隠蔽と捏造の日本史~怨霊の系譜

文学・芸術, 歴史・戦史


これは137回目。物事、知らないほうが良いということもあります。それは、どんなに過去を遡った話でも同じです。現代に言い知れぬ影響を与えてしまうことも、多々あるからでしょう。いろんな「事実」を書き換えなければならなくなるからです。それで済むなら良いのですが、いまだに問題が尾を引いている場合には、なおさらです。

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そういう意味では、古代史や考古学というのは、現在のわれわれの価値観や常識というものを、根底から覆してしまうような危うさを持っている。覆すことが(つまり、真実を明らかにすることが)良いことなのか、悪いことなのか、これはわからない。

そこまで過激な話ではないが、一つ隠蔽と捏造の日本史の代表的な一例で聖徳太子を取り上げてみる。そもそも、聖徳太子という人物は存在しない。飛鳥時代の皇族、政治家であり、用明天皇の第二皇子の『厩戸皇子(うまやどのみこ)』はいた。死後、聖徳太子の名を贈られただけで、要するに厩戸皇子という人物しかいなかったのだ。だれも彼を生前、「聖徳太子」などと呼んでいなかったということだ。

574年2月7日、用明天皇の第二皇子の厩戸皇子として生まれた。Wikipediaなどに解説されているような、一般的な厩戸皇子(聖徳太子)の事績は、以下のようなものだ。

『聖徳太子は、推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子(そがのうまこ)と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。』

しかし、ここにいくつもの「嘘」がある。その鍵は、彼が『仏教を厚く信仰し、興隆につとめた』という点にある。

「聖徳太子」という名を、死後に贈られたということも、これに深く関わっている。いつくか謎、とされている点を挙げてみよう。ここでは、一般的な通例に沿って、「聖徳太子」という呼び名で統一していく。

まず、聖徳太子にまつわる謎の一つに、どういうわけかその死亡日が、妻とわずか一日違いだということがある。

推古天皇30年・622年、斑鳩(いかるが)宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りつつ、その妃・膳大郎女が2月21日に没。その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子が亡くなった。しかも、その2か月前、聖徳太子の母も、死亡している。不自然であろう。

謎の二つ目。これもよく指摘されるところだ。当時、天皇縁戚者が亡くなると、一定の期間、「殯(モガリ)」と呼ばれる、鎮魂儀礼が催されるのが一般的だった。歴代天皇はもちろん、聖徳太子の弟(来目皇子)が亡くなったときもそうだ。しかし、聖徳太子の死には、「殯(モガリ)」の記録が一切無い。つまり、死亡してすぐ埋葬されてしまったということだ。これも不自然であろう。推古天皇の摂政だった人物であるにもかかわらずだ。

ちなみに、聖徳太子以外で、この「殯(モガリ)」が無かった天皇に、「崇峻(すしゅん)天皇」がいる。592年に暗殺された天皇である(犯人は、蘇我馬子と言われている)。

崇峻天皇は、臣下によって殺害された例としては、歴史学的に「確定」している唯一のケースだ。しかし、死亡した当日にすぐに埋葬してしまったこと、陵(お墓)が無いことなど、聖徳太子と重大な共通点がある。

さらに謎が追う。聖徳太子の死亡は622年だが、その後642年( 20年後である)には、彼の子孫25人全員が、蘇我入鹿(いるか)に殺害されている。(一説には、山背大兄王は生き延びたともいわれる)事実上の根絶やしである。

もっと謎は出てくる。聖徳太子は、先述通り仏教を日本に積極的に導入したと言われている人物だった。蘇我蝦夷(そがのえみし、入鹿の父)とともにである。つまり、蘇我氏にとっては、仏教という線で一族専横の下に王権確立をしていく上で、聖徳太子が重要なパートナーだったということになっている。

その人物の子孫を、蘇我氏が根絶やしにしたのであるから、穏やかではない。この流れで行けば、当然結論は逆で、蘇我氏は聖徳太子と政敵の関係だったと考えるのが一番しっくりくる。それなら、彼が暗殺され、子孫も後に皆殺しになっても不思議ではない。

