迷走する西洋、忘却する東洋
これは250回目。世の中は、意味で溢れています。特定の相手に愛を求めたり、特定の仕事に目的や夢を見出したり、ささいな友人関係にしろ、自然破壊に反対するにしろ、なにかにつけて、つきまとうのは意味なのです。
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なぜわたしたちが、なんのために、どのように生きるのかと問うことは、けっきょく意味を求めているのである。
それは裏を返せば、世の中、不安で溢れかえっているということとほとんど同義だといっていい。
この意味を求める究極の自己表現に、殺人と自殺がある。実際、その理由などどうでもよい。要するに、意味を求めることが、自己目的化してしまうと、こういう結末にたどり着く。
ドストエフスキーは、この意味を求めることの「無意味さ」や「悲惨さ」を、後半生の五大長編で執拗に訴え続けた。
「罪と罰」では、貧しい大学生ラスコーリニコフが、周囲から怨嗟をもって見られていた高利貸しの老婆を、斧で殺害する。予定通りの犯行であった。一応表向き、大義名分はあった。その金を、貧しい人びとに分け与えるのだ。(当時流行の社会主義革命を仮託したとも考えられる)目的の崇高さのためには、どのような手段も正当化されるという大義である。
ところが、予測不能の事態が起こった。殺人現場に、下調べではいないはずの、老婆の妹が居合わせてしまったのだ。犯行を見られたラスコーリニコフは、猛然と第二の犯罪をおかす。彼女は、老婆と違ってきわめて善良な女性だったのだ。
ここからラスコーリニコフの理性が混乱していく。奪った金を隠したまま使うこともできない。ひきこもり状態となり、熱にうかされる。第二の犯行で、自己崩壊が始まったのだ。
作中には、ラスコーリニコフを下手人と睨んだ刑事との丁々発止のやりとりが繰り返される。崩壊寸前の精神を救おうとする、売春婦のソーニャが登場する。実の妹との、面倒な家庭事情の悶着や、その妹に言い寄る俗物の男の存在など。ドストエフスキーの、ともすると非常に難解で冗長な長編小説にしては、一気に読ませる傑作である。最初から犯人が読み手にはわかっているので、「刑事コロンボ」形式の推理小説仕立てだ。
ところが、種あかしは、じつは最後のエピローグに出てくる。ラスコーリニコフは、けして社会正義の実現などということのために、あの殺人を犯したのではなかった。
以前、火事現場で人を助けたことから、死刑を免れてシベリアに流刑されたラスコーリニコフは、ソーニャの慰問を毎日受け、読むことが許された唯一の本といったら聖書だけだった。
通り一遍の読み方をすると、キリスト教的愛に目覚めたラスコーリニコフが、自分の罪を悔いて、人間として再生する感動的な物語、ということにでもなるのだろうが、とんでもない誤解である。
彼は、独房の中で最後につぶやく。「ぼくが間違っていたとしたら、あれをやってはいけない人間だったということだ。」つまり、やっていい人間であれば、正しかったのだ。間違っていたのは、「ぼく」がやってはいけなかったのだ、ということ。
彼によれば、人間は5%のエリートと、95%の「しらみ」で構成されている。しらみはただ、生殖し、労働するだけが取り柄だ。しかし、エリートはなにをしても許される。自分はエリートだと、彼は信じた。その立証が、あの殺人だったのである。「しらみ」を一匹殺したところで、エリートならなんの動揺も覚えないはずだ。
もし、なんの感情的な動揺も覚えずにあの殺人を行うことができたなら、「ぼく」はエリートに違いないのだ。実際、第一の殺人では、彼は無機質に斧を振り上げた。
しかし、居合わせた善良な妹に対する第二の殺人は、「みられた」ことに動揺し、衝動的な殺人と化し、野獣のように彼女を殺害するにいたっている。しかも、予定していなかった善良な女性を殺してしまったのだ。その瞬間から、「ぼく」は、理性がメルトダウンしてしまったのだ。
「ぼくは、ただのしらみだったんだ。」…「罪と罰」は、恐ろしい人間の暗黒に光を当てている。
ラスコーリニコフの創造に続いて、20世紀、フランスの実存主義作家として評価の高いアルベール・カミュが、同じ実験を試みている。「異邦人」である。
「異邦人」の主人公のムルソーは、ラスコーリニコフを逆に無機質化させることに成功している。
