言葉狩り
これは249回目。昔から非常に不思議、かつ不愉快なことがあります。「言葉狩り」です。いわゆるなんでもかんでも差別用語と決め付け、歴史も伝統も、味わいもない無味乾燥な言葉ばかりが増えてきています。その実、日本人の心の中には、人の痛みを自分のものとしてとらえることができない、しようともしない陰湿な差別感が、静かに深く培われていっているような気すらして、恐ろしいのです。本編は、いわゆる不適切表現が頻発しますので、あまりびっくりしないようにしてください。
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たとえば、「つんぼ(聾)」という言葉がある。現在のメディアは、「耳の不自由な人」「聴覚障害者(聴覚障礙者)」などと言い換えている。まったく頭をまっさらにして欲しい。一体、どちらが差別的な効果があると思うだろうか?
「つんぼ」という言葉には、「障害」という直接的な表現はない。実際、この言葉の語源は不明である。調べてもはっきりしないのだが、考えられることの一つにこういうことがある。聾という字は、いかにも「龍」と「耳」の合成字である。龍というのは、ときに「あいまい」であることを意味しているのは間違いない。たとえば、「朧月夜(おぼろづきよ)」の朧などは、その典型的な使用例である。ということは、恐らく耳の能力がおぼろであり、あいまいで、はっきり聞こえないということを意味しているようだ。
何のことだかわからない不明瞭な表現をするのが、古来の日本語の特性でもある。さしさわりのあることを、できるだけ曖昧にしてぼかすのだ。つまり、「つんぼ」という表現は、直接的に「不自由である」「障碍を持っている」といった表現よりも、はるかに日本人なりに気を遣って来た文化の一端であることは、間違いない。はっきりした表現にしないで、忖度(そんたく)しろよ、ということだ。
「いや、そんなことはない。実際わたしは、子供の頃「やーい、このつんぼめ」と馬鹿にされたのだ。」という人がいるかもしれない。では問う。「やーい、この聴覚障碍者め。」と言われたらどうであろうか。同じく、不快だろう。同じなのだ。そこに、差別、侮蔑の意識があれば、言葉はどんな言葉でも、刃になってしまうのだ。しかも、つんぼと違い、聴覚障碍者という言葉は、そのもずばり、能力が「劣っている」ことを露骨に表現した言葉だ。
「障碍者」という言葉も、「障害者」だったのだが、害の字が不適切な表現だということで、碍の字を使うようになった。しかし、この碍の字は、「石が進路をさえぎっている」という意味であるから、どう言い換えたところで、「不適切」なはずなのだ。なにを言い換えているのか、正直わたしなどにはこうした、言葉の言い換えというのは、まったく意味不明である。
もともと、「つんぼ(聾)」という言葉は、人を指していなかった。耳が聞こえない、耳が遠い「状態」のことを指した。年をとって、さまざまな能力が劣化してきている状態のひとつに、「つんぼという状態」があったのだ。これを、人そのものに置き換え、からかう意図で「あんた、つんぼか」と言うのは、差別というより無神経、デリカシーの無い言動だといえる。人品が疑われる。
この、からかい半分、嘲りでこうした言葉を人に投げつけることが、良いわけはない。が、言葉そのものは、どう表現したところで、人間を「区別」してしまうのだ。また「区別」しなければ、言語も、社会も成り立たないのである。つまり、言葉が問題と言うよりも、その言葉を扱う人間の心のほうが問題なのだ。
禿(は)げというのもそうだ。気を遣って、「毛が薄い」という表現もあるが、「毛が薄い」と「禿げ」ではまったく意味が違う。禿げをどう、言い換えるというのだ。ほかに禿げを意味する言葉など無いではないか。「つるつる」とでもいうべきなのか。たしかに「つるつる」というのは、かわいらしい表現にも思えるから、それなら許されるのか。しかし、笑いながら小馬鹿にしたように「つるつるだね」などといったら、人によってはぶん殴られるだろう。
「つんぼ」=「聾」については、実際に「これは差別を連想させるので名称を変更しよう」とする側と、あくまで改名に反対する側と鮮明な衝突を引き起こした。2008年のことだ。
