こんな日本人たちが、確かにいた
これは232回目。日本と台湾を結ぶ、細い細い糸の話です。その糸は、とても細いのです。何しろ、国交すら無いのです。政治的には、私たちの国は、台湾を国家としてすら認めていないのです。日本人のほとんどが知らない糸でしょう。しかし、その糸は確かに存在し、日本と台湾とを驚くほど強く結びつけているさまざまな要因を、雄弁に物語ってもいます。
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ルース・ベネディクトが「菊と刀」を書いて、それが戦争中、米軍にとって日本軍と日本兵が一体どういう精神構造を持っているかを考える重要なテキストとなった。
以来、日本人の持つ「恥」を恐れる文化性というものが、ともするとネガティブな意味合いで語られることが多くなった。
確かに、この「恥」を意識するあまり、合理的ではない言動・判断ができにくいという側面はあるものの、一方でこの「恥」を重視するということが、どれだけ尊いことか、それが忘れさられてしまうようでは困る。
恥を知らない人間ほど、あさましく、おぞましいものはないからだ。日頃、「恥」を「恥」とも思わなくなってきている自分自身に気づくことが多い。
台湾南部の古都・台南の安南区に、鎮安堂という廟(びょう)がある。飛虎将軍廟とも呼ばれている。ご神体は、日本兵である。
1944年10月12日。終戦の前年である。アメリカの機動部隊がフィリピン攻略作戦の前哨戦として、日本側の制空能力を沈黙させるために、台湾各地に航空決戦を挑んできた。台湾には、歴戦のゼロファイターを幾多も生んだ、台南航空隊があったのだ。もっとも、この頃には、名パイロットたちのほとんどはラバウルなど南方に転戦していたから、往時のような技量は、もはや無かった。
この日を皮切りに、4回に及ぶ大空戦が展開された(双方1300機前後で激突)。いわゆる台湾沖航空戦である。最終戦果は、日本機が312機未帰還。アメリカ側は、89機撃墜。明らかに日本の敗退であった。ちなみに、情報錯綜や誤報もあって、大本営は大勝利と誤認して発表。このことが、後のフィリピン戦役に重大な支障をもたらすことになった。
それはさておき、この最初の10月12日のことだ。この日、航空戦に参加し、戦死した杉浦茂峰少尉という人物がいた。1923年、茨城県水戸市で生まれた杉浦が撃墜される光景を目撃していた住民は多かった。
そのとき杉浦の戦闘機は、銃撃を受け、機体が発火した。杉浦曹長(生存していた当時)は落下傘で脱出することもできたのだが、戦闘機が集落に墜落して村人たちに被害が及ぶのを恐れ、そのまま畑と魚の養殖場まで機体を誘導、その後脱出を試みた。しかし速度が落ちていたため、さらに米軍の機銃掃射を浴びて地上に落下、戦死したという。
その後、毎晩のように白い帽子と服を着た者が、飛行機が墜落した場所の近くにある魚の養殖場付近を歩いているのを、村民たちは目撃するようになった。夜陰に乗じて魚を盗みに来たのかと思って駆け寄ったが、人影が見えない。この亡霊を見た人が増え、噂はたちまち広がった。しかも当時、農業は不作続きで、魚の養殖もうまくいっていなかった。
現地で農業をしていた呉省事氏が占い師に占ってもらうと、その亡霊は当時の戦死者だという。1944年に日本兵が戦死したことを思い起こした住民の呉省事氏たちは、五坪の土地に廟をつくり、毎日お祈りをしたところ、その地域は豊作が続き、魚の養殖も順調にいくようになり、宝くじが当たるものが続出するようになった。
そこで、この戦死者は誰だということで調べたところ、杉浦茂峰少尉であることが判明したわけだ。ただ、台湾は戦後、蒋介石率いる中国国民党のもとで強権支配を受けてきたため、日本兵を神様として祀っていることは長らく公言できなかった。
転機が訪れたのは、李登輝政権になってからだ。1988年、李登輝氏が総統になって以降、台湾でも民主化が進み、言論の自由などが認められるようになった。このため、呉省事氏は地元の人間たちの協力を得て1993年、三十坪の敷地を確保し、杉浦茂峰海軍少尉の神像を祀った「鎮安堂・飛虎将軍廟」を建立。「飛虎」とは戦闘機という意味だ。
この飛虎将軍廟では毎日、朝7時と夕方4時の2回、タバコを神像の前にお供えし、祝詞を奏上する。21歳の若さで戦死した杉浦少尉に対して、せめてタバコだけでも楽しんでもらいたいという願いから、タバコをお供えするようになったのだという。
ちなみに毎日奏上する祝詞は、驚くべきことに、日本の国歌「君が代」と「海ゆかば」(信時潔作曲)なのだ。日本兵を祀るためには、「君が代」と「海ゆかば」がふさわしいと、飛虎将軍廟をお守りしている台湾の人たちが思っているのだ。
近年では、飛虎将軍のエピソードを郷土史として小学校で教えており、学芸会では児童たちが杉浦の人生を演じているという。
