ヴェノナ文書~無かったことにしたい真実、その2

歴史・戦史

これは248回目。「ヴェノナ文書~無かったことにしたい真実」の後半です。コミンテルン(国際共産主義工作組織)のスパイたちが、日米の世論操作は言うまでもなく、政権内部奥深くまで入り込み、どれだけ国策を壟断してきたか、恐ろしい限りです。ソ連崩壊後、この組織は消滅したかに見えますが、ロシアの、そして中国の意を汲んだ工作組織に分派・継承されていったのでしょう。おそらく今も、彼らは日米の政策の破綻を謀り、ロシアや中国の意に沿う活動を続けていることでしょう。

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右翼や戦争拡大派の仮面をかぶり、さも愛国者であるかのような偽装をしたコミンテルンの策動により、戦前の日本国内世論は猛然と「支那撃つべし」に沸き立った。

そもそも不拡大方針であったはずの近衛内閣は、驚くべきことに「蒋介石政府を相手にせず」という声明を発表した。石原莞爾(いしはら かんじ)など陸軍内部における中国との和平派の試みを、ことごとく打ち砕いていったのである。

近衛は自分が行なったこと(中国や米国との全面戦争に日本を導いたこと)、知らず知らずのうちに「乗せられていたこと」に気づいたときには、すでに遅かった。

終戦直前、1945年(昭和20年)2月14日、昭和天皇宛に出した「近衛上奏文」には、尾崎など自分が重用した優秀なブレーンたち(そろいもそろって愛国的で、対中国主戦派とされていた)が、ことごとく共産主義者であったことに、あまりの驚きと慙愧(ざんき)の念に耐えない、という心情を吐露し、懺悔・陳謝している。

そればかりか近衛は、すでに政府、官僚、軍部の内部に相当数の共産主義者が潜伏しており、国策を日本破滅→共産主義化への策謀が進んでいるということに、重大な警告を発した。終戦直後、近衛は敗戦という結末の発端となった自分のすべての政策責任に耐えられなかったのであろう、服毒自殺している。

実際、終戦間際の陸軍参謀部の中には、あろうことかソ連に対中・対米講和の仲介工作を持ちかける動きが実際にあったし、戦後の日本社会は共産主義をモデルとすべきだと、公言した参謀すら本当に存在したのだ。

終戦内閣首相・鈴木貫太郎(すずき かんたろう)の秘書官を務めた松谷誠(まつたに まこと)陸軍大佐が、昭和20年4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』では、「戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる。戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだ」としている。

同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝(たねむら さこう)大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、

「①米国ではなく、ソ連主導で戦争終結。

②領土を可能な限りソ連に与え、日本を包囲させる。

③ソ連、中共と同盟を結ぶ。」となっている。

軍部の上層部にソ連の工作が浸透していた目を疑うような驚くべき事実が、ぼろぼろと出てきているのだ。戦争末期、混乱と危機感の中で、彼らはとうとうその本性を現し始めていたわけだ。

さて、ここで再び、開戦時の米国に再び戻ろう。ヴェノナ文書の暴露によると、ルーズべルト大統領は1941年(昭和16年)3月、ラフリン・カリー大統領補佐官を蒋介石政権に派遣し、本格的な対中軍事援助について協議。そして翌4月、カリー大統領補佐官は、蒋介石政権と連携し、日本本土を約500の戦闘機や爆撃機で空爆する計画を立案。JB355と呼ばれる、この日本空爆計画に対してルーズべルト大統領は7月23日に承認のサインをしている。

日本が真珠湾攻撃をする9ヶ月前に、ルーズベルト大統領は対中軍事援助に動き出し、4ヶ月以上も前に、日本爆撃を認可していたことになる。戦争に向けて、明確なアクションを取ったのは日本ではなく、アメリカだったことが明らかにされている。

日本の最高指導部が、「帝国国策遂行要領」を御前会議で決定したのは、11月5日である。それでもまだ「要領」によって、11月一杯までは、対米交渉の努力をすることが義務づけられていた。

真珠湾に向けて出撃する連合艦隊が択捉島の単冠湾に終結したのは、11月18日である。ぎりぎりまで、日本の戦争指導部は、戦争回避の道を閉ざしていない。元来主戦派の東條首相ですら、そうであった。真珠湾攻撃が「だまし討ち」ではないことが、これで明らかになったと言ってもよい。