学校教育法の改正を受けた措置で、静岡県教育委員会が「聾(ろう)学校」を「聴覚特別支援学校」と改名しようとし、これに対して全日本聾唖(ろうあ)連盟が改名に反対。全国の都道府県教委の判断はものの見事に割れた。
法的には「特別支援学校」、通称「聾学校」ということで、どうも両論併記でその後は進捗したようだが、その後詳しく確認していないので、不詳。
ただ、当時県側は、「一般に『聾』という字には差別的なニュアンスがあり、『聴覚障害』と言い換えが進んでいる」と説明していた。こういうのを聞くと、わたしなどは、「聾の字に差別的なニュアンスを持っているなどと思うのは、差別意識を持っているお前だろうが。」とつい言いたくなる。
当時、全日本聾唖連盟では、「わたしたちは、聾であることに誇りを持っており、私たちの団体名にも堂々と聾を使っている」と反論していた。
「盲=めくら、めしい」という言葉も同じだ。目がくらい、というのは、よく見えない、見えにくいという意味だが、これと視覚障碍者という言葉を比べて見たらよい。どちらも、同じことを意味しているが、視覚障害者という言葉のほうが、より決定的に「人間として欠陥品」であるという意味を露骨に表現している。「障碍」という言葉は、これ以上、致命的に人間の能力が欠けていることを表現していることが、どうしてわからないのか。
恐らく、やや「科学的な言い方」に見えるのだろう。「めくら」のような俗語ではなく、「視覚障害者」といかにも「科学的」風な表現に言い換えることで、面倒なことに蓋をしようという、そういう魂胆だ。
そんな綺麗な表現である「視覚障害者」という言葉におさまって、自分は差別していないというジェスチャーをするスタンスほど、むしろあざとい。心の中では、蔑視しているのなら、言葉をいくら言い換えようと、より陰湿な差別意識が人間の心の中に沈潜する。あるいは当人を色眼鏡で見て、できるだけ接触を避けようとする、これは偽善というしかないだろう。
「知恵遅れ」、と言う言葉もそうだ。知恵が遅れている、というこの日本語独特の表現は、知恵が普通より、遅れているという意味だ。「あれは、知恵が多少遅れているが、遅れているだけだ。たいした違いはないのだ。そこをなんとか、うまく合わせてやってくれ。みんな仲間じゃないか。」という暗黙の了解が、この言葉には潜んでいる。
しかし、いったんこれを知的障碍者と表現すると、「彼」は決定的に「健常者」と違う存在として、「区別」されてしまうのだ。「知的能力に欠陥がある」と明言している言葉だからだ。その向こう側にあるのは、有形無形の「隔離」である。以前の特殊学級、いまでは「わかばクラス」とか、「特別支援学級」とか、なんとか意味不明の名称になったりしている。永遠に、「わかば」のままで、花も実もつけない、というそういう暗喩なのだろうかとわたしなどは思ってしまう。「特別支援」と身構えなければならないほど、厄介者ばかりだと、そういう意味なのか。
こうした「やさしい表現」や「似非(えせ)科学的風な表現」というものは、要するに「隔離」を正当化するために、生まれてきたようなものだ、と理解している。少々わたしのものの見方がひねくれているのだろうか、「わかばクラス」などと聞くと、吐き気がするのだ。
わたしの子供の頃(昭和30年代初頭)は、横浜のかなり田舎のほうだったこともあり、特殊学級すらなかった。周辺の農家では、長年の閉鎖性、近親婚の影響でだろうか、いわゆる「精神薄弱児(昔は、こう呼んだ。)」が多かった。小学校低学年、1クラスに40人いれば、5-6人はそうだった。
それがみんなごった煮状態での学校生活だったが、なんの不都合も無かった。今では、彼らは「区別」され、別学級である。教える側の効率性、教えられる側にもやはりその効率性があることは、充分理解できる。しかし、それによっていわゆる「健常者」たちは、自分とは違う人間がやはり同じように生きているという実感を、この隔離状態で認識できると思うか。
その人たちにあった「効率的教育」という正論と、ごった煮にして子供のころから、自分たちとは「違う人間」とむしろうまくつきあっていくことに慣れるべきだという正論と、どちらを優先させるべきかの選択だ。
隔離・分離してしまえ、という発想は、腫れ物を触るような思いで、障碍者を遠くから眺めては「できるだけかかわらないようにしよう」という思いしか、育たないはずだ。
