続・東と西

文学・芸術


これは212回目。私が民俗学に興味を覚えたのは、父親の所蔵本の中に戦前の歴史家、安田徳太郎の『人間の歴史』全巻があったことからでした。安田は、海洋民族学的なアプローチで、言語の近似値から仮説を組み立てていく手法の、おそらく先駆け的な存在でした。あまりにもそのやり方が斬新にして乱暴であったことから、アカデミズムでは一笑に付され、本人も後に撤回するなど幻の学説となった本です。今でも、古本屋には全巻そろっているものを、よく見かけます。しかし、一般にはほとんど忘れ去られた人物でしょう。

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アイヌ語を研究した金田一京助、『遠野物語』など地方の怪異譚(かいいたん=怖い話や不思議な言い伝え)を蒐集した柳田国男などもよく読んだ。現代の民俗学者では、やはり世界的にも大変著名な網野善彦はけっこう好きだった。網野は「日本人論」「単一民族論」としての日本人の自己認識を変えようとし、「一国史観」を問い直した歴史学者である。彼の学説では、日本人という民族は存在しないのだ。私も基本的にはそう思っている。近代の国民国家としての日本人と、民族・民俗学的な日本人とを切り離さなければ、事実がきちんと見えてこない。

前編と同じ繰り返しになるが、ほんとうに日本はこんなに小さな国なのに、地方色が大変豊かな国だ。ざっくり東と西で分けただけでも、ずいぶんと違いがあるのにびっくりする。もっとも、名古屋とか中部地方はどういう区分けになるのか。基本は西国文化の影響が大きいと思うのだが、昔、平安貴族たちは濃尾平野一帯を「あづま(東)」と称していたから、東国の側面もある。この区分けはとても難しい。だから、ここは典型的な関東と関西に分けて書いてみよう。

両者の違いで、古くから言われてきたものに「うどん」の違いがある。関東は鰹(かつお)だしだ。関西のそれは昆布だしであり、これが決定的な違いとなっているが、なぜそういう分岐になったのかというと、関東は硬水が多く、鰹を長時間醤油で煮立てなければならないらしい。関西は軟水のため、昆布を5分程度煮るだけで、味が染み出るという。

こういう違いというものは、年月を経るにしたがって、けっこう間違った都市伝説を生んでしまうこともある。「真っ黒な醤油汁の関東のうどんより、薄い透明な関西のうどんのほうが繊細な味のように思えるが、実は塩分は関西のうどんのほうが多い」、という類。これ、間違っているらしい。塩分濃度は、概ね関西が2.5%なのに対し、関東は6.7%と2倍以上高いのだ。やはり関東は、「しょっからい」のである。だから、関西ではうどん汁は飲み干すが、関東では残す人が多いわけだ。

もっとも、関西人はお好み焼きをはじめ、たこ焼き、串あげ(串かつ)など、けっこう濃厚な味のジャンクフードが多いのに、不思議とうどんに関しては、関東より繊細な味わいを好む。これは不思議なアンバランスだ。

同じように有名なのは、餅であろうか。関東の四角い切り餅に対して、関西の丸餅文化だ。この違いは、江戸時代からはっきり出ていたらしい。江戸ではなにしろ人口が多かったから、一つずつ丸めてつくるより、手っ取り早く切ってつくれる切り餅が主流になったようだ。要は、利便性からきている。関西の丸餅は、そもそもが「丸く円満に収まるように」ということで縁起をかついだ部分が大きい。

私がびっくりしたのは、「トコロテン」だ。関東で生まれ育った人間にとって、トコロテンといったら、「醤油・酢・青海苔・カラシ」と相場は決まっているものだが、関西では「黒蜜」で食べるのが普通だという。これはこれでおいしいと思うのだが、「くずきり」と似たような感覚だろう。しかし、一瞬むせてしまうような関東のトコロテンの食べ方は、関西ではあまり受けないらしい。

やはり、こだわりという点では、圧倒的に関西のほうがこだわる。お好み焼きなどのソース類には、まあ実に多彩な種類がある。関東では、下手をすればウスターソースだけで済ませてしまうところだが、関西では逆にウスターソースなど認知されていないくらいらしい。

