昭和の怪物

歴史・戦史

これは299回目。戦前の国家社会主義者の大物・北一輝について書いたことがありました。今回は、同じく昭和の怪物と称された人物の一人、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)のことを書きましょう。といっても、大本教のことを書くわけではなく、彼の予言についてです。彼のような「本職」の大宗教家にとっては、予言などただの余技であったかもしれませんが、われわれ市井の人間にとっては、この予言の驚くべき正確さは身震いするようなものがあったのです。

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まず、王仁三郎とは関係のない、別のお話からイントロとして書いてみることにする。著名な宗教者や霊能者でなくとも、ごくごく普通の人間でもこんなことがあるのだ、という例だ。

実際、それは不思議な話なのだ。昭和20年7月のある日。当時その女性(すでに現在は、物故している)は女学校に通っていたが、クラスごと地方に疎開。毎日工場に動員されて、銃後の勤労に就いていた。

7月のある晩、宿舎の学友たちと、「お稲荷さんに、この戦争がいつまで続くか、聞いてみよう。」ということになった。そこで、なかなか口にすることができなかった油揚げが、たまたま手に入ったこともあって、お稲荷さんにお伺いをたててみることにしたのだそうだ。深夜、裏山の稲荷の祠に行った。ところが、その前に蜜柑箱を置いて、「こっくりさん」をやったのだというから、お稲荷さんなのか、こっくりさんなのか、なんだかよくわからない。本人たちも、区分がはっきりしていなかったようだ。

小銭ではなく、杯を引っくり返してやったという。いろいろ、このやり方にも違いがあるらしい。

彼女も、級友たちも聞きたいことはいろいろあったが、まずなにはともあれ、この状況がいつまで続くのかを知りたい、というのが偽らざる心情だったそうだ。

すると、「こっくりさん」の答えは、意外なものだった。

「八がつ十五にちにおわる」

これにはみなびっくりした。8月15日といったら、もう一ヶ月しかないではないか。「来年のことじゃないよねえ。」とみんな呆然としている。勝つか、負けるかということより、とにかく「終わる」ということで、みんな思考が停止したらしい。

いろいろ聞こうと思っていたことなど、どうでもよくなっていたという。それで、宿舎に戻ったところ、ちょうど見回りの先生に見つかり、しこたま怒られたそうだ。

彼女たちは、興奮して言った。「先生、この戦争、8月15日に終わるって、お稲荷さんが言ってた!」先生は、取り合わず、「何言ってるんですか。これから日本は本土決戦です。兵隊さんたちも頑張っているんですから、そんな馬鹿なこと言ってるんじゃないの。」と言って、追いたて、寝かされた。

まだ15-6歳の、少女たちである。この「八がつ十五にちにおわる」という、稲荷なのか、「こっくりさん」で呼び出された得体の知れないなにものか、しょせんわかりはしないが、予言は現実になった。

答えた何ものかが、「負ける」と告げなかったところは、心憎い。もし「八がつ十五にちに『まける』」と告げられたら、当時の純粋な軍国少女たちのことだ。きっと彼女らの心の緊張の糸は、間違いなくぷつんと切れてしまったことだろう。だから、「おわる」と告げたに違いない。

晩年、その女性は、当時終戦までの1ヶ月、級友たちと毎日こそこそと、指折り数えていたのを、懐かしそうに思い出しながらこの話をしたそうだ。後にも先にも、彼女にはオカルト話は一つもないということだったが、「不思議なことがあるものだねえ」と言っていたそうだ。

この予知、予言ということについては、古来、どう解釈していいのか、当たったのか、はずれたのか、表現があまりにも曖昧で、よくわからないということが多い。個人的な予知、予言の話は、単発的にかなり具体性があったり、確かにあれは予知だったという周囲の証言が得られる場合もある。が、社会的、国家的な予知、予言ということになってくると、非常に怪しげなケースが多い。