エドワード・ミラー著『日本経済を殲滅せよ』によれば、同年7月26日、財務省通貨調査局長のハリー・デクスター・ホワイトの提案で在米日本資産は凍結された。日本の金融資産は無価値となり、日本は実質的に「破産」に追い込まれたのだ。

それだけではない。ホワイトは財務省官僚でありながら、同年11月、日米交渉に際して事実上の対日最後通告となった『ハル・ノート』原案(満州事変前の状態に戻れという内容。一切の譲歩なし)を作成し、東條内閣を対米戦争へと追い込んだ。

考えてみてほしい。ハル国務長官の所管である外交判断に、それも戦争を挑発する内容の重大通告書を、なぜ部門違いの財務省の、たかが局長が作成できたのか。しかも、ハル当人でさえ、この原案を読んで、顔色を失ったくらいだ。

ヴェノナ文書によれば、これら反日政策を推進したカリー大統領補佐官もホワイト財務省通貨調査局長も、ソ連・コミンテルンのスパイであった。

かくして1941年(昭和16年)12月、日米戦争が勃発した。真珠湾攻撃の翌日の12月9日、中国共産党は日米戦争の勃発によって「太平洋反日統一戦戦線が完成した」との声明を出している。アメリカを使って日本を叩き潰すというソ連・コミンテルンの戦略は、21年後に現実のものとなったわけだ。

以上のように、近年、ヴェノナ文書やコミンテルンの公式文書、日本外務省の機密文書などが公開されるようになって、コミンテルンと中国共産党、「ソ連のスパイ」たちを重用したルーズベルト政権が戦前・戦中、そして戦後、何をしたのかが徐々に明らかになりつつある。戦争に突入していった日本外交だが、実は政府や軍人たちの多くは、不拡大方針だったのである。

満州事変の張本人である石原莞爾関東軍参謀が、「対支那では即時講和し、満州に引っ込む。対米開戦必至などという妄言は捨ておけ。勘違いするな。敵はソ連だ」と軍内部で声高に訴えていた。あの石原の声でさえ、かき消されてしまい、日本は意図せざる泥沼の戦争へと引きずり込まれていったのである。

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして(これも、若き日の中国共産党元国家主席・劉少奇による謀略であることは、本人が生前自慢していたくらいだ)、泥沼の日中戦争が始まった。現地軍は松井特務機関長の奔走で停戦協定を締結し、戦争不拡大を確認したにもかかわらず、近衛は11日、朝日新聞などの報道陣、政党代表、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の首脳を招いて「北支派兵声明」を発表し、現地軍の停戦努力を台なしにしてしまった。

同じ11日に石原は、近衛に日中首脳の直接会談を提案した。泥沼化する日中戦争を直ちに止めるためには、日中首脳による一挙打開しかない、と判断したためだ。

しかし、この石原提案に広田弘毅外相は熱意を示さなかった。近衛は南京行きを最終的には決意して、飛行機まで手配した。だが、直前になって心変わりをして、蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激昂し、「この危機に優柔不断とは。日本を滅ぼす者は近衛である」と公言して憚(はばか)らなかった。

石原はこの後、戦争拡大の勢いの中で「不拡大」に固執し、そのために失脚する。それでも石原はあきらめなかった。太平洋戦争開始以降、最終的には戦争の即時停止のため、東條首相暗殺まで計画するが、決行当日、東條内閣総辞職で不発に終わっている。

日本は、この石原の例を見ても分かるように、まともな見識を持った軍人はいくらでも存在した(満州事変の張本人の石原でさえ、こうしたごく正論を主張していた)。しかし、それにもかかわらず、不思議なことにそれこそ坂道を転がり落ちるように、全面戦争へと突入していったのだ。あの異様な流れの謎は、ヴェノナ文書を読めば、かなり理解することができる。

なぜブッシュ大統領が、ヤルタ協定を「史上最大の過ちの一つ」と非難したことで、戦後の国際秩序の基本原則を揺るがすことになるのか。ヤルタ協定では国際連合を新設し、戦勝国(米英仏ソ中)主導で国際秩序を維持する、日独に対しては「侵略国家」として戦争責任を追及するとともに軍事力を剥奪し徹底的に封じ込める、という基本原則が確認されたからである。

