外人部隊

歴史・戦史

これは278回目。覚えておられるでしょうか。以前、イスラム国への参加を考えていた26歳の北海道大学生が、警視庁公安部に私戦予備・陰謀罪容疑で任意の事情聴取を受けた事件が、大きく報じられました。

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当初、このニュースは「日本からイスラム国に、イスラム過激思想の若者を兵士として送り込むルートがあった」という衝撃的なイメージで報じられたが、どうもそういう話ではなかったようだ。

当人の動機が、就活に失敗して将来への展望を見失い、違う世界に行けば何かが変わるかもしれないと期待してのことだったのだ。さらに仲介者とされた元大学教授のイスラム法学者も、べつに募集していたわけではなく、単に相談を受けて助言・斡旋していた程度だったことが明らかになった

事件の構図としては、国際テロ事件というような大仰な話でもないことが徐々に判明したわけだ。

この北大生とともに千葉県在住の23歳のコンビニ・アルバイト店員も一時、イスラム国参加を希望していたが、彼の動機も似たようなレベルであり、いわゆるイスラム過激思想とは無縁の話だったという。

その動機は人それぞれだろうが、いつの時代でも若者の中には、いわゆる「自分探し」や探究心、冒険心、政治的信念、あるいはある種の義侠心などから、海外で義勇兵として戦いたいと行動するものはいたのだ。

例えば、シリアでは反政府軍の1つである「ムハンマド軍」(イスラム国ではない)に、元自衛官の鵜沢佳史氏が参加している。シリア独裁政権に抵抗する反政府軍に強いシンパシーを持ったというのが動機のようだ。もちろん元自衛官であるから、「戦いたかった」という動機がまず先にあったのだろうが。

彼らは、綺麗な表現を使えば義勇兵であり、いささか批判的な表現で言えば傭兵と変わらないということになる。

この義勇兵とも傭兵ともいえるものを、国家が組織的に募集し運用しているのは、なんといってもフランス外人部隊である。2005年にイラクで殺害された斎藤昭彦氏は、当時はイギリスの民間軍事会社「ハートセキュリティ」社と契約していたが、もともとはフランス外人部隊に長くいた人物だ。

フランス外人部隊は、外国人が入隊できるフランス正規軍として大変有名だが、180年の歴史があり、延べ60万人が軍務についた。指揮官や将校はフランス人が多いが、ほとんどは非フランス国籍である。

(フランス外人部隊兵士)

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フランス語ができなくてもよい。中学高校程度の学力で構わない。国籍や宗教も問わない。かつては犯罪履歴があってもまったく問題なかったが、現在はこの点は厳重に審査対象となっているようだ。

日本人でも、思った以上に多くの若者がフランス外人部隊に応募しては、どんどん辞めていくことが後を絶たず、現在は日本語版の募集サイトは閉じられているようだ。残っている日本人兵士たちにしてみると、非常に迷惑な「ナメた理由」が多いそうだ。

(東洋系のフランス外人部隊兵士)

外人

仮面ライダーか、映画のヒーローになりたい、というような程度のもともとの入隊動機だったり、あるいはそれこそ先の北大生のように、就活に失敗したので、外国企業にでも就職するようなつもりのものも多いそうだ。

あるいは、入隊してもかなり長いこと、それこそ草むしりほか雑用ばかりをさせられて、なかなか実戦配備にならないことに不満を訴えて辞めていくというケースも多々あるようだが、それは何でも同じことだろう。最初の雑用すら満足に務まらないものに、世界でも有数の精鋭部隊と呼ばれる外人部隊の兵士などつとまるわけもない。

ちなみに、フランス外人部隊の給与だが、最初は年収500万円くらいだが、ベテランになってくると1000万円にもなるようだ。おそらく、40代から50代の将官クラスだろう。平均では750万円という。

これはかなり傭兵の給与としては、高いほうだろう。英国にも強兵で知られるネパールなどヒマラヤ出身者で構成された「グルカ兵」があるが、平均660万円だそうだ。スペインの外人部隊では、平均550万円。また、歴史的にフランスより長い傭兵部隊を持っているスイス傭兵は、平均580万円という。

現在フランス外人部隊は総勢8000人超だが、フランスの正規軍の中でも群を抜いた精鋭部隊として知られる。

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もともと欧州では、先述のスイス傭兵部隊で知られるように、各国で傭兵をよく使っていた。が、ナポレオン戦争を経て、徴兵による国民軍が圧倒的な強さを示したために衰退した経緯がある。

ところが、皮肉なことにフランスではこのナポレオン戦争で青壮男子の人口が激減し(あまりにも戦死が多かったため)、再び活用の道が開けた。とくに1830年代の、フランスによるアルジェリア征服戦争で、多数のフランス人兵士が死傷することに国民の非難が殺到。政府は、外国人によって構成されたフランス正規軍の創設に踏み切る。1831年である。

以来、フランス外人部隊は常に「汚い戦争」に駆り出される。このフランス外人部隊の名を、世界に知らしめたのは、カマロンの戦いだった。

ナポレオン三世が行ったメキシコ遠征である。1861年、おりしもアメリカでは南北戦争が始まっていた。さまざまな要因はあるが、ナポレオン三世はメキシコに出兵、これを征服して、帝政を敷いた。アメリカが内戦状態にあったので、手一杯であるその間隙を突いたのである。

