世間の常識は、市場では非常識。

政治・経済


これは138回目。よく「株にだけは手を出すな」と言います。妄言です。株で資産を失い、家族もろとも露頭に迷う憂き目に遭った人が、だいたい遺訓として語り継いできたのでしょうが、つくづく、その人は自身の失敗の原因というものを、ちゃんと反省しておらず、認識もしていないのだと思います。市場の常識を知らず、世間の非常識に甘んじた不勉強を恥じるべきでしょう。その人は、なぜ株式投資で資産を失ったのか、その本当の理由をまったく理解できておらず、学習効果が無く、それ故間違った風説を社会や家族に流布していると言っていいでしょう。それを真に受けている多くの未経験者に、大変な誤解を与え、彼らが資産をつくっていく機会を、意図的に邪魔しているようなものですから、大きな罪であるとさえわたしは思っています。まあ、自分は悪くない、市場や株というものが悪いのだと言いたいのでしょう。

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株式投資で資産をすべて失うような悲劇は、二つの要因に集約される。
信用取引で失敗したか(しなければ良いのだ)、一点張り(一つの銘柄に集中投資)をした結果、それが不運にも倒産した場合(分散すれば良いのだ)に限る。市場の常識を守れば、資産がゼロになるなどということは「ありえない」。

誤解を恐れずに言えば、あらゆる投資商品の中で、総合的に見れば株式が一番「楽に大きく」利益が得られる。たとえば、債券(金利)、商品先物、為替、不動産、保険などと比べてみたらよい。

株式が圧倒的に有利な点は、債券・商品先物・為替が、真っ先に変動するのに対して、株式はこれらの動きを見て動く。いわば「後出しジャンケン」だということだ。

不透明な状況下で真っ先に動く債券・商品先物・為替に投資をするよりも、これらを先行指標としている株式投資のほうが、流れを確認してから動けるのだ。だから、(あなたが信じると信じまいと)、実際、株式投資では暴落の予知すら可能なのである。

もちろん、自然災害(東日本大震災のような)や、テロ事件(911事件のような)など、突発的な大事件で暴落する場合は、さすがに予知は不可能だ。が、経済的な要因で発生する「いわゆる暴落」というものは、予知できるのである。株より先に動いている、ほんの二、三のものをチェックしていれば足りる。

なにを見ていればいいのか。そういう市場での常識は、アメリカでは驚くべきことに小学校からカリキュラムに組み入れられ、勉強する機会がある。そんな環境で育った「外人」と、なにも知らず、「株に手を出すな」などという妄言を信じて敬遠し、株をギャンブルと同じかのように誤解している日本人が、401KやNIESAなどにおっかなびっくり「手を出して」も、およそ互角に戦えるわけがない。大人と子供の喧嘩である。

なにしろ、連中は子供のころから、ボクシングで言えばフットワークの仕方、クリンチの仕方、フックやストレートのパンチの出し方、そんなことを教え込まれているのだ。グローブのはめ方を知っているていどの日本人が、あんな連中と市場というリングの上で殴り合って、勝てるわけがない。にもかかわらず、国も社会も平気で「自己責任だ」という。この国はどうかしてやいまいか?

確かに、実用の面では、不動産(実際に住むことができる実用性)や保険(万一に備えたヘッジという実用性)に比べて株式は劣る。しかし、換金性では不動産や保険より、遥かに勝る。4日後には必ず現金に換えることができるからだ。今や、3日後になることもすでに既定路線である。

しかも、決定的なのはどの投資対象と比べてみても、長期にわたる運用成績では、株式投資はケタ違いのリターンが得られる。商品先物でさえ、株にはかなわない。よく為替取引が個人の間では人気化したりする。小遣いていどのゲームのつもりなら、いいだろう。だが、為替で資産などつくれやしない。わたしもこの世界に入って30年、身近や周囲にそんな人は一人もいない。

およそ投資適格な先進国通貨の取引で、一つの通貨が他通貨に対して2倍になることなど、ありえないからだ。株は違う、平気で数倍、数十倍、下手をすると何百倍である。それも、おそらく日本人なら誰でも知っているような企業の株で、そういう現実がある。私の周りにも、そしてあなたの身近にも、それで資産を大きく作った人の例など、星の数ほどいる。ほかの金融商品では、ごく稀であるにもかかわらずだ。株だけがそれを可能にしているのだ。

「いやいや、それでもやっぱり株は怖いです。下がるんでしょ?」というだろうか。
つまり、変動のリスクを怖がっているわけだ。では逆に問う。変動が無いなら、預金をしていればいいのだ。1%にも満たない預金金利で満足していればよかろう。投資でリターンを得ようとするのは、変動するからにほかならない。変動しないなら、リターンなど無いのだ。

