Z旗のはためく下に

歴史・戦史

これは72回。日産自動車がカルロス・ゴーン氏を巡る一連の騒動で揺れています。日産というと、わたしは一つのことを心に浮かべます。それが、「一旒のZ旗」の逸話です。きっと、混乱する経営の下で、心ある社員たちは日夜黙々とこの旗を心に掲げているのだろうと思います。

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また一つ、昭和の時代が終わった。片山豊が105歳というまさに大往生で逝ったのは、2015年2月19日だった。片山は、経済界、自動車産業にひときわ大きな歴史の1ページを残していった。が、それ以上に戦後の日本人に与えた奇蹟の1ページでもある。

1950年代、日本車と米国車・欧州車との間には、その性能と品質において、超えがたい大きな隔たりがあった。トヨタのトヨペット・クラウンRSは、米国のフリーウェイを走れば、軒並みオーバーヒートを起こし、操縦安定性も非常に危険な車との烙印を押され、輸出を一時見合わせる事態にさえ追い込まれていたくらいだ。

同時期、日産のダットサン(現地ではダッツンと呼ぶ)は、同じくフリーウェイでは、エンジンフードのロックが外れ、風圧で開いてしまい、運転者の視界をさえぎるという事故も起こした。

トヨペットは、Toy(おもちゃ)と揶揄され、ダットサンはTinToy(ブリキのおもちゃ)と蔑まれた。

敗戦国日本は、どこまでも負け犬にすぎない。そういう敗北主義が蔓延する中で、日本の自動車産業の将来性を確信させる、画期的な製品が登場した。ダットサン210型である。110型の発展型だが、さまざまな改良を重ねられた210型は、強靭な足回りと、パンチの効いたエンジン特性は、「神風タクシー」を大量に生み出す要因となったほどだった。

勝負は、海外で見せ付ける以外にない。昭和33年1958年9月、オーストラリア・モービルガス・トライアルに、ダットサン210型が挑戦した。当時日産の宣伝課長だった片山の発案で立ち上げられたプロジェクトだ。

このときの豪州ラリーは、大陸を右回りに一周する1万6000kmの耐久トライアルで、その余りの過酷さゆえに、この年を最後に中止となった。その最後の大会で、ダットサンが1000cc以下のAクラス優勝、そして総合24位に輝いたのだ。

チームは、海軍兵学校第76期生の難波靖治ら、江田島出身が多い。中には特攻上がりもいた。「負ければ死ぬ」と言い切っていたように、その激闘ぶりは片山の期待に応えて、戦後日本人による海外ラリー初優勝という金字塔を打ち立てた。敗戦から13年。ついに、一矢報いたのだ。

片山という人物は、相当の叛骨ぶりを示す生き様を見せた。たとえば、この豪州ラリーの後、解任されて腐っていたところ、1960年に米国でのダットサン販売の機会を得た。彼は主にロサンジェルスを中心に、ディーラーに飛び込み営業を敢行。これに対し、日産本社の反対勢力は、拠点をNYにすべきだと計画を進めて分裂。片山に圧力をかけた。

ところが、北米の自動車事情に精通していた片山の前に、本社の目論見は失敗。片山は、ダットサンを、自動車の負荷が大きい西海岸、中西部を中心に、持ち前のダットサンの優位性を前面に押し出した。結果、米国に浸透させる実績を通じて、晴れて米国日産の初代社長にのし上がる。

しかし、なんといっても片山の事績で世界的な記念碑となったのは、やはり「プロジェクトZ(ズィー)」だろう。フェアレディZ(ゼット)である。ちなみに、現地ではフェアレディという名称は不似合いなため、「240 Z(トゥー・フォーティ・ズィー)と呼ばれた。

この240Zは、自動車大国アメリカで、最も売れたスポーツカーとなった。フォードでも、クライスラーでもないのだ。フォードのマスタングもサンダーバードも、GMのコルベット・スティングレーも、すべてなぎ倒す大ヒットとなった。

Zのルーツを辿れば、1954年の第一回全日本自動車ショーで登場した、日本初のスポーティ・コンセプト・カー「ダットサン・スポーツDC3」に帰着する。たった50台の少量生産であったし、商業的には成功しなかった。が、日本において最初のモーターショーを始めた片山の肝いりで、スポーツカーという概念を大衆にアピールした初めてのことだった。

「プロジェクトZ」誕生には、もう一人キーパースンがいる。当時、日産社内はスポーツカーの開発にほとんど懐疑的だったが、にもかかわらず、会社からの理解も、生産計画すらも無い中で、ひたすら理想のスポーツカーをデザインし続けていた第四デザイン・スタジオのチーフ、松雄良彦だ。

片山は、自分のスポーツカーへの夢を、松尾に託した。この二人の出会いから、日本のスポーツカーの歴史は、ついに運命の歯車が動き出していく。片山の注文は、「ジャガーE-typeのような車をつくってくれ」ということだった。

まったく逆風の社内にあって、悪戦苦闘している松尾を、片山は遠くアメリカから激励した。ある日、松尾のチームに小包が届いた。「頑張れ!」と一言だけ書かれたその小包には、Z旗(ゼットき)が入っていた。

Z旗は、かつて日露戦争の折、東郷艦隊が、バルチック艦隊との決戦を前にして「皇国ノ興廃コノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」という突撃命令と共に掲げられた、栄光の信号旗だ。四つの配色のその旗は、デザインがZに似ていることからZ旗と呼ばれた。Zとは、言うまでもなく、アルファベットの最後の文字。「もはや後が無い」という意味だ。

「プロジェクトZ」は、日産の中の「叛乱分子」たちの手で最強兵器へと育てられていった。設計は、第三車両設計課が、自ら名乗りをあげた。そこは、屎尿(しにょう)運搬車輌(バキュームカー)や警察車輌など、特装車輌専門の部署だった。地味だが、一切の失敗も妥協も許されない世界で鍛えられた一流の男たちばかりだ。

信頼性が高く流通量の多い他車からパーツを流用してコストを下げ、憧れのスポーツカーを庶民にも手が届くように工夫した。日本車離れした、低いデザインを守る為、限界までトライした。

生産を請け負ったのは日産の子会社である日産車体の宮手だった。既存車種のバン・トラック生産を専門とする、これまた地味なポジションだったが技術と自信はあった。子会社だけに、待望のスポーツカーをなんとしてでもモノにしたいという執念があった。

結果、240Zは発売と同時に人気沸騰。日本より4ヶ月遅れて発売されたアメリカでは大量のバックオーダーを抱え、納車まで5ヶ月も待たされる程の爆発的販売となり、一部ディーラーではプレミア価格がついた程だった。その後240Zは、バリエーションを増やし、生産終了までの9年間で54万台を売るという、スポーツカーとして世界最高の販売台数を記録した。

戦いの場でもZは強かった。ロードアイランドを始めとする各種チャンピオンシップでは、連覇を記録。当時まだスポーツカーの世界ではまったくの無名だった『ダッツン』と言う会社のクルマが、ファクトリーサポートまで受けたポルシェを一度ならず二度、三度と打ち破ったのだ。

日本人が戦後、初めて世界を相手に「復讐戦」を勝利で飾った大金星が、この「プロジェクトZ」だった。日産は、片山の死に際し、Z旗の半旗を掲げたのだろうか。そして今、第二の敗戦といわれたデフレの20年間を経て、片山たちのチームが残していった奇蹟を振り返るにつけ、わたしたちはその心にZ旗を掲げているだろうかと、そういう思いが尽きない。



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