わたしなどは、ごった煮という、そういう事情だったから、家に遊びに来る友達の半分以上が、いわゆる「知恵遅れ」であった。両親とも、教員であったから、それに制限を加えるどころか、わたしに「奨励」さえした。
父親というのは、以前もここで引き合いに出したことがたびたびあるので(死んで年月が経てば経つほど、存在が大きくなるのが父親というものらしい)、草葉の陰でなんどもくしゃみをしているだろうが、なかなか名言を残している。この件に関しても、一つだけ名言がある。
「いいか、おれたち(健常者)の言うことの半分は、嘘か間違いだ。しかし、彼らの言うことのほとんどは、まず正しい。よく聞いてみろ。それがわかる。どっちが本当の意味でまともなのか、そのときおまえはわかるはずだ。」
これは、父親の独創的な表現だったのか、どこからか学んだ言葉だったのかわからない。しかし、後年、わたしはこれとほぼ同じ表現を、ドストエフスキーの名作の中に見出したことがある。
しかし、振り返ってみれば、同じクラスの友人たちでも、こうした「知恵遅れ」の級友と、当たり前のように交わる者、まったく交わらない者、と真っ二つに分かれていたのも事実だ。それでも、いやおうも無く同じクラスで、すったもんだすることで、このややもすると集団行動において足手まといになりがちな級友たちと、どううまくつきあっていくかという技(わざ)や、配慮や、それこそ一緒に生きていく知恵や基本動作が身についてくるものだ。
少なくとも、違和感なくふつうの交わりをしていくことを学ぶ。差別はおろか、区別することも、ほとんど意味を失ってくる。クラス全体が、自然と予定調和することになる。教えられることが多いのは、「知恵遅れ」の級友たちではなく、「健常者」の級友たちだったのだ。その機会を、今の社会は奪っている。
「差別廃止」を口にしながら、合理的に「区別」することで、「隔離」を正当化し、この日本人というものの徳性を「かたわ」にしてしまっているのだ。違いを曖昧にしながら、なんとなくみんな普通にまとめてしまうという日本文化の柔軟さが、失われてしまっているのだ。
ついでだから書くが、「片手落ち」という言葉がある。これも差別用語のレッテルを貼られた典型的な言葉だ。一般に「片手+落ち」と理解している人が多いはずだ。これが、事故などで片手を失った人に対する差別につながるということなのだろう。メディアでは、放送禁止用語となっているようだ。
しかし、この言葉は「片+手落ち」が語源である。片方の仕事にかまけて、もう片方の仕事が疎かになる、というのが本当の意味だ。片というのは、片方の仕事のことを指している。そもそも、片腕を失った人とは、まったく無関係の言葉だ。
これも、馬鹿なメディアか教育関係者か、あるいは役人か知らないが、「恥ずべき言葉」の烙印を押してしまった好例である。しかも、いったん「片手+落ち」という誤解が浸透してしまったら、もはやこれを元に戻すことは、ほとんど不可能に近い。恐らく、日本語にこの「片手落ち」という無実の言葉が蘇り、市民権を得ることは、無いだろう。そうやって、消えなくてもよい言葉まで、どんどん抹殺されてしまっているのが、現代の日本である。
話を言葉に戻そう。メディアによって封印されてしまった、古来の日本語の「差別用語」と言われるものが、果たしてほんとうに差別用語なのか、実に疑わしい。たしかに、時代にそぐう表現かどうか、という問題はある。
いまや、つんぼという表現は、「時代遅れ」であろうから(死語)、その言葉を敢えて使うことは、かえって差別意識を際立たせてしまうかもしれない。そういう効果は確かにある。
片手落ちも、本来の意味と違って解釈されてしまっていることで、片手+落ちと認識する人が多いのだから、これはまずい、ということも、これまた道理ではある。
たとえば、「支那」という表現には、もともと差別意識などない。日本のことを、古名である「大和(やまと)」と読んだり、「敷島」と読んだりするのと、同じだ。「支那」は、そもそもチャイナの語源なのだ。
ただ、紆余曲折有り、支那という言葉は古語になってしまった。その言葉を無理やり持ち出して支那と呼ぶことは、その人間の侮蔑意識がなせる業と言われても仕方がない側面はあるだろう。