その中で、非常に具体的で、連続的に「当たり」の多かった例がある。それが大本教の教祖、出口王仁三郎である。

北一輝などと共に、昭和の怪物とも言われた一人、この出口王仁三郎の宗教的な事績についてはここでは割愛し、予言についてのみ書いてみよう。(北と出口は見知っていたが、北が政治活動資金を無心したのを断ったことで、北が出口暗殺をしようとしたことがある。たまたま、大本教がときの政府によって苛烈なまでの大弾圧に遭ってしまい、出口本人も逮捕されたことで、計画は頓挫したという経緯がある。)ちなみに、わたしは大本教信者でもないし、関係もまったく無い。

彼は、言霊(ことだま)学の権威であり、言霊を利用してたびたび予言を行った。明治末期から大正初期に著した「いろは歌」「大本神歌」「瑞能神歌」などで、米国との総力戦やB-29爆撃機による空襲を示唆する予言がある。

以前、公刊された五木寛之の本の中で、この件が引用されていた。それによれば、「戦いは、真珠湾に始まり、広島にどえらい爆弾が落とされ、東京が焼け野原になって終わる」という有名な予言だが、この予言に関して、わたしは王仁三郎の原文を確認しているわけではないので、なんとも言えない。ただ、五木寛之ほどの大作家である。きちんと裏を取っているはずだ。実際、この王仁三郎の予言については、知る人ぞ知る衝撃的なものとして多くの人に記憶されている。

ちなみに、日露戦争の日本海海戦で、バルチック艦隊撃滅の作戦を練り上げた、海軍参謀・秋山真之も、この大本教の熱心な信者であった。

書中で、五木は「真珠湾、広島、東京」の三つのセットは、「予言としては、ほとんど確定的なものとしか言いようが無い」といったようなことを書いていた。確かに、これを予言した大正年間には、まだハワイに真珠湾というところがあるなどと知っていた日本人は、おそらく軍関係者ですら、ごく少数を除いてほとんどいなかったはずだからである。

大本教の創始者は、出口ナオ(王仁三郎は、ナオの娘婿である)だ。実はこの出口ナオが、有名な「お筆さき」と呼ばれる予言で、とてつもない的中率を見せた女性である。ちなみに、ナオに降りた神懸りだが、日本の伝統的な神々であろうかと思うとさにあらず、むしろ陰陽道系の「艮の金神(うしとら)」という祟り神であり、日本という国家の「立て替え」「立て直し」、つまりリセットを預言する。

彼女は天保7年、1837年に丹波・福知山紺屋町の大工の長女として生まれた。貧困のどん底にあった。おまけに天保の飢饉である。

17歳のとき、ナオは叔母・出口ユリの養女となり、19歳で婿をとる。夫政五郎は、人のよい腕利きの大工であったが、むら気なうえに大酒飲みの浪費家で、幕末、出口家はつぎつぎに田畑、家屋敷を手ばなし、没落の一途をたどった。

おまけに、夫はアル中の中風になって回復の見込みもなく、そのうえ大工の見習い中であった長男の竹蔵は、自殺未遂をはかったあげく行方不明。嫁いでいた長女も発狂。三女も錯乱。悲惨な重病人をかかえ、3人の幼児を育てるため、ナオはぼろ買い、紙屑拾いにまでなった。

明治25年、1892年の元旦の夜、ナオはあばら屋の壁ぎわにすわって、ぼんやりしていたところ、突如として神懸りが起こる。

そこから、ナオの予言が次々と繰り出されていった。明治26年、1893年夏の予言である。

「来年春から、唐(から)と日本の戦いがあるぞよ。この戦は勝ち戦。神が陰から経綸いたしてあるぞよ。神が表にあらわれて手柄立てさすぞよ。」

文字も読めず、まして政治や世界情勢のことなどとは全く無縁の彼女が、いきなり予言をし始めたのだ。すべて、文字も読めなかったはずのナオは、すらすらと預言を書きまくった。本人の意思と関係なく、筆を持った手が勝手に書いていくのだ。いわゆる自動書記である。もちろん口述の場合もある。

