理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取ったときに

歴史・戦史

これは173回目。太平洋戦争という、わたしたちの国が最悪の選択をした一日に、一体なにが議論されたのか、改めて事実をベースに考えなおしてみましょう。同じことは、二度でも、三度でも起こりうるからです。
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その日、事実上、大日本帝国の対米開戦が決定された。1941年昭和16年11月1日に行われた大本営政府連絡会議でだ。

出席者は、議長が内閣総理大臣、政府から外務・大蔵・陸軍・海軍大臣、企画院総裁、統帥部(天皇直属の陸軍参謀部・海軍軍令部)から参謀総長・軍令部長。幹事として、内閣書記官長と陸軍・海軍の軍務局長。

この会議では、議長(首相)に強い権限はなく、だれもイニシアティブをとることができない仕組みとなっていた。陸海軍のセクショナリズムがあからさまに露呈し、情報共有どころか、予算や資材の分捕り合戦の場に化するということもあった。しかも、統帥部は、天皇直属であるということを盾にとって、作戦行動など一切明かさないため、政策・軍事行動の一元的な遂行は、まったくできない代物だった。

東條首相は、天皇から首相任命という大命降下される以前は、強硬な対米開戦論者であったが、天皇から非戦を求められると、首相就任後は一転して外交主導の交渉と事態打開に注力しており、統帥部や軍内部の強硬派からは「造反者」の汚名を着ている。間違ってはいけない点だが、首相になる前は、確かに東條英機という人物は主戦論者であった。しかし、首相になってから開戦までの期間は、明らかに天皇の御意思に沿い、戦争回避に全力を尽くしたということだ。ここは、東條という人物を評価する上では、絶対に間違ってはいけない点である。

こうした誤解は結構日本史にはある。たとえば、伊藤博文だが、朝鮮統監府の初代統監となった。先立つことその10年前、日清戦争でまず朝鮮を清国から独立させるのに成功したが、その後の大韓帝国はどうにもならない権力闘争と愚民政策、そして近代化の意思すらない状況であった。朝鮮半島が、日本のような近代化をすれば、両国で西洋列強に共同で伍していくことを期待したが、それはほぼ絶望的であった。

そのため、日露戦争でロシアの朝鮮半島進出の意図をくじき、日本自ら朝鮮半島の近代化に着手したのだ。そこで、問題がおこる。増長した国内の政府・軍閥には朝鮮半島を日本の直轄地として、さらに大陸に拡大意図があった。伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。

韓国併合についても、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた。近年発見された伊藤の明治38年1905年11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けられている。実際に、この文言は「第二次日韓協約」に盛り込まれ、調印された。

伊藤は韓国民の素養を認め韓国の国力・自治力が高まることを期待し、文盲率が94%に留まっていた韓国での教育にも力を注いだ。1907年、韓国に赴任する日本人教師達の前で「徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し、裏表があってはならないこと」「宗教は韓国民の自由であり、あれこれ評論しないこと」「日本人教師は余暇を用いて朝鮮語を学ぶこと」を訓諭した。

また、京城(ソウル)にて新聞記者達の前でも「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す。」と演説していたのだ。このように、朝鮮が近代国家として独立していける素地ができるまで、時間限定で日本がパトロンになるというのが伊藤のシナリオであり、朝鮮の植民地化ではなかったのだ。

伊藤が老体に鞭打って、わざわざ降格人事を自ら引き受けて、朝鮮統監府の初代統監に就任したのは、日本国内に台頭してきた朝鮮植民地化の潮流に対して、絶対的な防波堤になろうとしたのだ。伊藤が朝鮮で踏みとどまっていれば、国内の大陸進出派も手が出ない。

伊藤は、できるだけ時間を稼いで、朝鮮半島の近代化と、独立国への道を模索しようとしたのである。それをまったく誤解したのが、朝鮮独立を望む安重根である。ちょうど幕末維新の日本の志士たちと同じで、ただの単細胞のテロリストにすぎない。

安重根は、伊藤を暗殺したことで、日本の朝鮮植民地化に少しでも抵抗しようとしたわけだが、その志は純粋ではあっても、まったく愚かな行為としかいえない。伊藤をハルビン駅頭で暗殺したことで、伊藤という最大の朝鮮支援者を失う羽目になったのだ。もはや、朝鮮の日本による併合は、時間の問題となったのである。

こういう事実は、韓国人は愚か、日本人ですら認識が不足している重大な事実である。話が横道にそれたが、東條英機が開戦直前に首相であった期間は、一般的な認識とはまったく違い、天皇の御聖慮を大事とした、戦争回避の方針で力を尽くしていたのである。

