定石と直感
これは308回目。囲碁はその頭脳戦のイメージから、理詰めでものを考える人のほうが有利なように見えます。実際、欧米では数学・物理を専門にした人やコンピュータ・プログラマーなどに囲碁高段者が目立つようです。理系の頭脳を持った人のほうが碁の才能がありそう、と考えるのはごく自然かもれしれません。ところが、日本では昔から文壇に碁の強い人が多くいました。統計があるわけではないから、なんとも言えないのですが。
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戦国武将・真田昌幸は最初の主君である武田信玄を生涯において敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。天正13年(1585年)12月に昌幸は信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとしたほどだった。
信玄も昌幸も囲碁を愛し、かなりの技芸に達していたようで、真偽不明ながら両者の棋譜も残っている。
昌幸は信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたからさもありなん。
『真武内伝』によると、秀吉に仕えるようになってからも、よく秀吉に誘われて囲碁を打ったようだ。
そのとき、秀吉が「おまえの、碁はかつての主君、信玄の戦(いくさ)によく似ておるな。信玄は身構えばかりする人だったが。」と評した。
それに対して昌幸は「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えたと伝わっている。
信長も秀吉も、家康もそうだが、当時の武士は囲碁を好んだようだ。囲碁には、確かにその人となりがよく現れるというのも、事実なのだろう。
しかし日本の囲碁というものは、戦国期に広く武将の間で盛んとなったものの、じつはそもそも枕草子や源氏物語にも囲碁の場面がよく登場する。ある人の研究によると、その文章表現から推測して、清少納言や紫式部は少なくとも現在の初段以上の棋力はあったらしいという。また、江戸時代に碁の強い人といえば、坊さんと相場が決まっていた。
古代女流文学と囲碁。そして、仏教と囲碁。囲碁は、もしかすると感覚的な要素が強いゲームかもしれない。頭脳戦だという先入観で入門すると、最初はとまどうかもしれないのだ。理屈で考えようとすればするほど、わからなくなってしまう。そして挫折する。
それは、碁が打てるようになるためには、図形的なパターン認識に慣れることが重要だということに気づかないからだと、プロは言う。言ってみれば、超初心者の段階では、まず「ひと目でアタリがわかる」ということが上達のポイントになるらしい。次の段階は、基本の定石が、やはり考える以前に、ひと目で「見えるようになっていく」ことなのだそうだ。
つまり論理的に考える(左脳の機能)よりも、視覚的にとらえる(右脳の機能)ことのほうが圧倒的に大事だということになる。極論をいえば、中級レベルまでは考える人ほど上達が遅れる、ということになりそうだ。
年齢が高くなってから入門した人ほど、碁を理屈で考えようとする傾向がある。入門・初級段階にある方は、「碁は8割以上が右脳を使い、左脳(論理)を使うのは2割以下」だということを肝に銘じるべきなのかもしれない。要するに直感が大事だということだ。
碁はパターン認識であり、感覚的な要素が強いといっても、要所、要所では形勢判断と、それに基づく戦略、戦術が必要になってくる。碁の理論や勝負勘のようなものが生きてくるわけだ。
碁を戦略的に考えられるようになるのはアマチュアで、三・四段になってからのこと。それまでは「ああ来たらこう打つ」といった部分的な読みの力と、勝負勘がものをいうという話だ。
勝負勘は持って生まれた才能のように思われがちだが、囲碁以外のゲームでも養える。さまざまな賭博性の高いゲームに慣れ親しんでいる人は、囲碁も初段近くまではすぐに到達できらしい。その意味で、俗にいう勝負事の好きな性格の人は、囲碁も強くなる資質があるといえるだろう。
プロはどんなに穏やかな性格の方でも、芯は負けず嫌いだ。負けず嫌いでなければ強くなれない。負けた悔しさの度合いが強い人は、局後の敗因分析を熱心にやり、またその後の勉強に集中力を発揮する。逆に、負けても何も感じない人には、進歩はゆっくりと訪れる。
それでは、負けず嫌いの人は皆、碁が強くなれるのだろうか? 残念ながら囲碁や将棋の場合は、「逆も真なり」というわけにはいかない。むしろ、上達を妨げる場合がある。
資質が裏目に出て、上達が遅れたり、挫折したりすることがるのだ。
モノの本によると、次のような人は、せっかくのセンスが役だ立つ、強くならないとなっている。わたしにはわからないが、紹介しておこう。
・人を避け、パソコン対局ソフトを相手にする
・目先の勝敗にこだわりすぎる
・仲間よりも上達が遅いので、悔しくて碁から遠ざかる
・たくさん石を置く相手を避ける(置碁をさせてくれるような、強い相手と積極的に対戦すべきだ、という意味らしい)
・人に教えられるのが嫌い
あるていど上達してきてから有効性が発揮される定石のことだが、これは居合いのような武術などでも同様に「型」が重要だ。上に述べたように、定石に固執するとろくなことはないが、定石や型と身につけることで、自然に即時対応ができるようになる。定石や型通りに戦いが行われることはほとんどない。しかし、身についていれば、自然に変化に応じた上手を打つことができるのだ。「定石は覚えて忘れよ」はいわば鉄則なのであろう。
だから、定石についてプロに尋ねると、「覚える必要がない」という答えが多いようだ。武宮正樹九段などは、自分が定石を知らないことを自慢するがごとく語ったことがある。小林覚九段の解説会でも「僕は定石をあまり知らないので…」などとのたまう。
やはり、先入観が邪魔をするということを言っているのであろう。身についていれば、先入観にはなりえない。白紙の状態で(無心で)盤面全体を見つめて考えよ、常識を疑え、ということだろう。
いやはや、勝負事というのは、調べてみればみるほど、いかにも投資の極意に近いようだ。かくいうわたしは、ゲームというゲームが下手だ。実に弱い。じゃんけんでさえ、きわめて苦手だ。それが投資の世界で、えらそうなことと書いたり話したりしているのだから、恐れ入る次第。