決定的瞬間

文学・芸術, 歴史・戦史

これは403回目。

いまや、写真はあまりにも多くの決定的瞬間をとらえます。とらえることができる、と言ったほうがいいかもしれません。しかし、その多くはほんとうに決定的瞬間なのでしょうか。

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写真が無かったころ、人々はその決定的瞬間を絵画で残した。

その現場にいたにせよ、いなかったにせよ。「事実」はそうではなかったにしても、「真実」を残そうとした。

その気迫が、今の写真にはあるのだろうか。決定的瞬間とは、わたしは事実のことではないと思う。真実のほうなのだ。だから小説も存在するのだ。事実だけなら、ドキュメントで良いはずだ。

報道写真家の場合、その気迫はある、というかもしれない、しょせんそれは偶発的な産物。もちろん、ハナからそれが起こるという前提に賭けて、ひたすら待ち伏せして決定的瞬間を撮るということもあるのだろうが、それはパパラッチのスタンスとどれほど違うのだろうか。

技術の進歩というのはものすごいことだ。写真は、「つくること」さえできるようになった。それがあらたな写真の芸術性に道を開いたことも間違いない。

が、かつて絵画が、「こうじゃなかった!」というもどかしさの中でキャンバスにたたきつけた情熱や思いというものを、どれほど現代の写真は受け継いでいるだろうか。

ある有名な写真家は、フイルムで撮っていた頃、なにしろフイルムが高かった。また撮れたものが果たしてどれほど決定的瞬間だったのか、現像してみなければおよそわからない。つまり結果を視認するのに時間がかかる。

いまでは無限に近いほど連写が可能なのだ。すぐその場で画像を確認できるし、削除もできる。そういう余裕は、フイルムの時代の世界では、ありえなかったのだ。

そういう限界の中で、写真家たちは決定的瞬間を撮ろうとしていた。失敗は許されないからだ。

彼は、もう自分のような写真家は「古典」になってしまったよ、と苦笑していたそうだ。

しかし、ある種の寂しさをたたえたその笑みの後、彼は「大丈夫、もっと新しい表現が必ずでてくるから」と言ったという。

ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」はそうした決定的瞬間の典型的な絵画だ。

1830年7月の革命。

当時のフランスは、ナポレオンの失脚により1815年にブルボン朝の王政が復活していた。1830年7月の選挙で反王党派が圧勝したのにも関わらず、王権は勅令を利用して議会解散や、市民選挙権縮小、報道の自由の廃止等、様々な暴挙を行った。

勅令の報道抑制を無視して発行された新聞社の関係者に対し、警察隊と印刷行員の間で、衝突が発生。そこから燎原の火のように、パリ全市に革命の渦が巻き起こった。

7月27日には、労働者階級や学生等を中心としたパリの民衆が、三色旗を翻して街頭にバリケードを築き、28日・29日までの3日間で、約1万人の市民を中心とした反王党派と、同規模の軍が市街戦で激突した。

最終的に、敗北した場合にギロチンに処せられることを恐れた王家は亡命。王権は、民主派と呼ばれたルイ・フィリップ王へと移譲された。

「栄光の3日間」と呼ばれたこのパリ7月革命で、王党派のバリケードに向かって突き進む革命派を描いたのが、このドラクロアの傑作だ。

実は彼は、「傍観者」だった。かれの手紙にこうある。

「砲弾と銃声の3日間が過ぎた。戦闘は至る所で繰り広げられた。私のような単なる傍観者は、・・・敵に向かって進むその場の英雄たちと同じような確率で、銃弾を受けた。・・・」

ただ、ノートルダム寺院の頂点に革命派がくくりつけた三色旗が翩翻(へんぽん)と翻るのをみて、体中が震えた。そして、革命の現場にいなかったドラクロアは、バリケードを破っていく民衆の決定的瞬間をキャンバスに残そうとした。

傍観者の一人の男が、祖国に対して、彼の義務を果たす瞬間が訪れたのだ。これが決定的瞬間なのである。民衆が王党派のバリケードを破っていく瞬間も決定的瞬間ならば、その感動を後世に残そうとしたドラクロアにとって、人生でも指折り数える決定的瞬間だったのだ。

絵の中央に大きく描かれている女性は、フランスという国家自体を擬人化した人物「マリアンヌ」だと一般的にはされている。そういうことで良いのだろうが、そうした抽象的イメージが発端になってこういう傑作が生まれるということは、ほとんどない。必ずそこには、具体的な、生の人間ドラマが存在する。

もちろん、多くの説では、ドラクロアの三人の愛人だというのもある。

少数派だが、実はこのときバリケードを破ってくとき、先頭に立って三色旗を振っていた無名の女性がいた、という目撃談もあるらしい。

しかもその女性は、英国籍の女性だという。

フランス7月革命という、彼女の人生にとってはおそらくほとんど無関係の現場で、彼女はなぜこの決定的瞬間を選択したのだろう。なぜ、通りがかりの外国人として終わらず、命のかかった選択をしたのだろう。伝説では、彼女は後続する民衆にこう叫んだという。

「もしわたしが倒れたら、どうかこの三色旗をお願いします。」

この女性のその後は、不明である。仮に存在していたとしても、銃弾に倒れている可能性が高い。

フランスの革命歌になってしまっている「さくらんぼの実る頃」という有名な古いシャンソンがある。内容は、題名の通り、さくらんぼの実る頃の儚い恋と失恋の悲しみを歌った曲なのだが、つくられた目的は違う。

パリ・コミューン(7月革命から41年後、1871年)の栄光と失敗の後、政府によるコミューンへの弾圧、特に参加者が多数虐殺された「血の一週間」を悼む思いを込めて、第三共和政に批判的なパリ市民がしきりに唄ったことから革命歌になっていった経緯がある。

作者のJBクレマンが書き残したところによると、どうやらこのとき偶然現れた女性に捧げたということらしい。遺稿によると、こんな背景だ。

詩人のクレマンが、二十歳ぐらいの若い娘に会ったのは、フォンテーヌ・オ・ロワ街のバリケードにおいてであった。クレマンの遺稿では・・・

「彼女は籠を手にしていた。彼女は野戦病院付の看護婦で、サン・モール街のバリケードが陥ちたので、こちらの方に何か役立つことはないかとやってきたのであった。『われわれは、きみを敵(政府軍)から守れるかどうか分からない』といって脱出するように説得したにもかわらず、彼女は頑として、われわれのそばから離れようとはしなかった。われわれが知ったのは、ただ、彼女がルイーズという名前で、婦人労働者だということだけであった。」

ペール・ラシェーズの墓地に、コミューン派の残党147人が追い詰められ、一斉射撃で虐殺された5月28日に、コミューンの組織的抵抗は終わった。

それでもまだ抵抗をやめない唯一の人びとが、フォンテーヌ=オ=ロワ街にいた。クレマンがルイーズという女性に退去を勧めたそのしばらく後、彼らのバリケードは、硝煙に包まれた。政府軍が、残る霰弾のすべてを一挙に撃ちつくしたのだ。バリケードは沈黙した。

クレマンは運良く生き残り、捕縛された。ルイーズの消息は不明である。この最後のバリケードに立てこもり、最後の抵抗派が全滅する決定的瞬間を、クレマンは「さくらんぼの実る頃」に結晶させたのだ。

絵画にしろ、歌にしろ、写真のリアリズムにはとうてい及ばない。しかし、いまや何枚でも好きなように連写し続けることができる現代より、心に震える決定的瞬間を残したのだ。