ここで、基本的な知識として、当時の政治体制を確認しておこう。日本は戦前も議院内閣制をとっていたが、現在のそれとはまったく違う。現在は、安倍首相が独裁的な権限を持っており、各省庁代表の大臣・長官は、首相の独断で首のすげ替えが自由である。ところが、戦前は、内閣を構成するすべての大臣が同等の権限を有しており、商工大臣一人が反対だといって辞任したら、内閣は総辞職以外に選択肢はなかった。首相は、ただの議長でしかなかったのである。

東條英機首相は、この日の連絡会議で、それまでさんざん討議された三つの案を改めて提示した。

1.戦争を極力避け、臥薪嘗胆する。
2.直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する。
3.戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める。

東條首相は、3案の他にないかと出席者に尋ねた。この時、永野海軍軍令部総長は、第4案として「日米不戦」を提案。これは、第1案の「戦争を極力避け」というのと、似ているようだが、全く違う。第1案は、「極力避け」であり、やむをえなければ、開戦という道が残されていた。が、永野が提案した第4案は、「絶対非戦」の方針である。その最大の根拠は、持久戦になることは必至であり、その場合勝てない、という結論があったためだ。

永野の主張は、この際、陸海軍は矛を収めて政府に協力し、交渉だけで問題を解決する方針を提示したわけである。これに対し、東條は「交渉条件を低下させることはできない」とだけ述べ、第4案はボツとされた。つまり、米国との開戦を絶対にしない、という決断のもと外交交渉をするとなると、当然、日本側からの交渉条件は譲歩に譲歩を重ねることになる。海軍はとくに譲歩案件がないが、陸軍は大ありである。まず問題になるのは、支那大陸からの撤兵問題だ。満州まで引っ込むという譲歩案をアメリカに提示すれば、それなりの交渉妥結の突破口は開けるだろう。東条首相はそうした交渉条件の低下は、できない、と突っぱねたのである。

これは、東條だけではない。陸軍全体にあった定見である。なぜ、大陸から撤兵できないのか、というと、上海や南京、広東からの撤兵だけならまだしも(これはほとんど軍の威光(つまり面子の問題にすぎないが)、北京周辺や内蒙古一帯からの撤退は絶対にありえない、という認識が陸軍にはあった。それは、中国国内が、一般に想像されている以上に、はるかに深く広範囲に、共産主義の浸透が進んでいたためである。

蒋介石総統の国民党政府は、反共政権だが、その国民党政府でさえ、汪兆銘その他の広東派や、各地の軍閥など地方政権に分裂しており、どこからどこまでがだれの施政実効地域なのかさえ、はっきりしない有様だった。徴税という名目で事実上の略奪暴行は常態、しかも重複する勢力圏に居住する一般人への苛斂誅求は過酷に過ぎるものだった。無法無主の地、それが当時の支那のありさまだったといっていい。

腐敗と汚辱に満ちた国民党政府だけに、共産主義による浸食は甚だしく、日本陸軍はこれを脅威と感じていたのである。中国が赤化するだけならまだよい。すでにスターリン主導のソ連という共産大国がすぐ北に迫ってきていたから、なおのことである。陸軍は、朝鮮半島から満州まで、とりあえず日本の自存自衛のための「くさび」を打ち込んだ。

陸軍の中には、満州事変の張本人である石原莞爾関東軍参謀のように、満州までで陸軍の進出はストップすべきだ、という意見もあった。が、多くは満州までではまだ不十分であり、北京周辺や内蒙古まで支配下にいれておかないと、共産主義の脅威に対する防波堤にはならない、という拡大派であった。東條は、この拡大派である。

永野は、7月の時点でも、日独伊三国同盟がある限り、対米交渉は成功しない、と主張し、同盟解消を主張していた。いわゆる戦争回避派である。東條首相も首相就任以降は、戦争回避派となったが、陸軍軍人として支那全土に侵攻していた日本軍を撤収させることは、絶対反対という姿勢を維持しており(支那全土の掌握という野望よりも、日本の共産主義に対する自存自衛のためには絶対譲れないという認識であり)、現実の外交交渉においては、これが大きな矛盾となった。

東條首相が個人的な信念にこだわり、この第4案をボツにしたことは、重大な失敗であった。この第4案が生きていさえすれば、連絡会議が紛糾して、政策決定が暗礁に乗り上げた場合、天皇にこれを選択する余地が残されたはずなのだ。

第1案に賛成したのは外務大臣・東郷茂徳と大蔵大臣・賀屋興宣だけだった。これに対し、永野海軍軍令部総長は、政府が武力発動を放棄し、外交だけで問題を解決することを言明しない以上、責任はもてないとして第1案には反対した。彼は、あくまで第4案を主張していたのだ。