予言通り、翌年、日清戦争が勃発した。 戦争が終わると、今度はこう予言した。

「この戦いがおさまりたのではない。この戦いをひきつづけにいたしたら、日本の国はつぶれてしまうから、ちょっと休みにいたしたのでありたぞよ。こんどは露国からはじまりて、おお戦(いくさ)があると申してありたが、出口の口と手で知らしてあること、みな出てくるぞよ」

この予言は、よく考えれば、すさまじい予言である。
というのは、日清戦争は、一見日本軍の大勝に見えるが、なにしろ国力がまだ磐石ではなかった。しかし、現地軍は、事前想定を上回る勝ち戦の連続で、敗走する清国軍を追撃し、どこまでも進軍する勢いだったのだ。

実際、民間では、福沢諭吉のような人物でさえ、「まだ講和の時期ではない。北京を占領して城下の誓いをさせるまで戦いをやめるな」と無責任なことを言っていた。完全に国中、いけいけどんどんの勢いだったのだ。

確かに北京攻略自体もけして現実的に不可能ではなかったのだが、そうなると後年の日中戦争のときと同じで、講和の相手を失ってしまうという重大な過ちをおかすことになるところだった。

つまり、戦争は無制限デスマッチの泥沼に陥る危険性があったのだ。当時、明治政府のリーダーたちのリアリズムはこのことが良くわかっていた。そして、政府は「北京侵攻は絶対にならぬ」と厳命したのである。

講和の機会をとらえることをせず、勝ち戦におごってぐずぐずしていたら、中国にさまざまな利権をもつ列強が乗り出してきて、収拾のつかない事態になり、まだ産業基盤もない日本は、早くも亡国の危機に立たされたことは間違いない。(日清戦争後、実際に三国干渉で日本は清国から得た遼東半島の権益を手放さざるをえなくなったという事実がある。)

そんな現実的な情勢分析などなにも知らないナオが「適当なところで矛を収めるべし」、と予言し、「その後の大きなロシアとの戦争に備える」という道筋をはっきり予言しているわけだ。その意味で、この予言は相当のものであると言って良い。

さて、出口王仁三郎は、ちょうどこの日清戦争と日露戦争のはざまで、ナオに出会ったのである。

この途中の経緯については、ここでは割愛する。明治34年の春、王仁三郎は大本の信者数名を連れて、静岡の長沢雄楯(かつたて)のもとを訪れた。長沢は稲荷講社を起こしていた人物だが、王仁三郎に神おろしを行ない、日露関係の将来に関する神意をうかがうことにした。

すでに、次の戦争はロシアからであることは、ナオの「お筆先」に出ていたが、そのはっきりとした時期は不明だった。

まったくの神憑かり状態になった王仁三郎と、審査者(さにわ)となった長沢の問答が始まった。

「日露の戦いはございますか」
「あるぞよ」
「今年でございましょうか」
「今年(明治34年、1901年)の8月‥‥それがのびたら明治37年の2月になる。36年の7月ごろから戦の機運が濃くなるが、開戦は37年の2月じゃ」
(注釈:日露国交断絶は明治37年1904年2月6日。連合艦隊による、旅順港のロシア太平洋艦隊への第一撃は、2月8日である。)
「日本はこの戦いに勝てましょうか」
「勝つ。勝つが、多くのつわものの命が失われる」
「平和はいつきましょうや」
「2年目(明治38年1905年)の9月までにはくる」
(注釈:ポーツマス講和条約締結は、明治38年9月5日である。)
「戦に勝って得られますものは?」
「シナの海岸のごく一部、朝鮮の全部、樺太の南半分を日本が受ける」
(注釈:中国遼東半島と南満洲の権益、朝鮮の合邦・併合、南樺太という点では、まったく正確な予言である。)

長沢雄楯らの回想によれば、この問答は約2時間におよび、ロシアの作戦計画から外交談判にいたるまで、微にいり細にわたっていたという。改めて確認するが、以上、日露戦争開戦の3年前の予言である。

