ある日のチッタゴン
これは172回目。もう三十七年も前の話です。会社勤めをして、まだ駆け出しの頃。長期出張でインド圏を巡っていた。バングラデシュの代理店の親爺(当時50代)とは、公私共に仲良くしていました。親爺が日本に来たときには、食事はもちろんのこと、わたしの家にも泊まっていったくらいです。
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ウマが合ったのだろう。毎年二度は来日したが、たいてい家に泊まりに来たものだ。伊豆あたりの温泉にも連れて行ったりした。逆に、わたしがバングラデシュを訪れたときには、必ず彼の自宅に泊まっていた。ただ、部屋の外は、ちょうど窓を明けたところに、ヤギなどの厩舎があったから、まあ臭いの、鳴き声がうるさいの、さすがに閉口したものだ。
滞在中は朝から晩まで、ひたすらカレーだったが、夫人の手づくりのマトンビリヤ二は、絶品だった。米は当然、細長いパラパラの現地モノだが、非常によく合った。あれは日本の米では駄目だろう。素手で、それも右手の三本の指だけで食わされるのも、いつものことで慣れっこになり、かなり上手くなったものだ。
ある日、仕事が終わって、親爺といっしょに代理店から帰ってくると、夕飯までの間、そこの息子(当時小学校5年生くらい)が、わたしを心待ちにしていた。いつも、近所の散歩に連れて行ってくれるのだ。
今のバングラデシュは知らないが、当時は実に貧しかった。チッタゴンの空港といっても、ターミナルといえば、平屋同然の建物がポツンとあるだけという記憶だが、間違っているだろうか。1981年のことだ。
歩けば、肢体不自由だったり、さまざまな皮膚病などを患っているような乞食が、溢れており、モンスーンの季節には洪水を引き起こし、コレラも多発。ここかしこに行き倒れ(人だけではない、牛や家畜もだ。しかも、一面水浸し。)を見かけるような状態に陥る。食糧事情も、衛生事情もきわめて悪かった。
その時は、乾季だったから、そうした地獄絵図は見ないで済んだものの、貧困の中をのんびり散歩というのは、どうしても心にわだかまりが生じた。
その倅(せがれ)は、「今日は、日本人の墓地に連れていってあげるよ。」という。日本人の墓地とは、不思議なことを言う、と思ったが、行ってみるとそこは軍人墓地であった。基本的には英連邦戦没者の墓地なのだが、一角に日本兵の墓碑もあるのだ。
墓守がその日本兵の墓碑を、丁寧に磨いている最中だった。聞けば、ダッカにもあるそうだ。おそらくインパール作戦( 1944年3月~7月)の犠牲者だと思うが、それにしては埋葬されている場所がおかしい。激戦地だったコヒマは、ずっとチッタゴンから東のほうだ。日本軍の撤退もそこから、さらに東南のビルマへと向かっていたわけだから、チッタゴンは、戦闘地域からも、また撤退ルートからもまったく逆の方角になる。チッタゴン近辺にまで突入できた日本軍部隊があったなど、聞いたこともない。
どうも、戦地に取り残された傷病兵が英軍に収容され、病院で治療されているうちに、亡くなった人たちではないかと思う。このへんは、定かではない。
墓碑銘は、現地人が記しているものだから、日本人の名前がおかしなことになったりしているが、それでも18名全員の「名前」が刻まれている。1名は、名前が不明となっている。それぞれ、おそらく死亡日であろう、年月日も刻まれているが、おおむね1945年4月から8月にかけて、みな亡くなっている。
どういうつもりだったのか、わたしは、その奇妙な日本兵の名前をすべて書き留めていた。それを、また8月(終戦記念日)が近づいてきた最近、ふと思い出し、探したところ、当時の出張レポートの間から出てきた。
もし、その墓碑銘が未だに正式な名前に修正されていないのであれば、おそらく未だに行方不明者扱いとなっている可能性もある。現地の日本大使館、領事館が知らないはずはないので、余計なことをするつもりはないが、この場を借りてその鎮魂の意味を込めて、戦没者18名の碑名を列挙しておきたい。
SERJENT(軍曹)
SHINATA 12.7.1945(品田?)LANCE CORPORAL(伍長、兵長?)