面白いことに、あれほど開戦開戦と強硬だった統帥部・陸軍を含めても、第2案に賛成したものは一人もいない。陸軍は、戦争準備のため、偽装としての外交交渉を平行させるという意図から、第3案に賛成したのだ。いわば、時間稼ぎのために、戦争準備と外交交渉を平行させる案に賛成しただけにすぎない。即座開戦は、陸軍・統帥部ですら無理、と思っていたのである。対米開戦をするには、どうしても中国戦線を終結させる必要があるという認識だったのだ。

対米開戦となった場合に、短期決戦か持久戦かという議論では、持久戦にならざるをえず(アメリカがそれを意図していると連絡会議参加者はみな正確に認識していた)、その場合に、あらゆる国力差からいって、到底日本に勝算無しというのが、正論であった。鈴木貞一企画院総裁は、致命的な物資不足を述べ、持久戦はできないと主張。持久戦となった場合、日本必敗という結論は、多かれ少なかれ、参加者の認めることであった。

「だから、」と統帥部や陸軍は語気を強める。「マレーからインドネシア、南方に進出して石油を取ればよいのだ。南方の資源を確保してしまえば、対米持久戦も可能だ。」と一段の戦線拡大を主張する。鈴木貞一企画院総裁も、この意見には賛成した。これに対し、大蔵大臣・外務大臣や海軍は、「たられば」の話で開戦決定はできないと反論。

挙句の果てには、杉山陸軍参謀総長の、「いくさはやってみなければわからない」という無責任な発言が出る始末で、これに対して嶋田海軍大臣が、「陸軍はもう勝手に4年も大陸で戦争をしているが、一向に終結の目途がたっていない。今また南方と言いだしているが、このへんでそろそろ大陸から手を引くつもりはないのか」と詰め寄る場面もあったが、陸軍統帥部は一顧だにしなかった。それどころか、「統帥権干犯!」と怒号して、陸軍の作戦に対する批判を封じた。

統帥部(参謀本部)は、陸軍や海軍から切り離された、天皇直属の機関であった。従って、天皇という隠れ蓑に自身を覆い、一切の情報を開示せず、政府や陸海軍大臣などからの批判を、天皇大権を侵す大罪であるとなじるのが常だった。この組織上の問題が、開戦でも、またその後の戦争指導においても、また終戦土壇場においても、常にネックとなったのである。

その少し前、杉山参謀総長は、天皇から対米戦の目途を下問された折、「対米戦は、南方に関しては3か月で済む予定です」と進言した。このとき、天皇から、「おまえは、支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」と語気荒く問いつめられたことがある。

答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」と言い訳した。これが、天皇の逆鱗に触れた。「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失った。

天皇から、これだけ叱責を被ったにもかかわらず、連絡会議ではまるで意に介した様子がない。東條首相が、「総参謀長は、開戦開戦と、口を開けば開戦しか言わないが、陛下の御聖慮を、総参謀長はなんと心得る。」となじると、杉山総参謀長はそれには答えず、「東條君。統帥部では、きみのことを変節漢とか、裏切り者とかいうものが多いが、わしはこう言っとる。東條は真面目な男だ。そもそも首相になる器ではない、とな。」と言って、東條首相の詰問には答えず、嘲笑する有様である。これが、天皇の威を借りた、傍若無人な言動に際限のない、統帥部というものの存在であった。

結局、連絡会議は、妥協の産物で第3案「戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める」に国策方針が決定した。 しかも、タイムリミットは11月末であった。気の毒なのは、東郷外務大臣である。陸軍からは、なんの譲歩案も仕入れることができず、ひたすらアメリカと交渉せよと言われても、交渉のしようがないからだ。「これでは交渉はできない」と反論すると、杉山総参謀長は「それを交渉するのが、あんたたちの仕事だろう」と一蹴している。

東郷外相は、戦争回避に失敗した責任を取って辞任しようとしたが、(辞任すれば、東條内閣総辞職となり、少なくとも12月8日の開戦は無かった)省内からは、「閣下が辞任してしまったら、主戦派が後任大臣になる恐れがあります」と説得され、やむなく閣内に残った。賀屋大蔵大臣は、16時間に及ぶ最後の連絡会議の末に決定された第3案への署名を拒否したが、翌日にはしぶしぶ署名した。

こうした陸軍強硬派に押し切られる形となっていった連絡会議だが、東條首相としてはぎりぎりのところで、(天皇の意をくんで)戦争回避をする手段はあった。頼みの綱は、海軍だったのである。

先述通り、内閣はたった一人の大臣が辞任してしまえば、内閣総辞職となる。あくまで、開戦を主張する陸軍の意図をくじくには、海軍大臣が辞任してしまえばよかったのである。