王仁三郎の予言は、止まらない。

「いますぐヨーロッパで大戦争が起こる」

そう予言を発したのは、大正3年1914年5月のことだ。王仁三郎は、信者たちのいる公開の席上で、こう予言した。

その後、6月29日、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアの首都サラエボで、セルビアの一青年に暗殺された。暗殺事件から1カ月後の8月には、第1次世界大戦が勃発。

出口ナオと、王仁三郎は、日清・日露戦争、第一次大戦を予言したが、これで驚いてはいけない。さらにその先も、またその先も知っていたのである。

大正6年、1917年11月、まだヨーロッパで戦火を交えていた最中に発表された、予言詩「いろは歌」の中で、王仁三郎はすでに1年後のドイツ皇帝(ウィルヘルム2世)の失脚と革命、戦争の終結を予言している。しかし、この予言詩によれば、第一次世界大戦は終結するが、それはたんにきたるべき動乱の序曲にしかすぎない。

「いろは歌」を始め、各種の予言歌・詩というものは、ノストラダムスの予言ほど難解なことはないが、やはり韻文であるために、それなりに解釈に曖昧さが残っていたりする。

しかし、王仁三郎と直接会話をした人たちは、きわめて具体的に予言を聞き、記録に残されている。 たとえば、王仁三郎は大正8年、取り調べに来た官憲の尋問中に、こう述べている。

「日本は、一時、大部分を占領せらるることは確かでありますが、それが何年先であるかは言えません」

驚くべきことに、日清・日露、第一大戦と勝ち抜いてきた大日本帝国が、国土の大部分を占領されることは間違いない、と言っているのである。およそ、当時の常識では考えられまい。国際連盟の常任理事国、五大国の一つにまでなった日本が、である。

そもそも、王仁三郎は、国常立命(くにとこたちのみこと)を拝し、皇祖についてはスサノオを筆頭に持ち出していることからして、アマテラスを頂点とする皇国史観とは、真っ向から衝突する運命にあった。当局は、この不気味な予言を乱発する男を、日本における最大の危険人物の一人と目していた。

出口ナオが亡くなった後、王仁三郎が大本教を率いていったが、大正10年2月12日、京都府下の各署から選抜された約130名の特別武装精鋭警官隊が、午前1時という深夜に駆り集められ、大本本部を包囲、町内の幹部宅を襲撃、町の要所要所を完全封鎖した。

実質的には戒厳令なみの厳重警戒下で、警官隊は本部になだれ込んだ。いわゆる第一次大本教大弾圧である。当日、王仁三郎は不在で、役職員も少数が出勤しているだけだった。妻スミを筆頭に役員・信徒たちは、わけもわからないままに、一部屋に集められ、不敬罪などの容疑により捜索する旨を告げられた。そして、王仁三郎は同日朝、大阪梅田の「大正日々新聞社」で仕事中のところを、捜査隊の藤原刑事に拘引され、京都に護送され、京都未決監獄に収容された。

検挙から3カ月後の5月になると、取り調べは一段落した。そして、差し止めになっていた大本事件関係の記事が掲載禁止解除になった。当局としては、武器でも大量に発見できれば、内乱罪にもちこんで一挙にケリをつけたいところであったが、何も出てこなかった。

これでは検挙のときのモノモノしさがあまりにも大袈裟であり、当局としても恰好がつかない。そこで、ジャーナリズムを操作して、大本教に対する罵詈雑言を記事を書かせた。王仁三郎と大本教の評判を落とせば、とにかく一定の目的を果たすことはできるという読みである。

そもそも当時のジャーナリズムは、王仁三郎が「大正日々新聞」を買収したこと自体、気に入らなかったので、ここぞとばかり中傷しまくった。

大正10年6月17日、仮釈放の処置で、王仁三郎は126日の監獄生活に別れを告げ、帰宅した。第一審では、王仁三郎は不敬罪で懲役5年という判決であった。 もちろん、王仁三郎は直ちに控訴している。裁判は大審院までいくが、大正天皇の崩御による大赦令で免訴となり、一件落着となった。しかし、これは当局との間の、たんに一時休戦にすぎなかった。