カマロンの戦いは、メキシコに出兵していたフランス軍が、プエブラでメキシコ軍と交戦。このフランス軍に現金300万フランを含む膨大な物資補給がなされた。その護衛に当たったフランス外人部隊と、阻もうとしたメキシコ軍との戦いである。

外人部隊を率いていたのは、生え抜きのフランス外人部隊将校ジャン・ダンジューである。

(ジャン・ダンジュー)

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ダンジューは、サン・シール陸軍士官学校を卒業し少尉に任官、フランス外人部隊の第2歩兵連隊士官としてアルジェリアに赴任した経緯がある。

このアルジェリアで、戦闘中に左手を失う重傷を負い、このときから義手を使用するようになった。

その後、ダンジューはクリミア戦争に従軍、ロシア軍相手に名高いセヴァストポリの戦いに参加している。さらに、第二次イタリア独立戦争に従軍し、ソルフェリーノの戦いに参加している。

セヴァストポリにしろ、ソルフェリーノにしろ、19世紀に欧州で行われた最も苛烈な激戦に参加して生き延びたのであるから、相当の猛者であることは間違いない。しかも左は義手である。

カマロンの戦いのときには、ダンジューの所属する第2外人歩兵連隊は、第二帝政(ナポレオン三世)の指令を受け、メキシコ出兵に出動していた。主な任務は、兵站線の確保であった。

1863年4月29日、輸送部隊がプエブラに向けて出発するとの連絡を受けた連隊長は、部下のダンジュー大尉と相談し、第3中隊にこの護衛の任務を割り当てた。ところが、このとき偶然、第3中隊の士官が不在であったため、ダンジュー大尉自身が隊長となって、マウデ少尉とヴィラン少尉の2名の士官、および62名のレジョネア(フランス外人部隊の一般兵士。すべて外国人)からなる部隊を編成し、出発している。この偶然が、ダンジューとフランス外人部隊を、世界の戦史上にその名を轟かせるとともに、ほぼ全滅するという悲劇を引き起こす。

4月30日午前1時、ダンジュー大尉が護衛する輸送部隊が出発。午前7時、これと合流しようとしていたダンジュー部隊は、パロ・ベルデで大休止を取っていた最中、輸送部隊の阻止をするべく急進してきていた、メキシコ軍と遭遇。

(カマロンの戦い)

外人9

メキシコ軍はミラン大佐のもと、800名の騎兵と、1200名の歩兵で構成されていた。ダンジューの部隊(といっても、わずか士官3名、兵士62名という中隊規模である)は、敵に先手を取られた格好になり、退却を重ね、カマロン・デ・テヘーダまで退却。高さ3mほどの壁がめぐらされた民家を陣地として、メキシコ軍の足止めを試みた。まだメキシコ軍は、フランス輸送部隊の位置を捕捉していなかった。

(民家に立てこもる外人部隊)

外人4

外人部隊は、メキシコ軍によって完全に包囲され、さらにメキシコ軍には増援部隊も到着した。ミラン大佐はダンジュー大尉に、降伏勧告をしたが、ダンジュー大尉はこれを拒否。

「我々にはまだ銃弾がある。みな死ぬだろう。しかし、降伏はしない。」

ダンジュー大尉は、メキシコ軍に通過中の輸送部隊を襲わせないように、自軍に引き付けようとしたのである。

午前10時、メキシコ軍は総攻撃に入った。絶望的な状況で、フランス外人部隊は史上に残る壮絶な戦いを敢行。正午ごろ、ダンジュー大尉は胸部に銃弾が命中し、戦死。

(最後の5人)

外人5

午後2時ごろ、ヴィラン少尉が戦死。この段階で、メキシコ軍は、外人部隊が立てこもる民家への放火に成功し、外人部隊は防衛拠点を失った。

午後5時、外人部隊はマウデ少尉以下わずか12名に減っていた。この直後のメキシコ軍の攻撃では、銃剣による近接戦闘に発展。6時には、外人部隊で戦闘可能なものは、マウデ少尉以下、わずか5名となっていた。

ここで再びメキシコ軍から降伏勧告が行われたがこれも拒否。直後に、マウデ少尉と2名のレジョネアが戦死。間をおかず、さらに2名のレジョネアが戦死。最後に残った唯一のレジョネアは、その戦闘経緯を後世に語り継ぐために、交渉の結果降伏に応じた。あくまで武装解除をしないことが条件だった。

(最後の1人)

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このカマロンの戦いは、2000名に及ぶメキシコ軍を、わずか65名で11時間にわたってくぎ付けにしたことで、歴史に一際勇名を馳せることになった。このため、フランス軍は部隊の全滅を引き換えに、補給物資をプエブラに無事届けることができた。

(カマロン戦碑)

外人8

▼ダンジュー大尉の義手は、メキシコ兵によって持ち去られたが、後オーストリア軍人によって取り戻され、現在オーバニュにあるフランス外人部隊の本部に保管されている。毎年4月30日は、カメロン記念日(フランス語では、カマロンではなくカメロン)として、この義手が一般に公開されている。

(ダンジュー大尉の義手)

外人7

メキシコ軍は、このときフランス外人部隊を評して「あいつらは人間じゃない。化け物だ。」としたが、この自己犠牲的な任務遂行を貫徹したダンジュー以下65名は、フランス外人部隊のあるべき姿を見せたとして、伝説になった。フランス国民軍で、これだけの戦いをしてのけた部隊は、ほかにない。



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