しかし、その海軍が突如、折れた。開戦に同意したのである。東條は狼狽し、また失望した。天皇の「非戦」の要請にこれでは応えることができない。ここに、もともと対米開戦に消極的であった海軍が、なぜにわかに妥協したのか、という最大の問題がある。一説には、鉄その他軍事物資が圧倒的に不足していることを、避戦の理由としていた海軍に、陸軍が譲歩して物資予算を分与するという提案をしたためだ、とされている。陸軍にしてみても、ここで予算の分捕り合戦で譲歩せず、海軍がへそを曲げて、海軍大臣辞任という選択をした日には、対米開戦ができなくなるからだ。

これも、一理あるが、長年わたしはどうもそれだけで海軍が翻意したというには、あまりにも理由としては決定的ではないように思っていた。すると、ここ10数年の間に、アメリカの情報公開その他で、新たな事実が出てきたのだ。

実は、海軍も焦っていたのである。なぜなら、すでに海軍は対米開戦という万一の事態に備えて、山本五十六連合艦隊司令長官の発案で、真珠湾への航空機動部隊のみによる先制攻撃というプランを進めていた。

北太平洋を航行していくには、年明けになっては気象条件が悪化するため、不可能になる。どうしても12月初頭には先制攻撃をしなければならない、という事情があった。戦機を逸すれば、また1年後の今、開戦と言うことになる。その場合は、アメリカは戦争準備を完了させてしまっている可能性が高かった。

しかし、さらに重大な、そして切迫した事情があったのである。それは、アメリカによる、日本本土への先制爆撃計画情報を入手していたからだ。

太平洋戦争は、日本による真珠湾奇襲攻撃、いわゆる「だまし打ち」説が定説だったし、現在でも日米国民の一般常識としてはそういうことになっている。が、事実はそうではなかったということが、すでに明らかになっているのだ。

アメリカは、支那事変勃発以降、イギリスとともに、仏印(フランス領インドシナ、現在の、ベトナム・ラオス・カンボジア)経由で中国の蒋介石政権に、大量の軍事物資を供給支援していた。これだけでも、国際法上は中立国義務違反である。

ドイツがフランスを占領して、フランスにビシー政権が成立すると(ドイツのいいなりになった)、日本は仏印総督と交渉し、合意のもとに仏印進駐を行った。言っておくが、これは軍事侵攻ではない。誤解している人が多いが、インドシナへの日本軍進駐は、あくまでフランスのインドシナ総督と正式な交渉をし、合意の上行われたものであって、国際法違反の侵略ではない。すでに日本軍は支那事変拡大後、中国南部も押さえ、完全に蒋介石を陸の孤島・四川に追い詰めていた。蒋介石政権を日干しにするには、仏印経由の援蒋ルートの遮断が必要だったのだ。英米はこのため、ビルマルートでの蒋介石支援に切り替えていった。

陸軍は陸軍で焦っていたのである。対米開戦となると、対中国戦線をそれまでに終結させる必要があった。二正面作戦は、陸軍の頭で考えても不可能なことだったからだ。

その結果、支那の海岸線をすでに押さえていた陸軍は、さらに仏印進駐で援蒋ルートを押さえたつもりだったが、英米の援蒋ルートがビルマルート、チベットルートと、どんどん移動・拡大してしまい、収拾がつかなくなってきていたのである。このため、対米同時開戦ということになった場合、持久戦に耐えるために、英領マレーやオランダ領インドネシアの石油確保を意図するという、とめどもない戦争拡大計画へと発展していかざるをえなかった。

アメリカとの戦争は、基本、海軍主導であり、陸軍は正直、直接自身がかかわることは少ないと思っていたフシがある。それより、とにかく中国との戦争を一刻も早く勝って、終結させたかったのだ。それには、どんどん拡大する米英の対中国支援ルートを、片っ端から潰さなければならない。マレーやインドネシアなど、それまでもともと軍事計画には無かった南方作戦が急浮上してきたのも、この延長上にある。

この陸軍の野放図な戦争指導に対して、非常に不満を持っていた海軍なのだが、突如振ってわいたような、驚くべき情報が入ってきた。それが、アメリカの、日本本土爆撃計画だったのである。

これは、5月28日に起案され、米陸海軍首脳部の承認を受け、「JB-355計画」としてルーズベルト大統領に提出された。Jは日本(Japan)、Bは爆撃(Bobming)であろう。現在、情報公開によって、ルーズベルトがサインをした計画書の原本が写真で公開されている。

航空機の供与は、3月にルーズベルト大統領が成立させた武器貸与法によって合法的に実施できた。しかし、これ自体が、中立国としての国際法違反である。

しかし、問題があった。この武器貸与法によって、中国軍がアメリカの戦闘機や爆撃機を使っていても、米国内向けには「米政府が売った、あるいは貸したもの」と言い逃れができる。

ところが、人員(米軍将兵)まで提供したとなると、ごまかしは効かない。米軍軍人が中国で日本爆撃を行う「特別航空戦隊」を指揮していたとなれば、ルーズベルト政権は議会の承認を受けずに、実質的に米国を対日戦に参加させていたと非難されるのは確実である。したがって、JB-355計画は米国民に知られないように、極秘のうちに進めなければならなかった。

