から非常によく慕われた。

(田代皖一郎)

田代

この直後、7月7日、ついに盧溝橋事件が勃発する。北京郊外で、日中両軍が激突したのである。田代(佐賀県出身)は、支那駐屯軍司令官に就任。相対峙する中国軍の宋哲元将軍と関係が良好であった。宋哲元は、このとき田代のみならず、北京駐在武官の今井武夫陸軍少将とも非常に懇意で、娘の結婚式に今井夫妻を招待していたくらいである。

(宋哲元~蒋介石軍の『五虎将』の一人。中央左が宋哲元、その右が蒋介石総統)

宋哲元

しかし、宋哲元が率いる第29軍は、内部で国民党の強硬派、あるいはソ連・中国共産党の命を受けたコミンテルン活動家が多く、対日強硬路線で大いに荒れていた。中国政府も、ときの日本政府と同じく、ソ連や共産党のスパイがはびこり、日中和平工作を徹底的に妨害し、むしろ戦争勃発を画策していたのである。田代は、白川の方針を踏襲し、戦争不拡大の立場を取っていたが、不運なことに病に倒れてしまい、7月11日には重篤に陥った。

このため、田代に代わり、配下の香月清司(かつききよし)中将に譲った。田代は16日に急死してしまう。今井武夫の述懐によると、このとき田代が危篤状態に陥っていなければ、その後の日中戦争は勃発しなかったかもしれない、というくらい、日本陸軍にとっては白川に続いて、またしても貴重な人材を回帰可能点ぎりぎりの重大な局面で失った。

(香月清司)

香月

またしてもここで、わたしなどは、田代の死を早める謀略(例えば毒殺)などが、ひそかに行われたのではないかとすら疑ってしまうのだ。あまりにも、絶妙なタイミングで、ものの見事に和平派軍人が次々と倒れていった流れは、とても偶然とは思えないのだ。

この盧溝橋事件のころ、今井武夫は駐北京武官として家族とともに赴任しており、偶然事変に遭遇することになる。もともと、満州国奉天で特務機関員(スパイ、工作員)だったころ、田代は同地の憲兵隊司令官だった。そのころから今井は、田代に可愛がられていた。

(今井武夫)

今井武夫

今井は特務機関員だった当時、暇さえあれば中国各地を視察しては研究を重ねていた。中国の民俗・文化、軍閥の組織・政治体制、産業、経済情勢、万端にわたって知識や経験を積み上げていたのだ。それを見た田代は、「支那大陸を南北にわたって、お前ほど根気よく理解しようとしている者は少ない」と言って高く評価されている。

その田代が、盧溝橋事件という重大な局面で病重篤となったのだ。今井は現地軍の間を奔走して歩き、田代の病が重篤に陥った7月11日には、現地軍同士の停戦協定にこぎつけることができた。停戦成功である。

したがって、日本からの増援師団派兵の必要はないと、東京に強く主張したにもかかわらず、蒋介石が現地軍に増援師団派兵を決定したので、近衛内閣も増援師団派兵に踏み切ったのだ。結局、蒋介石は派兵したものの、ほぼ取るに足らない規模であった。日本政府の反応は明らかに過剰であった。というより、意図的に事態を激化させようという意図があったとしか考えられない。

このように、田代の後を受けた香月中将や、今井武官ら現地軍側の一触即発というぎりぎりの状況下での停戦協定成立は、双方の本国政府の判断で、潰されてしまったのだ。

香月中将は、支那駐屯軍司令官として田代の遺志を受け継ぎ、戦争不拡大を主張するが、陸軍内部、とくに方面軍幹部たちの強硬論と対立。蒋介石(中国政府総統)も、宋哲元に対日妥協を禁じたため、宋哲元もその立場に窮してしまった。

結果的に前線の最高司令官二人が、和平交渉をまとめようとしているのに、周囲や本国がこれを潰してしまったのだ。香月中将は、この盧溝橋事件の事態収拾に積極的であることから、ただちに解任され、翌年予備役。つまり、引退を強いられた。

ここから、今井武夫のドラマが始まる。もはや現地軍に、戦争拡大の歯止めとなるリーダーはいなくなった。今井は、坂道を転がり落ちていくように戦争拡大を続ける日本を、それでも必死に止めようとする。そこには、数多の同志が、陸軍部内にも、民間にもいて、今井とともに和平工作に奔走している。

今井武官の努力で成立した現地軍同士の停戦は、結局一時的なものとなり、事変は決着せず拡大した。この昭和12年1937年7月7日の盧溝橋事件は、その後日本のとめどもない中国大陸進出の端緒となった。(4年後に真珠湾攻撃、8年後に無条件降伏である)今井は、同年末に帰国し、参謀本部支那班長、ついで支那課長に就任し、陸軍大学の兵学教官も兼務した。

すでにこのとき、今井は中国要人たちと親しい関係をつくっていた。盧溝橋事件の前年、1936年に、蒋介石を支えた姻戚関係の孔祥熙(こうしょうき、財政部長など歴任した、四大財閥の一人)の邸宅で、蒋介石やその高宗武ら側近たちとともに撮った写真が残っている。

不幸にして盧溝橋事件の収拾に一度は成功しながら、結局ご破算となったが、今井の日中和平の意思は変わらなかった。

盧溝橋事件の後、どんどん泥沼化する日中戦争を危惧し、これを収拾しようという陸軍部内の軍人たちは、民間と協力して、ウルトラCの大逆転を打とうとしていた。影佐禎昭(かげささだあき)中将を中心とした、『梅機関』の日中和平工作である。

(続く)



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