東と西

歴史・戦史


これは211回目。日本は小さい国です。が、東と西に分けただけでも、大変違いがあることに気づきます。けっして小さくはないのです。

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だいたい魚というのは、暖流のものより寒流のもののほうが味わいが濃い。それを美味いと思うかどうかは主観の相違だが、ふつうは北海産の魚に、瀬戸内の鯛や平目、河豚(フグ)などはかなわないと言われる。ところが、例外がある。鰤(ブリ)だ。ブリは暖流の魚で西日本を中心に食されているが、味の面でも北を代表する魚介類に一歩も引けをとらない。

身体に茶色縞があるブリの稚魚を捕獲し、生簀(いけす)で育てることが1970年代に瀬戸内海で始まった。養殖ブリの呼び名が、全国的に関西語の「ハマチ」になったのはこれが契機だった。ブリは日本の「作る漁業」を一身に背負ってきた魚とも言える。

ブリは沖合を回遊する大型魚なので、漁業法が発達する江戸時代までは日本人にあまり知られずにいた。平安時代の記録にもほとんど登場しない。『本朝食鑑』によると、「官家では食さず、民家の食」「丹後の産を上品のものとし、越中の産がこれに次ぐ」とある。現代では能登(氷見)の寒ブリが有名だが、江戸時代は丹後半島から若狭湾沿岸がブリの本場であった。ちなみに、『本朝食鑑』は江戸時代、元禄10年( 1697年)に刊行された食べ物に関する書物で、12巻10冊にもおよぶ大著だ。

ブリは冬の味である。神無月(かんなづき=旧暦の10月)が終わると、日本海の空には稲妻が走り、永い冬の訪れを告げる。やがて鉛色の重い雲に「ブリ起こし」と呼ばれる冬雷が鳴り、雪がちらつき始める。寒ブリ漁の季節到来だ。南の海から対馬海流に乗ってオホーツク沿岸まで回遊したブリが、産卵のための栄養を十分に蓄えて南下し富山湾に着く。身を切る冷たい海水の中で、ブリは急速に体内に脂肪分を増やすのである。

一般的に旨味のある海産物は、寒い海のほうに多い。海水が実際に0℃以下になることはほとんどないが、冷血動物の魚類は水温低下とともに、体が凍結しないよう体内の脂肪分や糖分を濃くする必要性がある。自動車の不凍液と同じ理屈だ。

「氷温革命」は1970年代に唱えられた考え方で、真水が凍る0℃と動物の体内組織が凍るマイナス3℃との間で魚や肉を保存すれば、凍結による細胞破壊を起こさずに鮮度が保てるとの理論だ。この温度帯を維持して湿度を100%近くに保ち、凍結寸前まで冷却したのが、チルドとかパーシャルとか呼ばれるものである。

チルドやパーシャルには、もう一つ重要な機能がある。それは保存中に食品の糖度や旨味が増すことだ。絞めたてのフグやエビの身は単なる寒天と同じで何の味もない。12時間ほど寝かせて初めて、甘みや旨味が出る。牛肉だと半月寝かせなければ味が出ない。肉屋で売っている生の牛肉は、大抵が屠殺されてから10日ほど冷蔵庫に吊されていたものである。

イースト菌を入れたパン生地なども、チルド帯で12時間寝かすと甘みと旨味が出る。野沢菜漬などでは、昔から桶(おけ)の中にうっすらと氷が張った状態が最も旨味が出るタイミングと言われたが、これが文字通りチルド・氷温での熟成だったのである。同じことはキムチにも言える。

食品は何でも、鮮度が高いほうがよいと信じている人がいるが、そんなことはない。食べ物には食べ頃があり、じっくり熟成させた後のほうが美味しいことはよくある。これは人間にも当てはまる。

さて、ここから東と西の違いだ。大晦日の年越しに食する「年取り魚(としとりざかな)」は、地域により異なる。一部にはクジラ(長崎)、サメ(山陰)などといった地域もあるが、全体的には西日本がブリ、東日本がサケで統一されている。年間の県別の家計消費量で見ても、西と東では明確な差が出る。ブリはカムチャツカ沖でも捕れるが、基本的には黒潮と対島海流が流れる地域で捕れる暖流の魚である。

年の瀬に富山湾で捕れた寒ブリは腹に荒塩を詰められ、藁(ワラ)で編んだ「こも包み」にされ、歩荷(ほっか)と呼ばれる人々に担がれて飛騨高山に入る。そこから、人の背の数倍の深さの雪に覆われた野麦峠や安房峠を越え、信州に入ったものは「飛騨ブリ」と呼ばれ、江戸から明治時代初期にかけて、信州の正月にはなくてはならないものであった。当時の飛騨ブリは、一本が米一俵の値段であったという。

一方、サケが帰って来る川は信濃川と利根川が南限で、寒流の親潮が届く範囲である。これは東日本沿岸とほぼ一致する。これが西のブリ、東のサケを作った一番の理由であろうと言われる。

日本は、糸魚川と静岡を結ぶフォッサマグナ(Fossa Magna)で東西に分断されている。トンネルで西と東が結ばれてしまった現代では想像もつかないが、古代人にとっては、南の「箱根」と北の「親不知子不知(おやしらずこしらず)」に代表される山岳地帯を越えるのは大変だったはずだ。これだけを見ても、西と東の文化が別々だった時代が長く続いたと考えるほうが自然である。

