一騎打ち

歴史・戦史

これは279回目。古来、この一騎打ちというのは、実にドラマティックなイメージがつきまといます。一つの戦闘形態ですが、決闘の意味合いが強いです。すぐに頭に浮かぶのは、第四次川中島合戦(永禄四年、1561年10月28日)での、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちです。もっとも、この戦いは予期せぬ偶発的な遭遇戦だったのではないか、と近年の研究では言われているようです。『甲陽軍艦』に書かれているような虚々実々の一連の駆け引きは、ほぼ創作であるということです。上の写真は、武田軍が「追い詰められた」八幡原の川縁です。今は記念公園になっているようです。

:::

地元のある研究者のフィールドワークによると(以下はその仮説)、どうやら謙信は善光寺街道を一路南下し、武田支配がすすむ川中島南部に侵攻。横田砦を奪取して「くさび」を打ち込もうとした。川中島北東部には、武田勢が海津城を確保しており、南部から東部一帯は完全に武田支配に落ちていた。これを突き崩そうとしたのだ。

一方、信玄は同じく善光寺街道を一路北上し、上杉支配下の善光寺一帯に橋頭堡を確保すべく、犀川を越えようとした。すでに川中島北東部の海津城を押さえていた信玄は、ここに別動隊を終結させていた。善光寺一帯(川中島北西部)を押さえれば、川中島全域を掌握したのも同然になる。

先に動いたのは謙信だった。信玄は驚異的な情報システムによって、その動きをわずか2時間後には甲府でキャッチ(越後国境から甲府まで160キロメートル)。ただちに動いた。謙信が最初から全軍を率いてきたのに対し、信玄は直接指揮下の本隊だけで出陣。全軍の3分の1だった。残りの別働隊( 3分の2)は、川中島東の海津城(現松代城)に集結中だった。戦国時代を高校野球に例えれば、この第四次川中島合戦は、甲信越・駿・上州の覇権を巡る地区予選大会の決勝戦だったといってもいい。

ところが期せずして、早朝6時、視界20メートルという濃霧の中で、両軍はものの見事に鉢合わせをしてしまった。信玄は、圧倒的に数で劣勢だったから応戦しつつも、善光寺街道から東南へ東南へと移動。海津城の別働隊との合流を急いだ。別働隊のほうでも、馬のいななきや合戦の雄たけびなどから、戦闘の勃発を察知。戦場に急行しようとしたが、濃霧の中で到着が遅れてしまう。本隊だけで防戦一方だった信玄は、前半惨憺たる敗北を喫することになる。

どこが最前線かもわからない状況下、総崩れを恐れた信玄は周囲に温存していた旗本衆(親衛隊)を繰り出そうとした。阿吽(あうん)の呼吸でそれに気づいた弟・信繁は、百足衆(むかでしゅう)と呼ばれる伝令を信玄に送り、「援兵には及ばず。旗本は最後の最後まで出すな」と押し留めた。乱戦の中で、信繁ほか名だたる武田の武将クラスは盾となって討ち死に。信玄本陣にさえ越兵の切り込みが多発するくらい、ほぼ絶望的な状況になった。甲軍は、犀川が背後に迫る八幡原に追い詰められており、あと一息で、謙信は敵将の首を挙げる寸前だったといっていい。

が、10時過ぎ。ついに甲軍の別働隊が到着。期せずして謙信軍を側面から突き崩すことになる。その後は、一気に形勢逆転。早朝からの激闘で、疲労困憊の極にあった越軍に動揺が走った。謙信は全軍に、各位独断専行で戦場を離脱・撤退することを命令。越軍の算を乱した潰走が始まった。あとは、甲軍の執拗な追撃戦となった。凄惨を極めた残敵掃討戦はその後3日続いた。

戦いが終わったあとは悲惨そのものだった。濃霧の中、両軍とも当たるが幸いとばかりに槍を突きまくったのだ。阿鼻叫喚の状況だっただけに、双方、万単位の軍団による動員兵力の7割前後を損耗するという、戦国最悪の殲滅(せんめつ)戦になってしまった。完全に乱戦だったといっていい。

おそらく、味方の同士討ちもあったに違いない。当時、強兵で知られた両軍が、目隠しをしたまま衝突したようなものだからたまらない。戦術も奇策もあったものではない。もしかしたら、敵味方が入り乱れ、指揮系統もほぼ崩壊したバトルロイヤル状態の中で、謙信が信玄に切りつけた、ということもあり得たかもしれない。

が、信頼できる記録では、謙信の家臣の一人が信玄に切りつけたということだ。信玄がそれで肩に負傷しているのも事実である。どうやら、両雄の手に汗握る一騎打ちは幻だったようだ。ただ、そういうドラマティックなシーンがあって欲しいという思いが、謙信vs信玄の「一騎打ち伝説」を生んだのだろう。

一騎打ちは、勝者がいる一方で敗者も存在する。勝負は命が懸かっているだけに、どうしても後味の悪いものとなるが、近年の組織的な戦争ではこうした一騎打ちというものは、まず見られない。



歴史・戦史