そもそも、聖徳太子は血統的には、蘇我系ではなく、物部(もののべ)系の可能性が高いのだろう。当時、原大和朝廷(おそらく、スサノオや饒速日=ニギハヤヒを祖とする最古の王朝)の流れをくむ物部氏と、新興勢力の蘇我氏が権力闘争をしていた。前者は古神道を奉じており、後者は新興宗教の仏教を導入していた。

その最終決着が、聖徳太子一族の誅殺ということだったのであろうと推測できるかもしれない。結果、蘇我入鹿は、専横を極めた後、乙巳の変(大化の改新)で殺されるが、首謀者の中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、元々は物部氏の従者の家柄である。物部氏系の聖徳太子一族が、皆殺しに遭った一件に対して、遺恨を晴らした側面もあるわけだ。

こうしてみると、一般に言われてきた聖徳太子=蘇我氏という提携関係は嘘で、政敵であったと考えるのは、非常に納得がいく。聖徳太子は、仏教の祖どころか、おそらく仏教一つで国教化していくことには反対の立場だったのかもしれない。その死後、仏教徒たちによって、仏教を広めるための「広告塔」として聖徳太子という「仮名」の人物が、都合よく利用されていっただけ、ということだ。

その証拠が今に残っている、四天王寺の存在である。大阪・天王寺区にある四天王寺は、聖徳太子が建立したとされる大変有名な寺だ。しかし、訪れた人は、一様に奇異な感じを持つはずだ。参道の入り口、発心門と呼ばれる「鳥居」がある。現在のは、13世紀に作り直された石造りの鳥居だが、それ以前は木造だったわけだ。

なぜ寺に鳥居があるのか。稲荷ならわかる。稲荷は神仏が完全に習合したハイブリッド宗教だからだ。仏教系の稲荷は寺なのだが、なぜかおびただしい朱色の鳥居が必ずある。稲荷は、神仏の区別がほとんど無いくらい、一体化しているのだ。しかし、四天王寺は違う。しかも、その周囲には、四天王寺を取り囲むように、四天王寺七宮という七つの神社があった(一部現存せず)。すべて聖徳太子の建立である。どこが神道を貶め、仏教を興隆させた人物であろうか。

もともと、四天王寺は寺ではなく、神社だったのだという説はきわめて有力である。四天王寺が、528年の物部・蘇我戦争に敗れた、古神道を奉じる物部守屋(もののべのもりや)等の御霊(怨霊)を封じるためにつくられた、という縁起がある。境内、一般の参拝者が入れない地域にそれは残っている。

このとき、聖徳太子は蘇我サイドについて戦ったということになっているが、この辺の事情はもっと複雑であろう。依然として謎は残るが、明かに物部系の血統を継いでいると思われる聖徳太子が、その後、一族そろって壊滅させられているとすれば、蘇我氏による奪権闘争は、物部・蘇我戦争に始まり、聖徳太子殺害でピークとなり、子孫皆殺しで決着がつくという、およそ百年越しの大プロジェクトだったということになりそうだ。

四天王寺には、牛頭天王(ごずてんのう)が守護神として祀られているが、牛頭天王こそは、物部氏の最古の祖先・スサノオと同体であることは、宗教学をやった人なら常識である。全国の「天王」の名を冠した神社は、本来はことごとくスサノオを祀ったものである。

そして、聖徳太子の資金的なスポンサーであった大陸渡来の秦(はた)一族は、稲荷・八幡など各地に神社を建立してきた。稲荷の祭神は、ウカノミタマで、スサノオの子ということになっているが、死後の諡号(しごう)が無いので、実在の人物ではおそらくない。つくられた神である。ただ、スサノオ系だとしている点が重要だ。

また八幡も、「八」という数字は、まさにスサノオそのものである。全国、「八」のつく神社は、それが現在どのような祭神の名になっていようと、もともとは、間違いなくスサノオが祀られていたはずだ。

「牛(牛頭天皇)」と「八(八幡、八坂、八重垣、八雲、八俣等々)」という暗号は、秦氏のバックアップで原始大和王朝を築いたスサノオ系(物部系)・京都の八坂神社で完全に合体している。