GHQが憲法九条を強制したのも、東京裁判を実施して「侵略国家」というレッテルを貼ったのも、ヤルタ会談で確認された基本原則に基づいている。南京虐殺のような捏造も、すべて国際コミンテルンにしてやられた冤罪の可能性が高い。

戦後、まともな研究者たちの間では、なぜ第二次大戦の救世主であったはずのアメリカが、あの戦争によってすべてを失い(欧州東半分、中国全土、満州、朝鮮半島北半分、樺太、千島列島)、共産主義国家との泥沼の戦争を継続しなければならなかったのか。なぜ、戦勝国アメリカが、実質的には戦争に負けたのと同じ結果に陥ってしまったのか。なぜ、最終的な勝利者は、スターリンと中国共産党になってしまったのか。これらについては、長年疑問とされてきた。

ソ連政府承認、対日挑発、ヤルタ協定における過剰なほどソ連に有益な秘密協定、こうしたあまりにも不可解なルーズべルト政権の政策判断の謎に、明確な答え、種明かしを与えたのが、ヴェノナ文書だったわけだ。それは先述の、近衛内閣の、あまりにも異常なほど戦争に傾斜していった流れにも同じことが言える。

かくして後に、政治学者たちから「ヤルタ体制」と呼ばれるようになった戦後の国際秩序の出発点を、こともあろうに当事国であったアメリカのブッシュ大統領が正面から批判したのである。現職の大統領が自国の大統領が行なった外交政策を公式に非難するのは極めて異例で、国際社会でも少なからぬ反響を巻き起こした。

これに対してロシアのプーチン大統領は、2005年5月7日付仏紙フィガロで、ヤルタ協定について次のように評価し、ブッシュ大統領に対して正面から反論している。「米英ソの三首脳がナチズム復活を阻止し、世界を破局から防ぐ国際体制を目指して合意した。その目的に沿って国連も形成された」。もはやソ連もコミンテルンも存在しないものの、この文書がすべてにおいて現在のロシアにとって不都合な真実であり過去であることは言うまでもない。興味深いことに、プーチン大統領は、このヴェノナ文書が、捏造であるとか、でたらめであるとか、一切その真偽について否定発言をしていない。

このブッシュ大統領のリガ演説に対する、当のアメリカの反応はどうか。アメリカ最大の保守系オピニオン・サイト「タウン・ホール」に、「草の根保守」のリーダー、フィリス・シュラーフリー女史は2005年5月16日付で論説を書いている。

《ジョージ・W・ブッシュ大統領に感謝する。時期がだいぶ遅れたとはいえ、誤った歴史を見直して、フランクリン・D・ルーズべルト大統領の悲劇的な間違いのひとつを指摘し、よくぞ謝罪の意を表明してくれた。》

シュラーフリー女史は更に、この協定によって我々アメリカ人は現在、中国の共産主義帝国の台頭と北朝鮮の核開発に苦しまなければならなくなったとして、次のように訴えている。

《ルーズべルトの擁護者(主に民主党系のリベラル派)は、スターリンを日本との戦いに引き込むためにはこれらの譲歩が必要だった、と正当化しようとした。ヴェノナ文書は、その主張が間違っていたということを証明している。》

ヴェノナ文書は、ルーズべルト大統領自身が容共的であった証左として、大統領周辺には 約200人もの共産主義者、そのシンパが採用されていたリストを公開している。 その内容は生々しい。

側近No.2のハリー・ホプキンズなどは、モスクワでは「役に立つ間抜け」と言われていた。国務省のアルジャー・ヒスはヤルタ協定原案を作成した人物だが、ソ連暗号名は「アリス」。この人物は、ルーズべルト大統領、トルーマン大統領の情報をソ連へ提供。ヤルタ会談時にソ連から叙勲されている。国際連合憲章の起草者の一人である。書き出していったら、キリがない。日米の政府首脳が、いかにコミンテルンにいいように操られてしまっていたのか、こうなるともはや開いた口がふさがらないほどだ。