筒井康隆氏に言わせれば、こういうのを「言葉狩り」というのである。一種の迷信、錯覚、都市伝説に等しい蒙昧な風潮なのだ。この全責任は誰にあるか、といえば、第一義的にメディアである。そして、事なかれ主義に徹する愚かな役所である。さらに綺麗ごとの大好きな世間知らずの教育者である。
基本的に、日本には明文化された「差別用語」という規制は存在しない。こういう「言葉狩り」を唯々諾々として自ら襟を正しているかのような擬態をつくって、戦後行いつづけてきたメディアは、猛省すべきである。日本語を殺し、日本語という文化を殺してきた張本人だからだ。そして、はっきり言っておこう。差別用語だとして、自ら使用を自粛するということは、彼らが自身、内心で差別しているからこそ、そういうことになっていると、わたしは疑っている。疑われても仕方ないだろう。
最近では、証券業界では「外人」は差別用語だとされ、「外国人投資家」と呼ぶようにしているが、馬鹿な話である。外人とは、外国人の略称にほかならない。どこが差別用語か。愚かにもほどがある。
たとえば、税関で長いこと、Alien(外人)と日本人に窓口を分けていた。これも、Alien(エイリアン)と言う言葉は、おそらく「エイリアン」という映画の印象なのだろうか、化け物というイメージを日本人は持ってしまっている。
従い、日本の国際線窓口から、Alienという用語が消えた。しかし、Alienというのは、Foreigner(外人)より、さらにもっと「お堅い」表現なだけで、日本人がお粗末なことに映画の「エイリアン」から得たイメージとは、まったく違うのである。
そもそもラテン語が語源だし、「他国の、異邦の」という意味でしかない。Alienと聞いて、近年のハリウッド映画の影響で、一般的に違和感を持つようになったりしている側面は確かにある。言葉は変わるものだから、それは致し方ないのだが、言葉の原義を大事にしようという気迫は無いのかと言いたくもなる。
なぜ、日本人はこうしたことにまで「自虐的な」自主規制をするのであろうか。こういう愚かなことをするのは役人と決まっている。ハワイに行ってみるがいい。空港に入ると、「US Citizen(米国市民)」と、「Alien(外人)」に窓口がはっきり分かれている。
Alienという言葉は差別的だ、と勝手に思うのは、英語が出来ないか、頭がおかしいか、実際に現地人に確認を怠ったか、あるいは常識をしらないか、百歩譲って上述のように、世の中の「流行」のほうを、伝統よりなんでも重視する「ことなかれ主義」か、ということだろう。
実際、有名な話だが、こういうことがあった。かつて、盲人を連想するので「あんま」を差別用語と認定すべきだと、「ものわかりのよい」リベラルな、あるいは反日的な人士たちが、こぞって運動を起こしたことがある。そもそも「按摩」というのは中国語だ。アンモーと発音するが(北京官話)、江戸時代からあるれっきとした施術用語である。按は押さえる、摩はなでるという意味だ。
「あんま」が堂々と世の中で使うことを禁じられようとしたとき、この動きに大反対したのは盲人協会や盲人たちであった。多くの盲人があんま業にあり、施術内容や屋号に使っていたのだ。それを変更するのにかなりの出費や手間がともなったのだ。あっさり、この運動は撤回になったという。そんなに「あんま」が差別用語だと思うなら、盲人たちの反対を押し切ってでも、徹底して差別用語化の運動を推進し、この世から抹殺してしまえばよかったではないか。
要するに、こうした「差別用語」を進める連中というのは、そのていどの信念しかないのだ。とにかく、どこからのクレームがつかないようにしてしまおうという発想しか、役人にはないのである。少なくともそう思われても仕方が無い言動を役人は連綿としてきたことは事実だろう。日本で最も優秀なはずの官僚が、このざまである。
差別用語とは、他人の人格を傷つけ、さげすみ、社会的に排除し、抹殺する暴力性を持つ言葉という意味だ。先述のように、日本には法で明文化された差別用語など存在しない。土台、言葉は多様性が豊富であるから、そんなものを主観的な差別があるとかないとかいって、一律に規定すること自体が、不遜きわまりない。