さてこのアメリカの最新鋭戦闘機・爆撃機のパイロットや整備士をどうするか、ということであった。飛行機は大量生産できるが、人材の育成には時間がかかる。

中国空軍も中国人パイロットの育成を図っていたが、そのレベルは低いものだった。3月に成都上空で行われた空中戦では、日本軍の12機と中国軍の31機の戦闘機が交戦した。

中国軍はすぐに編隊を崩したが、日本軍は2機編隊で中国機を追い詰めた。1時間の戦闘後、日本軍機は燃料が不足し始めて帰還したが、目に見えた損害はなかった。一方、中国軍は15機が撃墜され、8名のパイロットが生命を落とした。

中国人パイロットの技量がこの程度だったので、膨大な数の米国の戦闘機、爆撃機を中国で使うためには、それに相当するアメリカ人パイロットと整備士も送らなければならなかった。しかし、現役の軍人を送ることは許されない。

そのために、現役の軍人を退役させ、あるアメリカ企業の中国現地法人である民間会社が彼らを雇って、義勇兵として活動させる、という擬制をとった。

報酬は倍となり、また日本の飛行機を1機撃墜するたびに500ドル支払われるという好待遇だった。しかも1年の任期の後は、ふたたび、もとの地位で米軍に復帰できるという条件付きであった。

アメリカから中国に供与された第一陣、戦闘機100機の要員として、100名のパイロットと200余名のサポート要員が6月初旬、サンフランシスコから船で出航した。

彼らはビルマのジャングルに送られ、最新鋭のカーティスP-40戦闘機の操縦訓練を受けた。ルーズベルトは、JB-355計画にOKのサインをする7月23日より前に、戦闘要員を送り出した訳である。これが、事実上の米空軍派遣航空隊「フライング・タイガース」である。

このJB-355計画の内容は、1991年12月6日にアメリカのABCテレビが「20/20」で放送され、白日のもとに明らかにされている。専門家の歴史学教授が「本物の政府計画だ」と立証している。

このJB-355計画は、10月1日までに、350機の戦闘機と150 機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸、京都、大阪の三角地帯と横浜、東京地区の産業地域を爆撃するというものだった。中国空軍にやらせる計画であるが、その中国空軍の中枢にいわゆるフライング・タイガー(偽装ボランティアのアメリカ陸海軍飛行士)が実際には主導権を握っていた。

7月時点では、日米の和解の交渉が行われていたことは誰でも知っている。日本側は、戦争回避のために必死の交渉を行っていたのであるが、何のことはない、アメリカはもうこの時点で対日攻撃を「命令」していたのである。この時点で、アメリカはすでに日本に対して、事実上、軍事行動のスタートを切ったわけであり、実際に戦闘をしかけたかどうかなどという議論は無意味である。繰り返す。これは、爆撃計画にとどまらなかったのだ。「計画」では終わらず、準備出来次第、攻撃せよと「命令」が下されていたのである。

陸軍が、米英の援蒋ルートを遮断するため、7月28日に仏印進駐を行うと、アメリカは8月1日、石油などの戦略物資の全面禁輸と日本資産凍結を行った。

このJB-355情報を海軍は掴んでおり、しかも日本周辺には爆撃機までが配備され始めていた。海軍が焦ったのは、このためである。海軍は、ルーズベルトが「欧州戦争に参戦しない」ということを公約にして大統領になったのであり、ましてや日独伊三国同盟があるにせよ、日本に対して先制攻撃をしてくるなどとは、思いもよらなかったのだ。

ところが、アメリカは、日本がどのような譲歩をして交渉を継続したところで、なにがなんでも戦争を仕掛けてくるということを、この動きから海軍は悟ってしまったのだ。だとすると、座して、甘んじて敵の先制攻撃を受け、なかんづく、艦隊行動まで繰り出されてしまったら、圧倒的に不利な本土防衛戦に一気に引きずり込まれる危険性が高い。

海軍が、戦機を逸してはならない、と翻意したのは、このアメリカの先制爆撃計画が一番大きかったと推察される。しかし、それならアメリカが、いつ、どのくらいの規模で日本本土爆撃を実施できるのか、もっと情報を徹底的に収拾して判断すべきだったのだ。一体、その実際の攻撃はいつならありうると考えられるか、インテリジェンス(諜報機関)のすべてを動員して、全力でこの一点を調べ上げる必要があったのだ。連絡会議で、このアメリカの軍事行動(中国など周辺国に、対日爆撃部隊を集め始めていた軍事行動)を明らかにし、外務省・陸軍・海軍のあらゆる情報網を統合して、その現実的可能性をまず押さえるべきだったのである。が、連絡会議ではこのことは伏せられ、海軍はただいきなり開戦賛成に回ったのである。すべてがこの調子だった。組織の有機的統合性は、ゼロだったのである。これが日本の組織というものが、現在でも抱えている最大の文化的欠陥である。