ルーズべルト大統領が大戦末期に死去した後、その周囲の共産主義シンパらは、連合国軍総司令部(GHQ)の民政局内部に局員として多数来日し、民主化という美名の下に“社会主義国家日本”を作ろうと暗躍した。そして、日本の精神的解体を画策(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム=戦争犯罪情報計画)していった。

しかし、ヴェノナ文書によって初めてソ連によるスパイ活動の存在が明らかになったわけではない。例えば、ヴェノナ文書公開のはるか以前から、それも開戦以前の1939 年(昭和14年)9 月にホワイト、ヒス、カリーを始めとする政府内ソ連スパイらは、連邦議会において実名で告発されている。ヴェノナ文書自体、公開前から一部関係者がその内容がリークされていたのだ。

しかし、戦前、米国の多くの知識人は、そうした「ソ連のスパイ活動」という告発を、「右翼勢力による根拠薄弱なでっち上げである」と主張。今でも、リベラルという「物分りのよい人士」たちは、こうした事実にできるだけ目を向けないようにしている。「不都合な真実」だからである。戦後のヴェノナ文書の完全公開は、こうした主張に鉄槌を下すことになったという意味で画期的であろう。

ルーズベルトの政敵であった共和党党首のハミルトン・フィッシュは、『日米開戦の悲劇』という本を書いており、1991年に亡くなる前、談話も残している。フィッシュは開戦当時、外交委員であるにもかかわらず、ル-ズベルトからハルノ-トなるものを日本に通告していることは、まったく知らされていなかった。フィッシュは、「あんなものを通告されたら、日本は戦争をするしかないだろう」と、語っている。

フィッシュは当時ハルノ-トのことを知らなかったため、真珠湾攻撃に対して米国民と一緒に、「非道なる日本撃つべし」と強硬に主張した。が、彼はその後40年にわたって日米戦争について研究を続け、驚くべき発見をした。それは日本に対して屈辱的な内容の「ハルノート」を書いたのが、後にソ連のスパイだと判明したハリー・デクスター・ホワイトであったことだと述べている。

このソ連・コミンテルンによる日米を標的とした、スパイによる国策壟断、無益な太平洋戦争への誘導といったものに対し、戦争途中で死去したルーズベルトに代わったトルーマン大統領時代には、「保守派」による猛烈な反撃が始まった。

日本占領軍総司令部GHQには、マッカーサーをして「在任中に出会った最も優れた知性派の将校であり、陸軍広しといえども将軍に続く人物を探し出すのが、まったく困難なほどずば抜けた人物であった」と言わしめたチャールズ・ウィロビー少将がいた。この人物が、日本においては、「赤化」を阻止し、それまで日本をズタズタにしかけていた占領政策の方針大転換を引き起こす要となっていく。

ウィロビーは、かなりソ連の対日工作や謀略の核心に迫っていた。GHQ における情報担当最高責任者として、彼はヴェノナ文書の内容を知っていた可能性もある。

この回想録は1973年に『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』という書名で番町書房から刊行された。その後長い間絶版となり、山川出版社から『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』という書名で、再刊されている。この回顧録には、日本人がマスコミなどで知らされてきた歴史とはまったく異なる見方が描かれおり興味深い。ウィロビーはこう書いている。

『この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在の意味)では、共産主義国家とされているソ連、かつての帝政ロシアそのままの圧政をしくソ連による異常な破壊転覆活動が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである。
共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と共同戦線を組むかわりに、破壊してしまったのだ。』

ソ連という国家が崩壊してしまったので、若い世代には分りにくいかもしれないが、ウィロビーの主張を一言でいうと、当時、米国にとっても日本にとっても、本当の敵はソ連であり共産主義であったということだ。ブッシュ大統領は、あのときリガで「歴史の修正」への第一声を挙げ、世界に一石を投じた。

アメリカは日本との戦いに勝利したが、5年後の1950年には朝鮮半島の38度線を挟んで共産主義勢力と対峙し戦うこととなってしまった。その朝鮮戦争終戦後もソ連・中共との冷戦が長く続くことになったのだが、ベトナム戦争も、冷静に歴史を振り返ってみると、ウィロビーの述べていることが正しいように思える。こうした機密文書が、少しずつ公開されていく。歴史は書き換えられるのである。



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