その後、王仁三郎は、次々に不気味な予言を連発、右翼急進主義者との合流、一部の急進化した軍人にまでおよぶ巧みな人脈構築、圧倒的な大衆動員による示威行動。政府はこうした王仁三郎の言動に、恐怖すら覚えていたといっていい。

そして、ついに第二次弾圧の鉄槌が下された。この弾圧は、大正10年の弾圧をはるかに上回る壮絶なものだった。当局としては、今度こそ徹底的に弾圧し、王仁三郎を死刑か無期懲役に追い込むつもりだった。

昭和10年12月8日午前零時、全国各地で一斉弾圧に踏み切った。「地上から大本の痕跡を抹殺せよ」という大号令のもとに、時の岡田内閣が決行したものである。

第一次弾圧のときと同じように、新聞には、大本が不敬な団体で、表では皇室中心主義をとなえ、裏に不敬の謀略をたくらむ国賊であった、などとあることないことをないまぜの誹謗中傷が連載された。

昭和11年3月13日、王仁三郎以下教団幹部61名が、治安維持法と不敬罪で起訴された。同時に内務省は治安警察法にもとづき、本部、及び大本関連8団体に結社禁止命令を出し、全施設の徹底的破壊を強行した。

広大な神苑は坪わずか20銭で強制売却。一切の神殿が破壊された。『霊界物語』を含むあらゆる経典類、王仁三郎の使用物や創作物の一切、書画、蔵書8万4千冊のすべてが焼却され、その火は1カ月の間くすぶり続けた。

この弾圧で、王仁三郎をはじめ大本関係者の検挙者は3千余名にものぼり、拘留中の拷問による死者も数名が出ている。

王仁三郎みずからが設計した月宮殿は、大理石などの石材と鉄筋コンクリートで固めた要塞のような神殿であった。これを当局は3週間もかけてダイナマイト1500本を使い、ようやく爆破。出口家の墓碑や信者の納骨堂も破壊した。

さらに当局は信徒の家族写真までチェックし、大本の神床・掛け軸、額などが写っている部分を切り取っている。破壊に次ぐ破壊。王仁三郎に関する一切合切のものを抹消しようというこの当局の弾圧ぶりは、明治維新以降の当局の行った弾圧の中でも、極端に常軌を逸した執念がうかがえる。

さらにまた、開祖ナオの墓を暴き、近くの共同墓地に移し、木の墓標を柩の腹部あたりに立てている。ここまでくると死者を冒涜するというより、ほとんど幼稚としか言えない有様だった。

それだけ、怖かったのである。ある意味、北一輝よりも怖かったかもしれない。

「大本は潰され、日本が潰れる」

王仁三郎は、弾圧されている中で、よくそうつぶやいていた。弾圧した側にしてみれば、しょせん「負け犬の遠吠え」ぐらいにしか聞こえなかったろう。しかし、事実は、この第二次大弾圧のあった昭和11年をターニング・ポイントとして、日本は破滅への道を転がり始めたのである。

昭和12年、日華事変が勃発。中国との戦争は抜き差しならない泥沼へとはまりこんで行く。それでもまだ事態を収拾できる策はあった。しかし、日本は愚かな選択をつぎつぎ繰り返していく。

ご存知のように、広大な太平洋戦略を備えて待ち構えていたアメリカは、日本が大陸で泥沼の戦いに入ると、さまざまな手段で資源ルートの破壊工作を始めた。日本海軍の暗号の解読に成功し、ルーズベルトの陰謀にはめられ、真珠湾という地獄の口へと自ら身を投じてしまうのである。

この第二次大本弾圧事件は、日本が戦争状態の中で進行し、7年にわたる裁判が行なわれた。結局、昭和17年7月(太平洋戦争勃発の翌年)再審で、治安維持法については無罪、不敬罪で5年の判決が下る。