事実はどうなったかというと、この1941年というと、欧州戦線が急迫・激化してきており、英国が降伏寸前の状況に追い詰められていたのだ。アメリカは大型爆撃機を欧州戦線に回さなければならなくなったために、中国への供与が遅れた。「結果として」10月の日本本土爆撃命令は実施できなかったのである。

誰もが、12月8日の真珠湾攻撃がだまし打ちであったと信じている。しかし、真実は、その約5か月前に、ルーズベルト大統領が陸海軍合同の10月の日本本土攻撃計画にゴーサインを正式に出していたのである。これは、アメリカの一般国民を欺き、そして日本をだまし討ちにした事実だ。従って、この情報を入手していた海軍による真珠湾攻撃は、正しく自衛権の発動に基づいた反撃戦であったということになる。たまたま、その土壇場で、欧州での戦線が窮迫してしまったため、B-17爆撃機を多数欧州戦線へ回さなければならなくなって、先延ばしになっていただけのことなのだ。

ところで、このJB355計画は大統領補佐官ロークリン・カリーが中心となって同年年初から進めていたものだ。カリーは後にソ連の工作員(コミンテルン)だったことが、戦後公開され、解読された「ヴェノナ文書」によって判明した男である。

カリーが、5月9日にこの計画について大統領に覚書を提出したのに対し、5月15日には、ルーズベルトからその具体化を進めるよう指示の書簡が送られている。即ち、ルーズベルトは陸海軍からの提案を単に承認したのではなく、ずっと前からカリーを通じてこの計画を進めさせていたのである。ルーズベルトが対日和解など考えていなかったことはこのことからもはっきり確認できる。

後年、ビートルズのジョン・レノンが述べていたように、「第二次大戦とは、特に日米戦争とは、人種戦争であった」ということである。ルーズベルト大統領と言う人物は、人種差別主義者であったことは間違いない。単純に日本を敵視したというレベルではない。彼は、スミソニアン研究所の文化人類学者アールス・ヒルデリカをホワイトハウスに招き、「日本人全員を、南太平洋の原住民と強制的に交配させて、やる気が無い、無外な民族につくり替える計画をたてたい」と研究を命じているのだ。ナチスのことを言えた義理ではないのだ。実際、ルーズベルトは、アメリカ在住の日系人はことごとく収容所に放り込んだが、ドイツ系には一切こういうことを行っていない。

すでに、1939年ごろから、対日戦争計画書「オレンジプラン」はまとまっており、その目的として、「アメリカは、白色人種の利益を代表し、英仏欄と連合し、黄色人種の日本と戦う」と明記されていた。もともと「オレンジプラン」は、日露戦争直後から、アメリカで草案が作られていた。当時は、アメリカが交戦する可能性のある諸外国すべてを対象としていたが、昭和に入ってからは、ほぼ日本(オレンジ色)一色に計画は染まっていた。

当時、リチャードソン海軍大将は、日本とは戦争をすべきではないから、「オレンジプラン」などという対日戦争計画は廃止すべきだと主張したところ、即座にルーズベルト大統領に解任されている。

このJB-355計画が、7月時点で決定されていたことからすると、その後のハルノートなどの、一方的な対日要求など関係なく、日本がどのような対米交渉をしようと(仮に支那大陸から満州へ、全軍を撤収させたとしても)、アメリカはとっくに開戦の意思を決定していたということだ。

ある意味、ハルノート(鎖国時代の国境線に戻れというのに等しい内容)を日本につきつけてきたのは、英国防衛のためにB17爆撃機を欧州に回さなければならなくなったため一時中断せざるをえなくなったJB-355計画の代わりに、狂ったように開戦を急いでいたルーズベルト大統領が、今度は日本に先に手を出させて、アメリカ国民を激高させ、対日開戦ができるように仕向けようとした、その二の手であり、また罠だったということも言える。

アメリカ自身による中国軍による対日空爆という擬制=JB-355計画は、このように、欧州戦線の激化によって、大幅に遅れることになった。イギリスは、国内自給物資の備蓄が1ヶ月を切るという、絶体絶命のピンチに追い詰められていたからである。このため、アメリカは、今度は日本から先に手を出させることを、無理強いしようとしたのである。それによって、アメリカ国民を激昂させ、自らの公約「アメリカはアメリカ以外の地域での戦争には参加しない」を引っくり返して、正々堂々と日本と戦争ができるようになる。これを目論んだのだ。それが、ハル・ノートという、事実上の最後通牒であった。

