民主的な悪党ども~海賊という秩序

歴史・戦史

これは114回目。ごく軽い海賊のお話です。昔から海賊という存在に言い知れない憧れを覚えたものです。映画的な格好良さではありません。無法の世界を維持するために、驚くほど民主的な秩序があったからです。

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ジョリー・ロジャー。髑髏(どくろ)をあしらった海賊旗のことだ。「愉快な仲間たち」というほどの意味だ。

語源は正確にはわかっていない。さかのぼれる限りでの初出は1724年に出版されたチャールズ・ジョンソンの『海賊史』だという。その中で1721年にバーソロミュー・ロバーツ、1723年にフランシス・スプリッグスとがそれぞれの旗を「ジョリー・ロジャー」と名づけたと引用している。ただし、両者の旗とも髑髏のデザインではなかったようだ。

リチャード・ホーキンスが1724年に海賊に捕らわれた際、彼らが髑髏の旗を掲げており、それを「ジョリー・ロジャー」と呼んでいたと記している。このへんから、わたしたちにも映画でお馴染みのあの海賊旗(髑髏と、交叉する二本の大腿骨)とジョリー・ロジャーが、合体していったようだ。

しかしそれは現象面の話で、根本的に海賊がこのおなじみの海賊旗を用いるようになった、もともとの始まりは、テンプル騎士団に遡るという見解が近年では強まっているようだ。

テンプル騎士団とは、十字軍やエルサレムまでの旅路を護衛する、武装修道士軍団である。日本で言えば、大規模な僧兵軍団のようなものだ。

テンプル騎士団はその後、金庫番など周辺業務を依頼されることも多くなり、この派生業務でぐんぐん財力を蓄え、強大な独立武装集団と化していった。

このテンプル騎士団増長を脅威に感じたフランス国王が、一斉に各地のテンプル騎士団を弾圧。頭目のジャック・ド・モレ―を処刑。辛くも難を逃れた騎士たちは、スコットランドなどフランス国外に逃亡。多くはスペインからポルトガルに身を隠した。

後年、ジャック・ド・モレーの墓が掘り返されたところ、そこには頭蓋骨と2本の骨がクロスした状態で埋まっていたという。

それを見た騎士たちが偉大なる頭目ジャック・ド・モレーを称え、掲げ始めたのが海賊旗の始まりではないかと言われている。
ちなみに生き残った団員たちの中には海賊となる者もいれば石工職人になって身を隠した者(=現在のフリーメイソン)も多く存在すると言われている。そして、この後海賊が大西洋からインド洋にかけて、大いに猛威を振るっていく過程で、その資金を提供したのも、テンプル騎士団(名前は改称されて、ポルトガルではキリスト騎士団となっていた)であることが、さまざまな傍証によって仮説されている。

有名なキャプテン・キッドも、アメリカ(当時は英国植民地時代)東部にたびたび訪れて、フリーメイソンのメンバーたちと面談をしていることが、古文書からも確認されている。

(ウィリアム・キッド=キャプテン・キッド絞首刑図)

たとえば、キッドがイギリス官憲に突き出され、処刑されるに至った経緯は、非常に不可解で謎が多く、このアメリカ東部のフリーメイソン・メンバーが罠にはめてキッドを死に追いやった可能性が指摘されている。推測だが、資金の出し手のフリーメイソンが、海賊(キッド)を使って荒稼ぎするのも都合が悪くなったのか、キッドともめごとがあったか、なんらかの事情でフリーメイソンが彼の死に深くかかわっているということは、どうも間違いないようだ。

こうした海賊とフリーメイソンを繋げる記録が数多く存在し、大変な人気の漫画・アニメ『ワンピース』もフリーメイソンをベースに物語が作られたのではないかと噂されているようだ。

こうした都市伝説にされかねない裏話はさておき、ここからが本論だ。わたしが海賊に憧れた最大の理由。そのあまりにも民主的なシステムのことだ。カリブの海賊(とくにカリブ海からアフリカ沿岸、インド洋までの海域)には、暗黙のルールがあったようだ。海賊が船や港を襲撃する時は常に「海賊旗」を掲げる必要があった。すなわち「襲撃する」という意思表示のために用いられていたことが多いということだ。

相手に降伏を求め、「然らずんば、汝の運命かくの如し(殺されて骨と化す)」という意味があったといわれる。襲われた船は、抵抗する術がない場合降伏の印に白旗を掲げ、拿捕される。