NAKAGAMIM ASAKHI 27.7.1945(中上? アサキ、マサキ、アサヒコ?)
YAMAMOTO YASVO 28.7.1945(山本ヤスオ?)PRIVATE(兵卒)
AONA 11.5.1945(アオタ?)
AZAMZU MASADURA 7.5.1945(アサミズマサツラ)
HAMADA 27.4.1945(浜田?)
HOSOMIKOJI 16.11.1945(ホソミコウジ?)
MASUNAGA KHIRO 11.8.1945(マツナガ? クニヒロ? ヒロ?)PRIVATE
MISHI 4.5.1945(ニシ? ミス?)
NOGNAY TEISUKOI 5.9.1945(ナガイ?)
K SANNO 24.3.1945(サノ?)
SHIMADA KASUO 4.8.1945(シマダカツオ、カズオ?)
TANAKA MITSVO 5.8.1945(田中ミツオ?)
K TSUKUMI 2.5.1945(ツクミ?)
WATANAHE 28.4 1945(ワタナベ?)
T YESHITSIGU 18.5.1945(ヨシツグ?)
S YOSHIDA 2.5.1945 (吉田)
YUWATO TEMTARO 27.7.1945 (イワト、イワタ? テンタロウ?)
あの悲惨極まりないインパール作戦のイメージをつかんでおこう。以下はおおむね、Wikipediaや個人のさまざまなブログでまとめられたインパール作戦の全容を拝借してまとめてみたものだ。みなさんのこうした作業にこころから感謝しながら、ざっとわかりやすく整理してみた。
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現地とよく似た高度、距離を、日本国内に置き換えるとわかりやすいのだ。この作戦が如何に無謀なものかイメージできる。現地軍の参謀や高級将校が全員反対したこの作戦は、たった二人の将軍たちによって強行された。
インパ-ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。その二つが目標である。第31師団は軽井沢付近から、浅間山( 2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へルートを取ったのだ。第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かった。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。つまり、並みの遠征ではない。とてつもない高地を、しかもとんでもない距離を連続縦走して踏破する登山と同じである。
軍馬12000頭、牛3万頭、象1030頭、羊・ヤギ10000頭を伴った行軍であったが、序盤の段階で悪天候と、英軍の空爆によって離散し、いきなり食料難に陥っている。その状態で、上記のルートを強行したのだ。増水した河川で家畜の多くは流された。大量の家畜を伴っていたことで、空爆の格好の標的にもなった。重火器や弾薬、糧食などの大半も家畜とともに消えうせてしまった。ジャングルと山岳の行軍は、重砲などの運搬は絶望的となり、結局15軍兵士は、小銃火器だけで作戦を遂行せざるをえない状況に追い込まれた。
兵は30kg – 60kgの重装備で熱帯雨林を突破し、日本アルプスを越え、途中稜線で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えばおよそ非現実的な行軍であったことがわかる。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)などが宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは、はるか700km彼方の仙台に相当する。
防衛する英軍が15万人に対し、攻撃側の日本軍は、総動員数92000人。うち、戦死26000人( 3万2000人説あり)。傷病兵は夥しく、行方不明者など含めると、未だに実数の損耗被害は正確にはわかっていない。
そもそもインパール作戦は、連合国軍が中国の蒋介石への物資補給の生命線(援蒋ルート)を絶つことが目的だったが、軍司令部からの補給の限界線を超える距離にあり、しかも、雨季の悪条件が重なっていた為、現地の高級参謀は口をそろえて反対していた。机上演習に参加した竹田宮恒徳王大本営参謀などは、「十五軍の考えは、徹底的というよりも、むしろ無茶苦茶な積極案だ」と批判している。
