ええかっこしいは嫌われる
これは413回目。
誰しも嫌いなのは、「ええかっこしい」でしょう。どこにでもいるタイプです。そして誰にでもそうした性向はあるものです。それでも、やはり「ええかっこしい」は「ださい」のです
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「ええかっこしい」を、別の言葉に言い換えるなら、きっと「きれいごとばかり言う」ということなのだろう。
メディアだそうだ。
なんらかの地位や職位にある人が、立場の建前でものを言うときにもこの「ええかっこしい」が見え隠れする。
人間、なかなか素っ裸にはなれないもの。
ポピュリズムといって、トランプ大統領が批判される。なにか世の中で注目を集める言動があると、すぐポピュリズムだと非難が飛ぶ。
あれは一体なんなのだろうか。ポピュリズムは「大衆迎合主義」という意味で使われる。
しかし、民主主義というのは「大衆迎合主義」なのではないのか。民主主義が絶対正しい結論を導き出せる崇高なイデオロギーだと、ほんとうに信じているのか。
間違いだらけである。ただ、その自浄作用があるから、崇高なイデオロギーなのだ。間違わないからではない。
その意味で、自分の「綺麗事の理屈=ええかっこしい」を護るために、反対い意見者を「ポピュリズム」であるといって非難するほうが、よっぽど品がない。
こういう人種は、たいていエリートと呼ばれる人たちに多い。権威をバックに持っている人たちである。
ああいやだいやだ。そんな人間にはなりたくない。肩が重くなってしかたがない。
こういう反権威の姿勢というものの存在はは、春秋戦国時代にまで遡ることができる。たとえば、老子だ。
老荘思想といって、後の道教の理論的支柱となっていったイデオロギーだが、教祖とされる老子は、道教では神にまで祭り上げられてしまった。
この老子という人物は、諸子百家の中でもとりわけ謎に包まれている。そもそも一人の人間なのか、複数の人間の合成された人物なのか。
時代もはっきりしない。諸説紛々である。いまのところ、老子もしくは老子に仮託される思想は、少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。人物はなかなか特定できないが、思想としてはすでに存在していたわけで、これは揺るがない。
『老子道徳経』によれば、老子は「小国寡民」を理想とし、君主に求める政策は「無為の治」。
このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思想と受け止められる。
だから後に道教の仙人思想に結びついていくことになる。
老子を読むと、なかなかいいことを言っている。
・・・いかなる人も夢を見ている限り、それが夢であることに気づかない。
・・・白雁は白くなるために水浴びする必要はない。あなたも自分自身でいること以外に何もする必要はない。
・・・困難なことは、それがまだ易しいうちに始めるといい。偉大なことは、それがまだ小さなうちにやるべきだ。世界中の困難な問題も、かつては易しかったに違いない。偉大なことも、かつては取るに足らない小さなことだったに違いない。千里の旅も、第一歩から始まるのだ。(これはとくに有名な教えだろうから、たいていの人が知っているはずだ。)
・・・すべてのものの中でもっとも柔らかいものは、もっとも堅いものを打ち負かすことができる。なぜなら、形の無いものは隙間の無い所にも自由に入り込むことができるからだ。(これも有名だ。漢文では『柔よく剛を制す』で習ったことがあるだろう。)
およそ片肘を張らないその教えは、儒教の大義名分論とは完全に異質なものである。
思想というのは、都合よく使えばよいのだが、わたしなどはともすると老子のほうが、孔子よりも日常が馴染む。
たぶん、孔子や孟子のような儒学は、「いざ鎌倉」というとき、つまりここが勝負どころだというときに、精神の昂揚には絶大な威力を発揮する名言が多い。王陽明もそうだろう。孔子→孟子→王陽明という流れは、はっきり言って、行動で示すという情念がどんどん強まっていく流れだ。
だから、いざというときには、勇気百倍という言葉がそこには散りばめられている。
ただ、日常はそればかりしていると、人間誰しも疲れてしまうのだ。脱力こそが、いざというときの本領発揮の原動力にほかならない。だからわたしは老子が好きだ。
ふだんは、格好悪いほうが人間、粋ではないか。