因果な商売

歴史・戦史, 雑話

これは402回目。

職業に貴賤無しといいます。わたしは、あると思います。しかし、ここはそういった持論はともかくとして、やはり「因果な商売だなあ」と思う仕事のことを書いてみようと思います。首切り浅右衛門のことです。

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山田浅右衛門というのは、江戸時代から明治初期にかけて、いわゆる死刑執行人として知られる一党だが、もともとそれが公務だったのではない。

彼らは刀の鑑定士である。これが公的な職務であり、各藩主などから依頼された刀の鑑定に携わっていた。その報酬は、ほとんどスズメの涙ほとであり、到底生きてはいけない。

そこで、自身が金を払い、死刑(斬首の場合)の執行を当局に頼んで、その刀で斬らせてもらったのだ。なにしろ、刀である。人を斬らねば、その太刀筋の良し悪しがわからないのだ。

ただ、役得のようなものがあり、自腹を切って死刑執行をやらせてもらえば、当局からはその死体をどうしようと、浅右衛門に一任されていた。

そこで、浅右衛門は、刑死した罪人の死体から内臓を抜き取り、薬を作って販売した。それが、いわゆる「じんたん」である。当時は「人肝丸(じんたんがん)、あるいは「山田丸」と呼ばれていたようだ。

浅右衛門家には『胆蔵』といって胆を陰干しにする専用設備があったそうだ。胆を干しているときに下にたれる(脂肪か?)は、梅毒その他の薬として貝殻に詰めて別売した。 この場合の『肝(きも)』とは、肝臓ではなく胆嚢だろうと言われている。『熊の胆=くまのい』』という漢方薬が、熊の胆嚢を乾燥させたものだから、これと同じだ。また安物は豚の胆嚢だということだ。

浅右衛門家には、時々夜中に無頼の者がたずねてきて、「いずれあんたに胆を取られることになるから少し前払いしてくれ」などと言ったそうだ。 浅右衛門家では、ある程度包んでやったと言われている。

よく知られる『森下仁丹』は、明治に森下博が、1905年(明治38年)に「懐中薬」として発売したものだ。発売当初の仁丹は赤色(丹色)で大粒の物だったが、年を追うごとに改良が重ねられ、1929年(昭和4年)に現在の形となる銀粒仁丹が発売される。

医療水準が十分でなかった当時の日本において、創業者の森下博が「病気は予防すべきものである」という考えに基づき、毎日いつでも服用できるようにと、台湾出兵に同行した際、現地の住民が服用していた丸薬をヒントに開発したものだそうな。果たして森下博が、かつて日本で大いに重宝がられた「人肝丸」から、その音読を重ねていたかどうかは、不明である。

この人の内臓から薬をつくるというのは、昔からあったことで、江戸時代、薩摩では若者の肝試し修練の一環として、刑死者があると夜半一人で刑場へゆき、刑死体から胆を取ってくるということが行われていたそうだ。 これも薬用にしたと推測される。

浅右衛門家では、不思議なことがある。普通この種の役得のある家柄というのは、一子相伝で家督が継がれていくものだが、浅右衛門家では一度も、実子に家を継がせたことがない。

実子がいなかったのではなく、意図的に実子に家督を譲らなかったのである。そして、代々弟子の中で一番腕の立つ者に譲渡し、浅右衛門を名乗っていったのである。

祟りを恐れたか、それはわからない。また、この『人肝丸』の製造・販売で巨利を得ており、大変な財力があったことが知られている。そして一方では代々、惜しみなく寺を建てている。どう考えても、自分たちが斬った者たちへの供養の意味合いとしか考えられないところだ。

その浅右衛門が実際に使用した真剣の現物が、どこぞに展示されているとかきいたが・・・



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