紆余曲折を経て、結局牟田口廉也十五軍司令官は、東京の大本営と話をつけて、トップダウンで現地の反対派を沈黙させ、ついに決行ということで押し切っている。15軍の3個師団は、合計で56万tの補給物資が必要なのに、補給能力は6万t弱でしかなかった。土台無理な話だったのだ。この問題の解決として、牟田口司令官が言い放ったのは「敵から奪え」であった。
ここに一人の高級将校がいる。宮崎繁三郎だ。岐阜出身の宮崎は、ノモンハン事変、インパール作戦という、日本軍が圧倒的に不利な状況だった作戦に参加している。いずれにおいても、稀有な戦功を挙げた、日本陸軍屈指の野戦指揮官として名高い。陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事変では、唯一の勝利戦指揮官とも言われている。
インパール作戦では、宮崎は陸軍少将で、三つの参加師団のうち、第31師団(「烈」師団)・歩兵団長として参戦。彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、先頭に立って部下を率い、要衝コヒマの占領を指揮した。
3月8日に開始された作戦は、ビルマの制空権を英軍に確保されている状況下、4月に雨季が始まると、年間降水量9000mm(日本の平均は1700mm)となる。連日滝のような雨が降り続ける中で、たちまち損耗していった。湿度の高さはすさまじく、数日で軍刀はすべて真っ赤に錆びた。それでも60日間に渡る山岳戦の末、第31師団はコヒマを占領したが、これが攻撃の限界線であった。コヒマは要衝のインパールとディマプールの結節点にあたっていた。
さらにそこから、ディマプールを奪取せよとの命令である。しかも、再三の補給要請に対して、総司令部は「すぐ送る」といった空電文を乱発するだけであった。戦後英軍資料によって明らかになったところによると、もし第31師団がディマプールに進出すれば、ほぼ英軍は真空状態の地帯であったため、確実に成功していただろうとされている。英防衛線は崩壊寸前だったのは事実らしい。しかし、師団はまったく一歩も進めるような状態になかったのである。傷病者はひきもきらず、食糧・弾薬も尽きていた。一部では投石による攻撃をしていたくらいである。
やがて懸念されていた雨季が始まり、豪雨が泥水となって斜面を洗い、増水した川が行く手を遮り、行軍速度はさらに低下。英軍の大規模な反撃も始まり、補給線は寸断され、栄養失調の日本兵は次々とマラリアに感染していった。前線では戦う前に餓死する兵が続出し、日本軍にとってはインパールで戦うどころか、たどり着くことさえ絶望的になったらしい。
佐藤兵団は、インドとビルマの国境地帯コヒマの防衛維持そのものが不可能になった。佐藤中将(師団長)は何度も「作戦継続困難」と撤退を、後方の司令部に進言したが、ビルマ内地の軍司令部の牟田口司令官は「気合いの問題」と拒絶し、作戦継続を厳命。自身は、司令部のそばに、日本式の料亭をつくらせ、芸妓や料理人、泌尿器系の医療関係者など150人を呼び集め、毎日5時に軍務を終えて、遊び呆けていたと言われる。熱帯雨林で苦闘する佐藤中将は、ついに5月末、日本陸軍初となる師団長クラスの命令違反、“独断撤退”を断行する。
「余は第31師団の将兵を救わんとする。余は第15軍を救わんとする。軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす」と全軍に通告。司令部に対して「善戦敢闘60日に及び、人間に許されたる最大の忍耐を経て、しかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と打電を最後に、第31師団をコヒマから補給基地ウクルルまで退却させた。そこにも弾薬・食糧が皆無だったため、さらに後退した。
牟田口司令官は激怒し、佐藤師団長を更迭。すると今度は第33師団長の柳田中将が作戦中止の進言をしたため、これも更迭。残る第15師団の山内中将(マラリアに感染し倒れていた)も更迭した。作戦参加師団の全師団長が更迭される異常事態に陥った。山内師団長の戦闘詳報(現地の記録)には「撃つに弾なく、今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、これに立ち至らしめたるものは、実に軍と牟田口の無能の為なり」と怒りが綴られている。