実際、ルーズベルトの指示は公式文書で公開されており、このころ、スティムソン陸軍長官に対し、「日本に最初の一手を打たせるよう、誘導していくことが一番重要だ。最初の一発を、日本に撃たせるのだ。」と指示している。中国軍に擬制した事実上の米空軍が日本を直接爆撃するという作戦は、大幅に遅れた。そのため、今度は日本に先手を打たせようというのだ。

欧州戦線にすらアメリカはまだ参戦していない状態で、国民には戦争をしないと公約していただけに、ここであろうことか日本を軍事攻撃するというのは、筋が通らない。JB-355計画が実施されていたら、実質それが米軍だということが後日明らかになってしまったら、当然ルーズベルトは連邦議会によって「弾劾裁判」にかけられる可能性が高かったが、ルーズベルトはそのリスクを取った。一応できるだけバレないように、あくまで形上中国軍による対日空爆であるという擬制を装ったわけだが、しょせん大量のアメリカの正規軍人が参加してしまうわけだから、言い逃れはできない。

この1941年、開戦直前の状況において、このようにアメリカはなにがあろうと日本を軍事的にたたく方針がルーズベルトによって決定されていた。日本は自存自衛の戦争を選択する以外、もはや道は残されていなかったというのが、現実だった。

しかし、それでもまだわずかに、開戦回避の方法はあったのである。それは、永野修身海軍軍令部長が連絡会議に提案した、「対米不戦」という第4案である。そのためには、中国・蒋介石との和平が必要であり、陸軍の支那大陸からの全軍撤収が必要だった。蒋介石に最大譲歩をしなければ、和平の成立は不可能だったからだ。中国とさえ和平してしまえば、アメリカは日本に経済制裁や武力制裁を行う道理が無かったからである。両国は直接的に衝突する問題を共有していなかったのだ。まったく無関係の国同士だったのである。

その中国との和平を実現するには、連絡会議で対米開戦を譲らなかった問題児・陸軍統帥部の人事を総入れ替えし、対支那和平派で固めなければならない。それが立場上できたのは、あの時点でたった一人である。昭和天皇にほかならない。

しかし、明治維新以来、日本の天皇は君臨しても、直接政治に関与しなかった。それが、日本の天皇だった。歴代天皇は、幸いなことに人間として徳が高く、徳富蘇峰の言い方を借りれば、「優しすぎた」のである。明治維新以来、日本の天皇は、主張はしたが介入はしなかった。臣に信を置いたからだ。政府・軍が、この天皇大権を金科玉条のごとくかさに着て、その実、天皇の意思をないがしろにした結果が、対日開戦の最大の問題だったというべきだろう。

もし、東條が昭和天皇に懇請して、統帥部・陸軍大臣の罷免(それは天皇ならできた。一言、「顔も見たくない」とおっしゃれば、それで済んだのである)し、対支那和平派に更迭し、ただちに大陸からの陸軍撤退を始め、蒋介石と和平交渉をしたら、どうなっていたろうか。現在わたしたちが知っている歴史とはまったく違う方向に動いたことは間違いない。

が、そこには大きなリスクがあった。陸軍の反乱である。統制派中心に、陸軍がクーデターを起こしたり、各地の強硬派将兵が反乱する恐れがあったのだ。東條が一番恐れていたのは、2・26事件のようなケースの勃発である。東條のみならず、天皇も憂慮していたのはおそらくこのケースだ。この2.26事件のトラウマが、精神的には陸軍の主張に最後まで抵抗しきれなかった、当時の日本指導部の弱点であったかもしれない。命が惜しかったのではない。国家が分裂し、内戦状態になり、指導部が隠れ蓑にしていた天皇制そのものの威光が音を立てて崩れるのを、なにより恐れたのである。

東條首相は、御前に対米開戦やむなしの奏上をした際、天皇の意に沿わない結果になったことに激しく懊悩し、号泣した。しかし、酷な言い方をすれば、泣いて済むような話ではなかったことは、四年後の敗戦の惨禍を見れば明らかだ。

東條は、大命降下を受けた際、天皇から言われた、「戦争回避のため、陸軍内部をまとめてほしい」という、それに執着しすぎた。だから、天皇から託された首相としての任務を、辞任によって放棄するなど、到底考えられなかったのだ。杉山ら主戦派を、統帥部から一掃して、全面的な人事異動を断行するのに、天皇の出馬を願うというのも、東條には恐れ多くてできなかったのだ。杉山総参謀長が言うように、東條首相は「真面目すぎた」のかもしれない。

もし、東條首相があくまで、戦争回避であるという天皇の本意に沿うべく(自身の、支那からは絶対撤退しないという持論を曲げ、天皇から大命を受けた首相の座を放棄してでも)、自ら総辞職を選択していたとしたら。・・・海軍は、先述通りアメリカの日本本土爆撃計画を知って、土壇場で開戦に同意した以上、内閣総辞職をして開戦回避をするには、東條首相の辞任以外にあり得なかった・・・それなら、少なくとも12月8日の真珠湾攻撃は無かった。