母の死にまったく動ぜず、女と戯れ、挙句の果てに、ささいな揉め事から、アラブ人に四発の銃弾を撃ち込んで殺害する。
裁判で、無慈悲・無感動なその日常生活が暴かれ、正義と信仰の名のもとに、死刑の判決を受ける。
裁判で、その動機を問われたムルソーは、有名な「太陽が眩(まぶ)しかったから」という名言を吐く。殺人に、意味などなかったのだ。アルコールを飲んでいたからとか、喧嘩で、友人を守るためだったとか、母親の死で精神が混乱していたからだとか、世間がもたせようとする意味など、糞くらえだ。
司祭が何度となく独房を訪れ、改悛を促す。涙ながらに司祭は、訴えるが、おそらくこの筋立ての裏には(小説には書かれていないが)、当局が司法取引を司祭に託していた可能性を示唆している。
しかし、ムルソーは司祭を罵倒し、およそ世間の「意味」や「正義」に従うつもりもなく、多くの人が自分のギロチンによる処刑を、喝采しながら見守る様子を夢見るのだ。
ドストエフスキーは、「罪と罰」でラスコーリニコフを哲学上の敗者として描いた。カミュは、ムルソーを勝者として描いた。が、どちらも、滅ぶのである。
ラスコーリニコフは「人間の意味」にこだわった末に、人間でなくなってしまった。ムルソーは、ハナから「人間の意味」を拒否、否定していたから、世の中が合理的な意味にしがみつくことを侮蔑し、その結果、人間であることを放棄していた。しかも、本人はそれに気づいていない。意味にこだわることも、意味を拒否することも、いずれも意味に囚われている。どちらも救いようのない悲劇である。
「罪と罰」は、「異邦人」のおよそ百年前に書かれた小説だ。しかし、「罪と罰」のさらに十年以上前に、両作品のテーマを、より完成度の高い長編小説として書き上げていた作家がいる。アメリカのハーマン・メルヴィルの「白鯨(モーヴィ・ディック)」である。
不幸なことに、「白鯨」はその評価が長いこと低く、ほとんど無視された存在だった。1920年代からようやく再評価が始まり、今ではアメリカ十大小説と言われるほどで、メルヴィル存命の頃には考えられなかった。
メルヴィルは、人間の意味の究極の形として、「復讐」を持ち出した。理屈抜きの情念である。本能的な憎悪といってもよい。ラスコーリニコフの理屈より、ムルソーの無機質より、はるかに強力な人間の業(ごう)である。魔(神と同義)の象徴である巨大な白鯨に対する、エイハブ船長の執念という狂気は、乗組員全員に伝染していく。
途中、捕鯨船ピークオッド号の一等航海士スターバック(乗組員唯一の良心の象徴である)が、エイハブ船長に対して、魂の訴えを投げつける。
「おおエイハブ!」スターバックがさけんだ。「いまからでも遅くありません。ご覧ください! モービィ・ディック(白鯨)はあなたを求めてはいません。やつを狂ったように求めているのは、あなたなのです!」
三日間の手に汗にぎる激闘の末、ピークオッド号は、白鯨もろとも大海原の底に沈んでいく。たった一人の語り部(イシュメル)を残して、すべてが滅ぶのである。
イデオロギー(ラスコーリニコフ)は、意味にこだわった。無機質・無感動(ムルソー)は、意味を拒否する形で、けっきょく意味に囚われるという自己矛盾を犯した。そして復讐という究極の情念(エイハブ)は、最も強靭な人間行為の原動力のはずだが、これは本人のみならず、周囲のすべてを滅ぼすという悲劇に終わっている
逆の例もある。フランスのアンドレ・ジードの「狭き門」である。アリスの自己犠牲的な愛すら、意味に囚われている。ジードは、自己犠牲的な愛すらも、滅ぼしているのである。それは、欺瞞だからにほかならない。自分の価値を偽っているという点で、清純なアリスは、ラスコーリニコフと紙一重でほとんど同じ過ちを犯していることになる。
どこに答えがあるのだろうか。東洋の仏教は、ある意味、答えの一つではである。
こうしてみると、欧米文化というものは、ずっとこの答えのない問題を巡って、ずっと煩悶を繰り返してきたことがわかる。しかも、未だにその答えを見いだせずにいるのだ。しかし、その答えがもしかしたら、東洋にあるのかもしれない、と気づくものもいくばくかはいたのだ。ドイツのヘルマン・ヘッセは、こう書いている。
「インドが二千年をかけて解いた課題を、西洋は同じ時間をかけてただ迷走した。」(ヘルマン・ヘッセ、「荒野の狼」)
肝心のわたしたち東洋人は、その答えをいつの間にか、どこかに忘れてきてしまったようだ。