こういった無抵抗の降伏の場合、海賊は船や乗組員には危害を与えることなく、ただ略奪を行って去っていく。しかし降伏がなされない時は、海賊旗は降ろされ、代わりに「赤旗」を掲げ、容赦ない攻撃を加える。また、逆に正規海軍の軍艦は「海賊旗」を掲げる船に遭遇した場合、その船は「海賊船である」とみなし、警告することなく攻撃、撃沈することが出来たようだ。

最も、「ジョリー・ロジャー」を掲げることなく、いきなり「赤旗」を掲げてきたら万事休すだ。ハナから皆殺しを目的に襲ってくるということだ。この殺戮の方法は、常軌を逸するほど残酷なものが多い。

海賊、とくに1650年代から1720年代( 17世期後半から、18世期初頭)が、わたしたちの知っているカリブの海賊たちのいわば黄金期だった。英国領ジャマイカの副総督にまで栄達し、その初期、最も海賊らしい遠征と戦いを繰り返したヘンリー・モーガンに始まり、サーの称号さえ得て、珍しく「ベッドの上で死ぬことができた稀有な海賊」フランシス・ドレーク。未だに財宝の行方が取りざたされ、死刑の理由も明確でないまま、ロンドンのテムズ河畔で縛り首のまま晒されたキャプテン・キッド。験(げん)を担(かつ)ぎ、女の乗員を忌み嫌う海の世界で、きわめて例外的な男装の女海賊二人組、アン・ボニーとメアリー・リードなど、映画や小説の題材には事欠かない。

ジャマイカのポート・ロイヤルなどを中心に、大海原を暴れまわった海賊たちには、面白いくらい厳格なルールがあったようだ。たとえば、襲撃の場合(「赤旗」を掲げたときだ)、どういうわけか老人と子供の捕虜だけは、例外なく丁重に扱われたという。このへんに、海賊たちの独特のルールがかいまみえる。

(大地震で壊滅し、海中に沈んだオールド・ポート・ロイヤル)

たとえば、初期の大海賊バーソロミュー・ロバーツの掟を見てみよう。

(バーソロミュー・ロバーツ)

1 乗組員全てに平等な投票権・投票発起権を与える。戦利品に対して平等な権利を有す。戦闘において負傷した者には手当てを別に支給。

2 仲間内で金品を窃盗・横領した者は孤島置き去りの刑。

3 カード、サイコロを使った賭博の禁止。

4 午後8時消灯、以降の飲酒は甲板のみ可。

5 銃の整備の徹底。

6 女性や子どもを乱暴目的で船に乗せた者は死刑。

7 戦闘中に船や持ち場を離れた者や降伏した者は死刑。

8 船上での口論禁止。陸に上がったときに銃で決着をつける。

9 1000ポンドの分け前を手に入れるまでは離脱できない。

10 安息日には音楽隊による賛美歌を奨励。

このように、鹵獲(ろかく)した戦利品の分配にも厳密なルールがあったし、働きとそれに見合う報償に関して正当な訴えを起こすこともできた。負傷した場合の、保証にいたるまで、海賊集団の中には、かなり細密に渡って「契約」が存在していたらしい。

そのルールの精神は、実力主義にして、平等主義なおかつ、民主主義が貫かれており、当時王制による封建社会が常識だった時代に、ある意味画期的なことだった。だから、拿捕された側の乗員たちの中には、海賊に転身してしまうものも後を絶たなかったらしい。無法の中にも、その無法を維持するための法が存在したことになる。

確かに、先述通り、海賊というものがフリーメイソンと深いかかわりを持っており、恐らくはフリーメイソンの重要な収益源であったことや、もともとの発祥にはテンプル騎士団がかかわっていたということなど、どう考えても、ただの愚連隊の集まりであったとは考えにくい。むしろ、任務遂行に向けてきわめて高いモチベーションを維持するためのルールが、彼ら海賊にあったとしても、当然のことかもしれない。

人間を理想的な態勢で統率するのは、制度でも法でも倫理でもない。モチベーションであるということが、よくわかる歴史材料と言えそうだ。ルールの目的は、秩序を乱すことへの制約であると同時に、いやむしろモチベーションを上げることだと考えたほうが建設的なようだ。



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