あれほど当局が狙っていた治安維持法による徹底的な断罪は、不思議なことに成立しなかった。しかし、大本の全施設は破壊しつくされた。

同年8月、王仁三郎は保釈され、7年間の投獄生活からようやく解放された。すでに王仁三郎は71歳であった。

王仁三郎は亀岡の自宅に訪れる信者たちに鋭い予言をつぎつぎにはなった。「東京は空襲されるから疎開するように」と信者たちに勧めたのが昭和18年である。翌19年11月から東京空襲が始まった。このとき、王仁三郎は、「九州は空襲されるが、京都・金沢は空襲を受けない」と予言している。

この空襲予言が的中したこともあって、大本教のシンパであった軍人や有識者さえも、頻繁に王仁三郎のもとを訪れるようになる。困ったときの神頼みで、一部の軍人たちから、戦局を何とかしてくれ、といったような話はずいぶんあったようだ。

「わしらをこんな目にしときよって、偉いやつが総出で謝罪にきよらんと助けたらんわい」

それが、王仁三郎の返事であった。

昭和19年、王仁三郎の口からは、まるで機関銃のごとく予言のつぶてが吐き出された。
同年、広島からきた信者にはこう告げている。

「戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい目に遭う。それで戦争は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」
「広島は戦争終末期に最大の被害を受け、火の海と化す。‥‥そのあと水で洗われるんや。きれいにしてもらえるのや」

実際、広島は翌年8月の被爆後、(終戦を経て)9月には2回にわたる大水害に襲われている。

この原爆に関してはすでに昭和18年の段階で、「広島と長崎はだめだ」と、非常にストレートな言い方もしている。

また広島が人類史上初の核の洗礼をあびた2日後、ソ連は抜き打ちとも言える対日参戦を行なった。これに関してもすでに昭和18年に、満州の部隊へ配置される信者子弟たちに対し、こう告げている。

「日本は負ける。ソ連が出て1週間もしたら大連にまで赤旗が立つ」

さらに長野の信者たちに対しても、

「昭和20年8月15日に留意せよ」

と予言し、翌19年の1月には、東満総省長になっていた大本信者の三谷清のもとへ、こう連絡させている。

「いま日本は必死になって南のほうばかり見て戦っているが、不意に後ろから白猿(ロシア)に両目を掻き回される」

ここまでくると、ほぼ決定的な予言の連続といっていい。ところが、終戦と同時に、王仁三郎はあまり予言めいたことを口にしなくなる。そして彼は、一種の芸術家のような平穏な暮らしにはいり、とくに、書道、絵画、楽焼きにふけるようになる。ただ、彼は「大本に起こることは、日本に起こる」とこれまた不気味な言葉を残しただけである。

王仁三郎は戦後、周囲から戦前戦中に受けた迫害・弾圧に対して、賠償請求など、国家を訴えたらどうかと、再三勧められた。しかし、王仁三郎は首を横に振って、「敗戦後の 政府に賠償を請求しても、それはみんな、苦しんでいる国民の税金からとることになる。あれはあれで感謝せなあかんと思うとるんですわ。」と言い、膨大な財産毀損に対して、国家賠償請求を放棄した。これが、あまり宗教とは関係のない一般の日本人の間で、王仁三郎の名を一躍挙げることにもなった。

王仁三郎は、数々の予言を的中させたが、太平洋戦争で400万に及ぶ犠牲者を避けようとはしなかった。もっとも、避けてしまったら、予言は成立しない。少なくとも、その悲劇を避けるために、王仁三郎が努力したという形跡はまったくない。宗教的に言えば、それも、身魂磨きということになるわけだろう。

どうだろうか。国家レベルの予言ということで、王仁三郎ほどの的中率で当て続けた例は、世界的にみても非常に稀である。しかし、予言というものは、冒頭の純粋な女学生たちの必死の想いでも、得られることがある。わたしのような傲慢で、邪まな魂ではなかなか難しいだろうが、ふと思うのである。実はそれはいつでも、わたしたちのそばに置かれているのではないか、と。ただ、わたしたちの目が曇っていて、それに気づかないだけなのではないか、と。



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