東條首相が、この土壇場で政権を投げ出すことを、無責任と感じていたフシがある。というより、ほぼそのものだったろう。その真面目さが、仇となったともいえる。後に、吉田満(大和に乗艦していた)の「戦艦大和の最期」の中で、臼井大尉が言ったと伝えられる言葉が、思い起こされる。

「私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。」

そうなのだ。東條首相が、天皇の期待を裏切って、政権を投げ出す無責任さも、支那からの全面撤退は絶対納得できないという意地も、天皇の聖慮(非戦)から見れば、優先順位は遥かに落ちるのだ。東條首相は、その点で、杉山総参謀長が皮肉としていったように、「真面目すぎ」て、大局を誤ったのである。天皇に直訴してでも、杉山総参謀長はじめとする主戦派を一掃して、入れ替えるという荒業をするべきだったのである。天皇の信頼を投げ捨てて、総辞職してでも、開戦を少なくとも1年、不可能にしてしまうべきだったのである。

東條辞任の場合、新たな内閣成立は、大もめにもめて、かなりの時間を要したに違いない。結果的に、米軍による日本本土爆撃は欧州戦線の事情で中断していたし(この中断を、日本海軍は知らなかった。いつでも本土爆撃がありうると踏んでいた)、なによりドイツが6月から始めたバルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)が、12月には冬将軍の到来もあって、大失敗し、多くの損害を経て後退するという展開になった。戦局は大きく転換しつつあるタイミングだったことは、間違いないのだ。

どのような事情にせよ、あくまで開戦を先延ばししていたとしたら、破竹の勢いだったドイツ軍の侵攻がちょうど攻勢限界点に達する局面だっただけに、陸軍の強硬策は沈黙を強いられたに違いない。陸軍が、あれほど主戦論で勢いづいていたのは、たった一つの理由である。「無敵ドイツ軍の破竹の進撃」それだけだった。従って、そのドイツ軍が、攻勢限界点に達したということが白日の下に明らかになったら、陸軍は借りてきた猫のように、押し黙ってしまったはずである。

太平洋戦争が無かったら、確かにいまだに軍人の横暴は続いていたろうし、個人的にも不快極まりない日本社会になっていたろうが、それでもやはり、負けていい戦争などないのだ。

このように、1941年の真珠湾攻撃直前の政局というのは、最も重要な米軍の対日空爆計画をはじめとするあらゆる情報を共有した突っ込んだ議論がなされておらず、それゆえに現実的かつ最も有効な勝利への作戦計画もつくられず、責任者はそれぞればらばらに、それぞれの事情で、やむをえないという選択ばかりに終始し、天皇大権をいただきながら、まったく天皇の「非戦」という意思の貫徹を最優先させて、あらゆる非常時的な決断と行動をする果断さを発揮できなかった。

日本の戦前の政治体制というのは、このように、最終的に決定的に、そして実質的に誰が責任を負うのか、という点で、きわめてあいまいなものであり、その意味ではまったく国論は統一されていなかったといえる。これは、絶対的と言ってもよいほどの独裁と、完全無欠に近い国論統一がなされていたナチス・ドイツとは、まったく違う状況だったことがわかる。

最終的に、日本が開戦を決定するに至る、最後のターニングポイントは、やはり海軍の同意に求めることができる。そして、その海軍が、手のひらを返したような開戦論に転換した(せざるをえなかった)最大の要因は、アメリカがすでに日本本土爆撃命令が秘密裏に下されており、実際それに基づき日本周辺(とくに中国)に、戦闘機・爆撃機の配備を始めていたことに尽きる。

極東軍事裁判で、判事団の中で唯一、日本無罪論を主張したインド代表のパール判事の次の言葉を思い起こさせる。

『時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、その時こそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。』

ルーズベルトという狂人が、いかに日本を罠にはめ、自国民を欺き、共産主義という暴力集団に手を貸した戦争犯罪者であったことか。今、ようやくその正体や所業の謎が、「ヴェノナ文書」の公開・解読以降、一つずつ明らかにされ始めている。

太平洋戦争というものが、民主主義と軍国主義、侵略と解放などという性格のものではなく、そうした虚偽が暴かれ、白人と有色人種の戦いであったという実相(代表選手であった日本を潰し、国家の体をなさない中国という大市場を総取りしようという意図)に、当のアメリカ人が気づかなければならないときがやってきている。戦争を欲したのは、アメリカであり、先に軍事行動に動き始めていたのもアメリカだったのである。これは、声を大にして、世界にアピールする必要がある。歴史は修正されなければならない。



歴史・戦史