西宮を始め近畿に多い、「くだん(件、牛女)」の伝承もこれに関係しているはずである。西宮に近い神戸はもともと、スサノオの子・ニギハヤヒが出雲・日向から遠征して平定する折に、軍団の基地にした場所だ。「神の戸(軍隊、兵士・人)」が古代の語源である。すべてが、スサノオ系に符合してくる。

つまり、聖徳太子はこの流れの人物であり、世に言われる蘇我氏とはむしろ政敵であり、仏教導入ではなく、本来神道保護者であった可能性が高いということだ。

その聖徳太子が、物部・蘇我戦争で蘇我サイドについたというのは、不可解な話だが、もしかするとそれが正しければ、物部系が時代にそぐわない古神道の原理主義で、軍事衝突を巻き起こす状態であったために、仏教を報じる蘇我氏とバランスを取ろうとしたのかもしれない。むしろ、聖徳太子は神道・仏教並立を望んでいたのだろう。

いわゆる聖徳太子が制定したとされる『十七条憲法』には、そのニ項目目に、「三宝を敬え」「三宝とは仏法僧である」と書かれている。

しかし、この部分は、実は、後に改竄されていることがわかっている。本来は、「仏教・儒教・神道」の三つを指して、三宝という。

その証拠もある。十七条憲法は、実は一つの文書だけで構成されていないのだ。5つの憲法で成り立っている。

一般民ための十七条憲法(通蒙憲法)
政治家のための十七条憲法(政家憲法)
儒教徒のための十七条憲法(儒子憲法)
仏教徒のための十七条憲法(釈氏憲法)
神道家のための十七条憲法(神職憲法)

つまり聖徳太子は、仏教だけを特別視している訳ではなく、儒教徒、仏教徒、神道家の三つを、分け隔てなく公平に見ている事が分かる。

このことは、『先代旧事本紀大成経』の中にも、しっかり、三宝が「儒仏神」であると明記されていることでも裏付けられる。ちなみに、三宝ではなく、正確にはいずれも「三法」と書かれている。ここは、実は重要な点だ。

この文書の改竄は、8世紀の仏教僧であった「道慈」が行っていることが明らかにされている。しかも、この道慈は、「日本書紀」の編纂にも関与している。それ以前の、古代原始大和王権の存在を、歴史から抹殺した改竄は、同時に聖徳太子や四天王寺の意味も、すべて改竄することと、同時に行われたわけだ。

聖徳太子の「和を以て貴しとなす」という言葉も、実は、「儒仏神」三つが互いに尊重して、仲良くするようにという意図であろう。それに対して古神道一本槍で決戦姿勢を崩さなかった物部氏に手を焼き、聖徳太子が一時的に蘇我氏と手を組んだということは考えられそうな成り行きである。

いずれにしろ、物部を滅ぼした蘇我氏としては、今度は聖徳太子が邪魔になってくる。そして、一族誅殺を行い、その痕跡をまた隠蔽、改竄したのであろう。

そうなると、怨霊が怖い。蘇我氏がどれほど聖徳太子の怨霊を恐れたか、明治になって明かになった。

そもそも、「徳」という字のつく天皇やその縁者は、非業の死を遂げており、ことごとく怨霊化した人物であるという事実がある。

聖徳太子・・・暗殺の疑い
崇徳天皇・・・讃岐へ配流され死亡
孝徳天皇・・・臣下の大半に裏切られて死亡
称徳天皇・・・(公式には天然痘とも言われるが)病気回復の祈祷が行われた史料無し
文徳天皇・・・突然の病で急死(暗殺という説)
安徳天皇・・・二位尼が、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦に身を投じた
順徳天皇・・・佐渡へ配流となり、在島21年の後、崩御

聖徳太子の「徳」と言う字が、どういう意味をもつか、明かである。怨霊を恐れた蘇我氏によって、死後贈られた称号にほかならない。そこには、怨霊の封印と、神に祀り上げることで鎮魂の二つの意味があるわけだ。

