それは、海だけが知っていた
これは280回目。英国海軍軍人が、生涯に渡って感謝の念を抱き、尊敬してやまなかった日本の軍人がいました。
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2007年12月7日、8日の両日、元英国海軍士官サミュエル・フォールが来日した。フォールは、旧帝国海軍の駆逐艦「雷(いかずち)」の故工藤俊作艦長を偲ぶ墓前祭と顕彰式に出席するために来日したのだ。工藤俊作は185cm、89kgという大男であった。人柄から「大仏」と呼ばれていた男だ。
(工藤俊作)
ことの発端は、遡ること第二次大戦。開戦翌年である。1942年昭和17年3月1日、インドネシアジャワ島近海のスラバヤ沖海戦だ。
それは、イギリス・オランダ・アメリカ・オーストラリアの連合国艦隊と日本国艦隊が激突した海戦である。 2月27日から3月1日までに、計5回の戦闘が繰り広げられたが、兵力はほぼ互角ながら連合国艦隊は8隻を失って退却、日本側は駆逐艦1隻を損傷したのみで圧倒的勝利を収めた。工藤艦長の指揮する「雷」は、2隻撃沈するという戦功を立てている。
このとき、英重巡洋艦エクゼターと、駆逐艦エンカウンターも撃沈されており、英兵422人が投げ出され、漂流した。フォールはその中にいた。幸い、海水温は暖かったが、熱帯の海における漂流である。24時間経過し、およそ体力の限界に到達していた。
(サミュエル・フォール)
フォールたちは、そこで一つの船影を確認。最後の力をふりしぼって救援を求めた。近くのボルネオ島には、オランダ海軍基地もある。英蘭いずれかの艦艇に違いない、と信じた。
しかし、それと気づいて接近してきたその船は、彼らの失望を買った。英蘭海軍艦艇ではなく、日本海軍の「雷」だったのだ。フォールたちは、艦上からの機銃掃射で皆殺しになると覚悟をきめた。
一方「雷」では、工藤艦長が戦闘用意を命じていた。とくに「警戒を厳となせ」を付していた。2ヶ月前には、雷自体が潜水艦による2発の魚雷攻撃を受けていた。
また直近では、日本の病院船が魚雷によって撃沈され、150名の死者も出している。
戦争に情けは無用である。工藤が言った。
「この海域は油断ならん。」
「雷」の乗組員たちは、当然2日前に戦った英海軍将兵を射殺するのだと思い、攻撃態勢を取っていた。ところが、工藤艦長の次の命令は、「現在、救助活動中」という国際信号旗を挙げることだった。「一番砲を残して、総員救助に当たれ。」
副官は反対した。「捕虜は、我が艦の乗組員220名よりはるかに多くなります。」工藤艦長の答えは簡潔だった。「戦いが終われば、敵も味方もない。全員救助せよ。武士道とはそういうものだ。」
当然、艦内ではかなりこの命令に対する批判が出たらしい。『艦長は一体、なにを考えているんだ。戦闘海域だぞ。』なにしろ、救助中に魚雷攻撃を受けたらひとたまりもない。
しかし、そこは、工藤艦長の日頃の人徳のなせるわざだったようだ。この人物の逸話として有名なのは、海軍(陸軍もそうだが)内で習慣となっていた「鉄拳制裁」の禁止を命じていた人物である。生存者の話では、「雷」艦内は、旧帝国海軍とは思えないほど、「アットホーム」な雰囲気に満ちていたという。
救助活動は、縄や竹竿なを使って行われたが、それではとても間に合わぬため、日本兵が次々と海に飛び込み、およそ泳ぐ体力などなくなっていた英兵を全員救助した。
(救助される英国海軍将兵)
この思わぬ日本側の対応に、英兵たちは驚いた。彼らは、真水で体を洗わされ、衣類も提供された。
(「雷」艦上に収容された英国海軍将兵)
落ち着いたところで、工藤艦長は捕虜を甲板上で注目喚起した。捕虜422名なので、「雷」の甲板はほとんど捕虜で埋め尽くされた。
「諸君たちは勇敢に戦った。今や諸君は、日本帝国海軍の名誉あるゲストである。」と英語で述べた。そして、ディナーを振る舞い、翌日、ボルネオ島で、オランダ病院船に全員引き渡したのである。
フォールたち、英兵は感激をしたようだ。そもそも英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、「たとえ友軍であっても、義務ではない」とされていたからだ。