では、債券なら元本保証で安全だと思うのだろうか。その発行体が倒産したらゼロである。また国債なら大丈夫だと思うだろうか。すでに時代は国債がマイナス金利にまで至り、事は極まっている。

(債券という商品の仕組みをご存知なければ、一度勉強したほうがよい。その価格とついている利回りは、逆に動く)

債券利回りがマイナスになったということは、理論上債券価格がもう上がらないということに等しい。長期的には価格は下がる運命だけが待ち構えている。いかに利回りが上昇していったとしても、債券価格下落でいとも簡単にすべて吹き飛ぶどころか、大損してしまう。

日本版401K(確定拠出年金)などで、年間どのくらいの利回りを目標にしているのだろうか。たいてい金融機関から紹介されているファンド(投資信託)の目標は年間2%がいいところだ。それも数万円ずつ毎月積み立てるような方式だ。

預金金利も国債の金利も1%に程遠いほど低い利率だ。だから、2%でも国民は歓迎すると金融業界が踏んでいるのだとすれば、噴飯ものだ。

仮に2%として、あなたが25歳だとして、定年(そのころ定年などというものがあるか知らないが)65歳までの40年間、一体数万円ずつの資金投入で、老後いくらの足しになるというのだろう。実際に電卓やEXCELで計算してみたらよい。

以前は老後に2000万円は必要だと言われていた(ちょうど今、金融庁の年金に関する報告書が槍玉に上がって問題化しているが)。が、それはおそらくローン支払いの必要がない持ち家がある場合だろう。しかも、ゆとりのある老後を過ごしたいと思えば、5000万はなければどうにもなるまい。歳を取れば大病を患うことだってあるのだ。

ましてや、今の時代、なかなか死なせてくれないのである。長生きしてしまうのである。ありがたいことに、人生100年時代なんだそうだ。やがて高齢者施設にお世話にならなければならくなるだろう。そうしたことを考えたら、恐ろしいほどの老後資金が必要になってくる。貯金の積み立てや、一般の退職金では到底おいつかない金額である。ばかばかしくて、なんの足しにもならない規模だとわかるはずだ。

ところが、国家や金融機関が進めているさまざまな制度や商品が、その国民の直面している危機的状況に、現実的な教育や提案、そして施策というものをしているとは、わたしには到底思えない。

具体的に言えば、アメリカの株価指数であれば1792年「すずかけの協定」、1817年のNY証券取引所の前身が創設されて以来、株価は実に56万倍、国債価格はわずか800倍、金価格は100倍である。ちなみに日本でも、明治11年の東京株式取引所創設以来、株価はなんと1万倍。

年率に平均してみると、アメリカの株価は毎年6.84%ずつ上昇し、日本の株価は6.80%ずつ上昇してきたことになる。今、401KやNIESAで盛んに宣伝されているファンドの目標・年率2%ていどというが、わたしなら恥ずかしくてこのような目標のファンドの運用などできない。プロの分際で、指数以上のパフォーマンスも目標にすることができないというのか。怖いというのか。なら、プロなど止めてしまえ。そんな商品をつくり、売ることに恥というものを感じないのか。

指数を超えることすらできないような金融商品の目標値というのは、一体どういう意味なのだろう? 何の価値があるのだろう? 結果は問わない。しかし、目標値がこういうレベルのものに、なぜ国民の虎の子の資金を誘導できるのだろう?

しかも、先述のように変動するものにもかかわらず、あたかも貯蓄であるかのような販売を行い(積み立て式である。あるいは非課税を名目に売却しにくいように制限を加えている)、いかに損失を避けるか、損失を限定的にするかといった方法論や指導は一切行われていない。おかしくないだろうか?

1630年代のチューリップバブル崩壊以来、人類の学習効果はほとんどなく、平均すれば8年に一回の暴落と恐慌が発生してきたわけで、今後も同じことが繰り返されることは明らかであるにもかかわらず、「積み立て式」と「非課税を大義名分として売却に歯止めをかけようとする仕組み」は、市場の常識にまったくそぐわない商品設計や制度であるとしか思えない。その間暴落しても、「それでも構わず、ずっと積み立てていきましょう。大丈夫です」と本当に信じているのか? 「暴落は困りものですが、しかし非課税ですから」ということで、済むと思っているのか?