法隆寺夢殿本尊に、観音菩薩立像(救世観音、ぐぜかんのん)がある。聖徳太子が営んだ斑鳩宮の跡に建てられたのが、法隆寺東院だ。そこに夢殿があり、堂内には、聖徳太子等身の像と伝える飛鳥時代の木像(救世観音像)がある。つまり、聖徳太子の人形(ひとかた)だ。

秘仏であったが、明治17年・1884年にアメリカ人美術家フェノロサと岡倉天心が、寺の反対を押し切って強引に内部調査を断行。それまでこの仏像は白布で何重にも巻かれていた。

聖徳太子本人を模した救世観音である。聖徳太子そのものと言っても良い。12世紀にはすでに秘仏とされていたため、700年もの間、それを見たものはいなかったのである。

フェノロサらは、明治政府の許可証を掲げ、厨子の鍵を開けるように言ったが、僧侶たちはかなり抵抗したらしい。「開扉すると地震が襲い、目が潰れ、この世が滅ぶ。神罰が下る。」と大反対だったのだ。フェノロサは、政府の後ろ盾があったため、強硬な押し問答の末、夢殿に乱入。僧侶たちは、恐怖のあまりみな逃げてしまったという。

何百年もの間、布に溜まった埃が舞い上がり、ネズミや蛇が慌てて飛び出してきたという。

問題は、その救世観音像の有様である。大きな釘で、頭を貫かれ、胸にも重い後ろの後輩からやはり大きな釘で打ち付けられていたのである。本来仏像にはけして釘を打たないのだ。明らかに聖徳太子の人形(ひとかた)を使って、その怨霊封じを行った跡であることは、明白であろう。

蘇我氏は、聖徳太子の意思と違い、聖徳太子こそが仏教の祖であると祀り上げていったわけだ。実はほかにも聖徳太子とされる像で、普通「にかわ」で部品を付着させるところを、わざわざ心臓に向けて釘で打ち込んでいる作例もある。聖徳太子像だけがそうなのである。呪詛、以外に考えられまい。

聖徳太子が、古来の神道一辺倒を排除し、仏教導入に好意的であったことは間違いないだろうが、それは神道を破却しようというものではなく、融和=バランスだったのだ。ところが仏教の旗印の下、全権掌握を狙った蘇我氏によって邪魔者扱いされ、消されていったとまとめることができるかもしれない。

そういう意味では、天台・真言という密教系仏教は、この神仏の「根っこ」の部分に対して、かなり本来の厩戸皇子の意図した、仏教と神道の融和を正確に踏襲していると言えなくもない。その後の仏教宗派に往々にしてみられる神道軽視、あるいは神社側に見られる仏教忌避というのは、聖徳太子の遺志からすると、間違っているのだ。

明治以降、現在は神社と寺が、まったく別物扱いになっている。しかし、絢爛豪華にして重厚な日本の宗教文化は、厩戸皇子が願った神仏の融合であり、蘇我氏が倒れて以降、明確に両者は融合化、場合によっては同体化した側面すらある。この日本文化のきわめて稀有な特徴といってもいい、神仏一体の文化は1000年に渡って熟成されていった。そしてそれは、明治になって、国家神道の名の下に、再び分離させられてしまったのだ。

現在の貧弱な日本の宗教文化(単に儀礼としてのみ残っている有様)は、1000年に及ぶ、神仏融合の時代から、はるかに劣化し、陳腐化してしまった。神道に傾斜するでもなく、仏教に重きをおくでもなく、ばらばらに、都合よく利益(りやく)を求める対象や、単なる儀礼上の「道具」に堕ちてしまったのだ。

聖徳太子の時代、古来の神道と、新興外来宗教としての仏教が、激しい相克をしたものの、これを融和させようとした彼の意図というものは、その後、蘇我氏によって一時的に中断された。しかし、結局1000年に及ぶ日本の精神文化の中で、気が付かないうちに静かに醸成されていったのだ。

おそらく、戦いの神を求めた武士の八幡信仰に、仏教の禅が取り入れられていったあたりから、この神仏習合の動きは加速していったように思う。神仏相和した、この特殊な日本文化の精華というものは、残念なことに、明治維新によって完全に破断されてしまった。

仏から切り離された神々の、怨嗟や物言い、その声無き声が、あなたにも聞こえてこないだろうか。