しかも、敵兵である自分たちを、戦域での危険を顧みず救助し、衣食を与え、病院船に引き渡したのだから、その感激も想像するにあまりある。
その後、長い長い年月が流れた。フォールは、「マイ・ラッキー・ライフ(わたしの幸運な人生)」という本を出版。冒頭に、「本書を、わたしの人生に運を与えてくれた家族、そしてわたしを救ってくれた大日本帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げる」としている。彼は戦後は、外交官となった。
フォールは、自分が死ぬ前に、どうしても一言お礼を言いたかったという。一日として工藤のことを忘れたことはない、と述べている。
引退後、フォールは工藤艦長を探す旅に出た。そして平成20年12月7日、89歳の高齢になっていたフォールは、墓所のある埼玉県川口市の薬師寺で、墓前祭に参加することができた。翌8日には、赤坂プリンスホテルで、英国大使・外務大臣参列の下で、顕彰記念式典が行われた。
英国海軍からは、駐在武官が参列、海上自衛隊からは海上幕僚長、四代目「雷」艦長が参列している。
当の工藤俊作は、救出劇の後、別の艦に艦長として移っていった。後に、1944年、彼の古巣であった「雷」は撃沈されている。工藤が育てたすべての乗組員が、戦死している。工藤の回想では、「雷」沈没当日の夜、夢を見たそうだ。当時の部下たちが、「艦長! 艦長!」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まってきては、静かに消えていったというものだ。工藤は、はっと飛び起きて、「雷」に異変が起きたことを、察知したという。
「雷」が船団護衛中に、グアム島の西で米潜水艦の雷撃を受け沈没、乗員全員が戦死したのは、1944年・昭和19年、4月13日。工藤艦長は1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となり、そのまま終戦を迎えた。
工藤は、それ以外、一切戦時の話をせずに死んでいったらしい。このスラバヤ沖の救出劇のことも、遺族はフォールから初めて聞かされている。寡黙なまま毎朝、亡き部下たちの供養をする以外、一切、戦争について語ることはしなかった。戦友たちともまったく連絡を取らなくなったという。工藤は、1979年・昭和54年、病没。子孫も無く、工藤家は絶えた。
日英関係というのは、おおむね良好だが、第二次大戦中のことに関しては、旧英兵の間では大きなわだかまりが未だにある。日本軍の捕虜となった英軍将兵の一部が、その処遇を恨み、今でも反日運動を展開している。
鳩山氏、管氏といった民主党政権時代の首相と同じくらい、どうしようもない首相に、細川護煕氏という人物がいる。第二次大戦で、これまたどうしようもない首相だった近衛文麿の一族だから、血は争えないのかもしれない。
国際法上、サンフランシスコ講和条約成立をもって、解決済みの問題であるのにもかかわらず、1993年・平成5年に細川首相が英軍人元捕虜に謝罪し、「在英の日本企業に賠償させる」と発言。以来、この問題が泥沼化した経緯がある。
1998年・平成10年4月、天皇在位中だった現上皇が翌月にイギリスを訪問されることが発表された時にも、そういった元捕虜たちが戦争責任を陛下にまで転嫁し、訪英を阻止しようとしたこともあった。
このとき、サミュエル・フォールは「ザ・タイムズ」1998年4月29日号に論考を掲載し、工藤艦長の行為を紹介しながら、「友軍以上の厚遇を受けた」と記述。日本との和解を主張した。この行為自体が、反天皇・反日の世論が巻き起こる当時の英国世論の中では、大変勇気を要するものだった、この論考が英人読者に感銘を与え、以後、元捕虜たちの活動は一気にトーンダウンしたという事実がある。
工藤は、1979年に胃癌で亡くなっている。フォール元英海軍中尉も、2014年に亡くなった。誰も知らない偉業が、おそらく数え切れないほど太平洋には眠っている。誰も知らないおびただしい偉業が。それは海だけが知っているだ。