言葉だけではなく、肌の色も差別の典型的な対象になる。アメリカではフットボールチーム名、レッドスキンズという言葉がインディアン侮蔑だといった反対運動が起こっているように、とくに多民族国家アメリカではナイーブな問題だ。では、「黒人(Black)」は一体どうなるのだ。
一般的に、今では白人はコーケイジアン=Caucasianというが、これは中央アジアコーカサス地方から発祥したという人類史的な、実に無味乾燥な表現だ。が、黒人については、NegroidやDarkと呼ぶ。しかしNegroidは一見、学術用語だが、Negroという言葉自体が、黒いという意味ではないか。Darkも、浅黒いという意味だ。一体、ブラックとどこが違う。土台、こんな意図的な作業や工作で、言葉という世界をコントロールしようとすること自体が間違っているのだ。
平成11年、黒人差別として全出版社が絶版にしたちびくろサンボは、その後復活した。同年、ドキュメンタリー番組「放送禁止歌」で、過去に放送禁止とされていた歌が流れ、そもそも放送禁止などあり得ない制度であることが解明された。部落解放同盟にも取材を行い、赤い鳥「竹田の子守唄」の真相も判明した。
以降放送禁止歌はその呪縛を解かれ、一気に解禁され、NHK紅白歌合戦では長年、放送禁止とされていた「ヨイトマケの唄」が、美輪明宏によって熱唱された。
その一方で、差別用語を使わない差別は厳然としてある。わたしはこちらのほうが、もっと深刻にして重大な現存する差別だと思う。
さる車椅子使用者の老人が、インターネットのブログで激怒していたのを読んだことがあるのだ。ある大学で主催した、一般向けの講演があったらしいのだが(確か、なんらかの文化教養的な内容の講演だった)、その老人は事前に大学側に連絡を取ったそうだ。
ところが、その大学の多目的ホールの二階で講演が行われる予定で、階段しかないという理由で、車椅子は拒否されたというのだ。(一応その大学名は、名誉のために書かずにおく。)
後援していた市にも、また法務局にも老人はかけあったが、老人の言によれば、「連中は差別用語の言葉狩りに忙しいようで、まったく助けにならなかった」と書いていた。老人はよほど憤慨したらしく、「それならば、チラシに、階段しかないから、一人で登れない死にぞこないの糞老人やド片輪は、寄り付くな!と書いておけ。」とブログで悲憤慷慨していた。
車椅子の一つや二つ、何だというのだ。職員4人で担げば、二階に上げることなど造作もなかろうが。そういうと、おそらくその大学側は、そこで「そうしたことの専門でもなく、資格もない人間が車椅子の人を移動して、なにか事故や問題があったら、大変だ。誰が責任を取るのだ。」という実に、馬鹿馬鹿しい議論になって、堂々巡りの末、車椅子は拒否という結論になるのだろう。なにか、根本的なことが置き去りにされている。
そうなのだ。形ばかりを整えようとして、心が無いのだ。言葉は使い方一つで、暴力にも、心強いパワーにもなる。ちょうど、この言葉の形骸だけを、ああでもないこうでもないとメディアや役人がかかわずらっている様子を見るにつけ、痛烈な批判をした詩人を一人思い出す。
ライナー・マリア・リルケだ。オーストリアの詩人だが、昔は青年はみな読んだものだ。今はどうだろうか。このリルケが、こんなことを書いていたのを思い出すのだ。(以下、意訳)
「イエスは、あっちを指差したのに、弟子たちや後世の人々は、あっちを見ずに、一生懸命にイエスの人差し指をぺろぺろなめ続けた。」
要点が、ずれているということだ。本質論が欠けた言葉狩りは、もういい加減に卒業しよう。危ない言葉や、ふさわしくない言葉は、黙っていても自然に淘汰されていくのだ。
大学時代、ある神父の教授がわれわれ学生にこう問うた。
「電車で、手足の何本かを失っている人がいたらあなたたちはどうします? その人をじっと見ますか。」
当然、一般的な回答として、学生たちは(私も含めて)「できるだけ見ないようにします。」と言った。
神父はこれに対して、こう言った。
「それは間違いです。じっとよく見てあげなさい。きっかけがあれば、話しかけなさい。目を背けるのは、あなたの心のほうが病んでいることの証明なのです。」
これはもちろん極論であり、比喩である。が、神父の言いたいポイントは、痛いほどわかる。
この神父の話を聞いても、なんのことかわからない人間ほど、思い切り言葉狩りをするような気がする。