東京や大阪の大都市を中心に物を考えたがる現代人は、日本中の文化や人種は一律と考えるが、意外に人や文化は混ざっていない。その証左に、たとえば秋田や新潟の美人の里は未だ健在である(もっとも、ひと言で秋田といっても山のほうに美人が多いと聞くが、本当だろうか)。

戦後しばらくは、「狩猟中心の縄文文化が発展し、稲作中心の弥生文化になった」とする歴史観が中心であった。現代では縄文文化を担った人々と、弥生文化を担った人々は別のルーツとする考え方が主流である。

法医学者の古畑種基(ふるはた たねもと・1891~1975年)によれば、東日本にはB型の血液型が多く、西日本にはA型が多いという。指の指紋についても、戦後の25万人を対象としたサンプル調査によると、東には「蹄状紋」が多く、西は「渦状紋」が多いことも確かめられた。近畿地方には「短頭」の人の割合が多いとの研究もある。さらに、地理学者の鈴木秀夫( 1932~2011年) によれば、東には「水沢」などの沢がつく川が多いのに対し、西には「谷」がつくものが多いという。

ブリをきっかけに日本東西の違いを比べているわけだが、年末の天然ブリにしても京都の魚屋では頭を上にして縦に並べ、東京では頭を左にして横に並べるのが一般的である。しかし、際立っているのは「日常の食習慣の違い」と、正月の「伝統行事の違い」である。伝統行事は昔の習慣を再現することだから、当然、東西の差が顕著になる。

問題は日常の食習慣である。食生活は保守的だというのが、一番受け入れやすい回答になっている。だが実は違う。「食は思想」なのだ。関西のウナギは「腹開き」で蒸さずに焼く。関東は切腹を連想させる腹開きを武士が嫌ったと言われ、「背開き」で蒸してから焼く。すき焼も関西は肉を鍋で焼くが、関東は肉を煮る牛鍋に近い。これら食文化の違いは、現代でも東日本と西日本の間に、思考方法や精神風土の違いが存在していることを意味する。

聖徳太子は“厩戸(うまやど)皇子”と言われ、醍醐天皇の「醍醐」は乳製品を、蘇我氏の「蘇」は練乳を表す。現在でも、西日本に律令制を持ち込んだ人々は、家畜に依存した生活をしていたのではないか思わせる現象が多い。例えば、西日本の牛肉消費量は現在でも際立って高いのに対して、納豆の消費は東日本のほうが圧倒的に多い。ただし、家計調査で見る食の傾向は非常に保守的で、20~30年程度ではほとんど変化しない。

関西は食パンの消費が多く、関東は調理パンの消費が目立つ。特に、兵庫の朝食はパンが多い。奈良の朝粥(かゆ)は有名である。朝が忙しい昔の商家では夕方に飯を炊き、丁稚たちの朝食は前夜の飯で作る粥で済ませたという。この「朝に飯を炊かない」習慣がそのまま残り、兵庫は貿易港の関係で粥が食パンに変わったのである。これは、関西が商業活動の風土や気風を色濃く残したことを示している。

東日本で納豆と調理パンの消費量が高いのは、東日本には「朝に飯を炊き、昼は田畑にむすびを持参」という農耕型生活のスタイルが、現在でもそのまま残っているからだろう。納豆は炊き立ての朝飯に合うし、調理パンはその昔、昼に野良で食ったむすびの現代版だと言えなくもない。

こうした違いは食に始まり、さまざまな行動様式、そして先述した「思想」の違いにも発展する。たとえば、電鉄事業のあり方一つとっても、およそ「違う」としか言えない東西の差が、随所に垣間見られる。

原武史著の『鉄学概論』によると、その違いは相当なものだ。象徴的なのは「官に対立」する阪急と、「官に依存」する東急の違いだという。東急の渋谷ばかりか、西武や東武の池袋、小田急や京王の新宿、京急の品川、相鉄の横浜などのターミナルも、既存の旧国鉄駅に従属するような構造になっている。しかし、関西の私鉄を見ると、旧国鉄駅からは独立した駅舎の構造を堅持している。

関西の私鉄では、車内アナウンスの乗り換え案内を聞いても、旧国鉄であるJRを強く意識していることがよく分かる。大阪、宝塚、三宮は、阪急もJRも通っているが、阪急はJRへの乗り換えを案内しない。三宮では、阪神、地下鉄、ポートライナーの案内はするが、JRに触れることはない。梅田では、「次は終点、大阪梅田」としか言わないという。関東ではこんなことは考えられまい。

反骨精神が旺盛な関西の電鉄と、国家主義的な関東の電鉄の違いというと大げさかもしれないが、ことほどさように東西の違いというものは如実に存在する。駅などのエスカレーターで、歩かない人が右に立つか左に立つかは、岐阜県の大垣あたりが分水嶺となっていると言われる。

こうしてみると、日本人はやはり同じではない。まったく違う人間が住んでいると考えたほうが現実に近いだろう。この小さな小さな国で、これだけの違いがあるというのも、世界的には珍しいのではないだろうか。だが、この違いこそ、実は文化の豊かさの証明にほかならないのだ。



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