日本兵は英軍輸送機が投下した敵方の物資を拾って飢えを凌いでおり、この物資を拾う決死隊が組織される有様だったという。佐藤中将は軍法会議で作戦の愚かさを訴え、その無能ぶりを白日の下にさらそうとしたらしい。統帥部は、後に佐藤師団長が心神喪失したとして精神鑑定送りにした。軍法会議による死刑を覚悟の佐藤の意図は、わかりきっていたからだ。が、鑑定は正常とみなし、統帥部の目算は崩れた。そのため、不問に付し、予備役編入で事を収めるにいたった。つまり、無理やり退職させたのである。
これは佐藤中将を罰してしまうと、天皇の任命責任が問われるからだといわれるが、そんな杓子定規な話ではないだろう。それ以前に大本営の無為無策ぶりが白日のもとに明らかになり、軍内部での求心力も失い、なにより天皇から厳しく糾弾されかねなかったからにほかならない。それを恐れていたのである。官僚と化した軍人の無様な姿である。
6月5日、現地軍師団長全員が造反するという、異常事態を受け、牟田口15軍司令官は、ビルマ方面軍司令官・河辺正三中将と打開に向けて会談した。が、この無謀な作戦を押し切ってきた二人の将軍は、どちらもそれを言い出さなかったのである。いずれも、作戦中止は不可避と考えていたが、それを言い出した方が責任を負うことになると恐れ、ついに決まらずに会談は終了。
後年、牟田口は「私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことが出来なかった。私はただ“私の顔色によって”察してもらいたかった」と回想している。最高司令官の二人が二人ともこの調子である。これが、日本の軍隊という官僚組織化した成れの果ての有様といっていい。明治の陸軍では考えられないことだ。司令官がこうして作戦中止を言い出せず、手をこまねいている間にも、最前線ではどんどん兵士たちが飢餓と病で死んでいった。
さて、撤退戦のことだが、抗命事件を起こした佐藤師団長は、コヒマから満身創痍の全軍撤退を成功させる際に、宮崎繁三郎少将麾下の歩兵団に同地の死守、遅滞戦術を命令した。撤退戦の殿軍(しんがり)くらい、その手腕を問われるものはない。宮崎はこの無謀な命令に最善を尽くし、巧みなゲリラ戦により数週間にわたり持久戦を敢行した。この撤退戦における行動が、後世ずっと賞賛されることとなる。
宮崎は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲しいと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つけると、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けた。7月、総司令部は作戦の中止を正式決定した。
牟田口司令官はインド国民軍を創設した参謀の藤原岩市に自決を匂わせたが、口先だけと藤原参謀は見抜いていたという。
(牟田口)「これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人(かみごいちにん=天皇)や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵のない意見を聞きたい。」
(藤原)「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません。司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」
7月10日、牟田口司令官は撤退してきた現地軍幹部を集めて泣きながら訓示した「諸君、佐藤師団長は軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退(しざ)りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。」。
この訓示が延々と1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れたらしい。牟田口司令官は結局自決しなかった。各師団がすべて帰投するのを待たず、「北方撤退路の視察」を理由に司令部を離れてそのまま帰国している。