このほか、お雑煮、すき焼き、味噌汁、鰻のさばき方、いなり寿司、三色おはぎと、違いを探そうとすればことごとに見つかる。これだけ小さな国で、かくも違いがあるかというほどで、改めて驚きを禁じえない。一番、ゼロサム的な違いがあるのは、納豆だろうか。関西では、一般的に好まれない食品のようで、嫌いな人は匂いを嗅いだだけでも吐き気がするという人もいる。

時代をさかのぼって、剣術にもざっくりと大きな違いがあるらしい。たとえば、西国の剣聖というのは、とかく動く剣術が多いようだ。走る、といったほうがいいかもしれない。宮本武蔵(岡山出身と言われる)の数々の決闘歴を見ると分かるが、実によく走る。走っては切り、切っては走り、だ。きわめて動的な剣術といっていい。西といえば、もっとも西(南)の鹿児島では、薩摩の示現流(じげんりゅう)などがその過激なパターンだろうが、やはり動きが激しい。これに気合を入れるところなどは、咆哮(ほうこう)と言っても過言ではないくらいだ。

これに対して、東国の剣には静的なものが多い。剣のきっさき(刀の先端部)を突き合わせるかどうかという、微妙な間合いをとって両者ともに動かない。もちろん、声も出さない。延々と動かないのだ。そして、動いたと思ったら、その瞬間に勝負がついている、といったような類が多い。多いというよりも、好まれるといったほうがいいのだろうか。西国の動的な剣と、東国の静的な剣というのは意外な事実だ。私などは、逆かと思っていた。

古くは、労役に用いられる主な動物と言えば、西国の牛に対して東国の馬であった。このような違いが積み重なり、1000年の間に多くの地域差を生み出したのだろう。もちろん、いうまでもなくこれによって生まれた東西の違いというものは、どちらが良い悪いの問題ではない。

食べ物だけではなく、習慣もかなり違う。風呂なども今でこそ日本全国津々浦々、まったく似たようなものになっているが、かつては違っていた。しかもこの風呂という言葉、関西地方で主に使われていた。風呂は熱い湯の上にスノコを置き、そのうえに坐って汗を流すのである。今日のサウナ風呂に似ている。それでは汚いではないか、と思うかもしれないが、かつて風呂には「うど」などの木べらを用いて垢取りをしてくれる専門職が常駐していた。

かつて関東地方では風呂とは言わず、「湯」という言葉が使われていた。本来は、風呂屋(毎年減り続けているが)ではなく湯屋なのだ。ただし、熱い「湯」の中にざんぶりとつかるのは江戸っ子の習慣であって、日本人全体の好みではなかった。

いろり(囲炉裏)とかまど(竈)の違いも大きい。いろりは東日本のもので、西日本にはほとんどなかった。いろりは家族の統率者である「筆頭」を中心に「座」を形成する。長男以外の子供や嫁などに「席」はない。西国では、かまどで食事の支度をし、家族の筆頭はいるにしても、基本的には家族全員の団欒(だんらん)がそこにあった。こうした昔の習慣は現在では比較のしようもないのだが、このような習慣が見えない形となって続いていたり、あるいは別の風習や嗜好、価値観に姿を変えていまでも続いている可能性はある。

こうしてみると、日本人をひとくくりで語るには抵抗を感じてしまうくらいだ。民族のDNAや言語形成などを取り上げるまでもなく、日本人そのものがあまりにも雑多な集合体であることが分かってくる。

よく就職試験などで、「国際性があるとはどういうことか」と聞かれるようだが、私は「民族や地域の違いを知っているということと、それを許容できることだ」と理解している。英語ができることが、国際性のあることではない。これは、日本国内についても同じだろう。地方の閉鎖性を批判する前に、地域間の違いや、どうしてそれが生まれたのかという理解なくして、それを許容することは難しい。日本人が世界のことよりも先に、まず自分たちの国のことを知らなければ話にならない、ということの証左であろうと思っている。



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