たとえば、NIESAがお手本にした英国のISA(少額投資非課税制度)と、決定的な違いだが、ISAは購入した株式や投資信託の、売却益・配当金・分配金が 無期限で非課税扱いである。また別の株式や投資信託への乗り換えもOKだ。

しかし日本では、5年の非課税期限内に売ってしまったら、それで非課税は終了。もし持ち続けたとしても、暴落して塩漬けになってしまい、そのまま非課税期限が終わってしまったら、株価水準にもよるだろうが、下手をすると損失にもかかわらず、課税される可能性もあるわけだろうか。

何が言いたいかというと、積み立てとか、非課税とか、そういう小細工を目当てに自分の大切な老後資産をつくろうなどと甘い考えをするな、ということだ。常に、暴落のリスクはあるのだ。それをいかに予知して、備え、果敢に逃げ、暴落をむしろチャンスに変えるか、その知恵をつけよ、というのだ。国や制度や、金融業界を頼るな。一人で立て、と言うことなのだ。

ところが、残念ながら、アメリカの小学生でも知っていることすら、国民は学ぶ機会が無いのである。この国は、政治的にはどのくらい民主主義になったのかしらないが、経済・金融面ではまったく幼稚園児と変わらない、非常に暗澹たる状況なのである。

人生100年時代に、しかもゆとりのある老後のために、一体いくら必要で、それには毎年いくらの元本をいくらずつ増やしていかなければ「ならず」、それは実際可能なのか、可能だとすればどうすればいいのか、を具体的に実践的に学ぶ機会が、この国にはどこにもないのである。

恐らく先進国性を金融面で計ったら、日本人の平均レベルはほとんど「後進国」であろう。

時代に取り残されてはいけない。学ぶのである。誰も助けてくれない。それだけは確かだ。

わたしが昨年パン・ローリング社から出した「一粒萬倍の株式投資宝典」には、わたしのオリジナルの考えなど全体の2割くらいしかない。ほとんどは、アメリカでも日本のプロでも、誰でも知っている常識をまとめたものだ。

上げても下げても「買い」だけで生涯資産を作る一粒萬倍の株式投資宝典
——お金の不安から逃れるための実戦マニュアル

それも、マクロ(全体観)から、ミクロ(個別銘柄)、そして資産の運用計画やポジション管理に至るまで、実戦で知らなければならないことを、マニュアルとして用意したものだ。きわめてオーソドックスな内容だ。

たいてい世の中にあるこの種の本は、さも「当たります」的な触れ込みか、特殊な技術論・方法論に特化していて、あまりにも一つの手法に偏っていすぎる。さもなければ役に立たない一般論か、ネットでググればすぐ検索できる制度や税金や商品性格の解説ばかりだ。わたしごときの出した本のレベルですら、今まで一冊も無かったことのほうが不思議だ。

わたしの本は、逆である。「当たらない」ということが前提になっている。予知はできる。しかし、必ずそうなるわけではない。投資というのはそう簡単に「当たるものではない」のだ。ましてや、個別銘柄の株価上昇など、めったやたらに「当たるもの」ではない。だから「当たらない世界」でどうやってリターンを積み上げていくのか、がコツなのだ。

正直言えば、わたしは相場が下手なのである。頭も悪い。だから、どうしたらいいのかをこの30年間考え続けてきたのだ。優れた結論ではない。しかし、およそ市場で戦っていくには、これだけのことを知らなければ、最終ラウンドまで生き残ることはできない、それはなにかをはっきりさせることはできたと思っている。

体の小さな女性が、大きな筋肉隆々の男性に喧嘩で勝てると思うか? 常識で考えれば、ありえないことだ。しかし、現実にその女性はいとも簡単にその男性を倒してしまう。合気道などの護身術を身につけていたからだ。

市場は、筋肉スポーツの世界とは違う。老若男女、等しく市場では平等なのである。プロもアマも無いのだ。力わざではなく、知っていなければならないコツ(ルールと言っても良い)を知っているか、どうかだけの違いが、勝敗を分ける。

しかも、プロ(機関投資家、ファンドマネージャー)より、個人のほうが遥かに有利な立場にあるということを知っておくとよい。彼らは暴落に際して、すべてを現金化して「逃げる」ことができない。仕事の規約上、それができないのだ。

だから、さまざまな工夫をして暴落のダメージをカバーしようとするが、結局それが出来る人はごくごく限られている。しかし、個人にはそれができるのだ。個人にとっては、暴落はチャンスですらある。なぜなら、個人には「職務上の制約」がなく、自由な存在だからなのだ。なぜ、「自由」なはずのあなたが、「職務上の制約」から暴落を回避することができない金融業者の言うことを真に受けて、彼らのつくった商品に何の疑問も抱かずに、どうしてそうも資金を投入し続けるのか、わたしには逆立ちしてもそれが理解できない。

市場の常識を知って瞠目し、自身の非常識に慄然とし、果敢に世界観を変えたほうが良い。国も社会も、金融業界も、だれも個人を救ってなどくれやしない。利用されるだけがオチである。生き残るための方法は、目の前にある。あなたがただ知らなかっただけのことだ。



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