インパール作戦を紹介するにあたり、牟田口司令官ばかり悪者のようになってしまっているが、むしろそれ以上に、南方軍総司令官・寺内寿一元帥や大本営など、上層部が牟田口中将の暴走を止めることなく、容認し続けた罪のほうが、実は遥かに大きい。
インパール作戦後、英軍のビルマ侵攻が始まる。このとき、インパール撤退戦の殿軍を見事に指揮した宮崎繁三郎は、第54師団長に昇進していた。翌1945年4月にイラワジ河下流付近で防衛戦を展開。ところが、そこでまたとんでもない事件が起きた。突如、上級部隊であるビルマ方面軍の司令官木村兵太郎大将が司令部を放棄し逃亡したというのだ。指揮系統を失った宮崎師団は敵中に完全に孤立してしまった。殲滅される寸前で宮崎が下した判断は、重装備を放棄。ペグー山系の竹林に退避することだった。そこで7月下旬(終戦まであと半月あまり)、総員に命令を下す。分散して敵中突破するというものだった。ノモンハンといい、インパールといい、そしてこのイラワジといい、宮崎はよくよく上官に恵まれない。
宮崎の考えでは、一丸となった敵中突破では、圧倒的な火力の相違から、壊滅のリスクがあると判断したと思われるが、それでも将兵の多くが死亡、目的地のシッタン河までたどり着いたのは半数以下であった。宮崎はそこでも驚異的な指導力を発揮して、粘り強く防衛戦を展開。ジュウエジンで終戦を迎えた。
ビルマ戦役における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するが、悲惨を極めたと言われるインパール作戦における戦死者は、公称で2万6千人と18%であり、戦死者の約52%は、実はこのビルマ失陥の最終段階で発生している。日本が支援したビルマの独立政府関係者(アウンサン、ネウィンら三十人志士)、日本の駐ビルマ外交官、居留民、傷病兵、なにより、ラングーン死守のために各地で徹底抗戦していた揮下のビルマ方面軍すべてを置き去りにして、木村兵太郎大将ら軍司令部は中立国タイの国境へと逃亡したのである。これが無用の犠牲者をいたずらに増幅させたことは間違いない。
宮崎の戦後は穏やかなものだった。帰国後は戦時に関する発言は慎み、小田急線下北沢駅近くの商店街に『陶器小売店岐阜屋』を経営、店主としてささやかな生涯を終えた。今際の際、病床を訪れたかつての部下は聞いている。「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」と何度もうわ言を繰り返したそうだ。1965年没。享年73。
宮崎繁三郎に対する評価は非常に高い。間違いなく名将の一人だろう。陸士、陸大での成績は至って普通であったが、前線において大いに能力を発揮するタイプの指揮官であったらしい。きわめて限定的な兵力と権限しか与えられない戦闘が多かったが、野戦将校としての優れた指揮能力と人徳の高さは、突出していた。宮崎はどのような窮地に追い込まれても弱音を吐いたり、無茶な命令を下す上官の文句や批判を決して口にしなかったという。
インパール作戦における“日本陸軍の良心”とも呼ぶべき宮崎の行動は、同作戦を立案、指揮した牟田口廉也司令官と対極的なものとして語られる事が多い。戦後、この作戦に従軍した兵士達は、牟田口の名を口にするたび、一様に怒りに唇を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。
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いかがだっただろうか。
戦死者にとって、慰めにもならないかもしれないが、こんな話がある。当時チッタゴンの代理店の親爺に聞いた話では、コヒマなどの山岳地帯では、あちこちの村落で、未だに日本兵を称える歌が、お祭りのたびに歌われていると言っていた。どういうものか知らないが、インド人部隊(チャンドラ・ボース率いるインド国民軍6000人)も合流していたから、大英帝国の呪縛を打ち破ってくれるインド解放軍という受け止め方が、以来ずっと引き継がれているのだろう。
その山岳地域にも、やはり現地人によって築かれた日本兵の墓が、あちこちに散在しているらしい。遠い昔、そしてずっと遠い異国の密林で、おそらくは未だに遺族にそれが知られることなく、眠っている将兵も多いはずだ。一将の功もならずして、万骨が枯れたビルマ戦線の崩壊だが、アッサムの山岳地帯にこだまするその歌は、毎年祭りごとに歌い継がれていく。おそらくこの先もずっとその歌声が消えることはないのだろう。