近年台湾では、台湾人としてのアイデンティティーを育むため、戦前からの台湾の歴史を詳しく学ぶようになってきているそうだ。当然のことながら日本統治時代の歴史についても再評価が進んでいて、具体的には日本統治時代の建物の修復・再現が各地で進んでいる。
最近では、「飛虎将軍を一度、里帰りさせるべきだ」という声が上がり、2016年9月、飛虎将軍廟管理委員会の26人が、飛虎将軍の御神体を飛行機の客室に乗せてわざわざ来日し、杉浦少尉の故郷である茨城県水戸市に里帰りもしている。
中国メディアの「今日頭条」は、東南アジア諸国も第2次世界大戦中に日本によって侵略されたというのに、「なぜ日本を恨まないのか」と疑問を投げかける記事を掲載した。
記事は、アジアの近代化の歴史は、西洋の侵略者への対応の歴史であったとし、第2次世界大戦までに独立を維持できたのは、日本とタイと中国だけだったと指摘(松川註:実際には中国は半植民地状態で、なおかつ軍閥・共産軍と国民党政府が乱立割拠する分裂状態であったから、独立などとは程遠い)。
そのほかの国は西洋の列強に植民地にされていたと伝え、なかでも日本はもっとも近代化に成功した国であり、その日本が西洋の列強によるアジア侵略に危機感を抱いたのもごく自然な流れだったとした。
続けて、「日本の軍国主義者が中国を侵略したことを弁護するわけではない」とする一方、第2次世界大戦で、日本の多くのエリート達が植民地化されたアジア諸国の解放を目指していたのも事実であるとし、戦争が、西洋諸国とアジア人による戦いだったという側面は否定できないとした。
さらに記事は、ビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)大学の教授がかつて「東南アジアの植民地政権は日本によって打ち破られ、日本は東南アジア諸国の人びとに民族独立の鼓動を与えた」と考察していることを伝え、日本人のなかには、「第2次世界大戦の終結によって、西洋の白人はアジアの植民統治を維持できなくなり、アジア諸国は解放されたのだ」と考える人がいると指摘した。
中国人の立場からは「賛同できない」としながらも、こういった考え方は東南アジア諸国では比較的認知された考え方であり、こうした「歪んだ考え方」があるから「東南アジア諸国は日本を恨まないのではないか」と主張しているようだ。
どちらが「歪んでいる」のか、いろいろ意見はあるだろうが、こういう自身の立場を超えた論評が出てくるようになったということは、かなり中国での一般的な民意というものも、共産党政府が言っていることと違って、かなり「進歩」したという事は言えそうだ。
実際、中国人が「南の島」に憧れるブームが増大している中で、比較的近場でそれを満喫できる、パラオ諸島が大人気だそうだが、そこで彼らはとんでもない現状を目の当たりにして、当惑する。
パラオは、ご存知のように第一次大戦後、日本の委任統治を受け、コロールに日本の南洋庁が設けられた。太平洋戦争直前には、日本人25,026人、朝鮮人2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人という人口構成になっており、4人に3人が日本人ということになる。
戦後、アメリカの信託統治を受けた後、1994年に独立している。中国人が驚くのは、その国旗である。「日の丸」だ。ただ、色は違う。青地(海)に黄色の丸(月)である。寸法や位置も、日の丸とはやや違う。
バングラデシュも親日国家であるから、日の丸を模しているが、それと同様に、パラオ人も大変な親日である。高齢者はみな日本語が流暢だが、さすがに若い世代に人口構成が入れ替わってきているので、そうそう日本のように日本語が通じるわけでもなくなっている。が、公式には公用語は、パラオ語、英語、そして日本語となっている。
若い世代でも、普通に使われる「パラオ語」として、日本語が残ってしまっているのだ。たとえば、扇風機は「センプウキ」、電話は「デンワ」、ブラジャーが「チチバンド」、ビールを飲む事は「ツカレナオス」、美味しいは「アジダイジョウブ」、混乱することを「アタマグルグル」、飛行場は「スコオジョウ」などだ。
さて、神になってしまった日本人のことをさらに続けよう。台湾南部の港湾都市、高雄の紅毛港・保安堂では、名も知らぬ日本軍の艦長のものとされる遺骨が祭られている。
ご祭神は、「海府大元帥」。そしてご神体は、1946年に漁民が海の中から拾った頭蓋骨である。
漁師たちは頭蓋骨を寺院に祀って弔うことにしたのだ。するとこれまででは考えられない豊漁が続いたため、彼らは漁猟祈願として頭蓋骨の祀るようになったわけだ。
その後、ある漁師の夢に頭蓋骨の本人だと名乗るものが出てきた。いわゆる、「夢枕に立つ」というやつだ。彼は夢の中で「帝国海軍38号哨戒艇艦長 太田」と名乗ったそうだ。ちなみに、この夢を見た漁師は、日本語ができない。1990年のことである。
夢告によると、その日本軍人は、「靖国神社に帰りたい」と言ったという。漁師たちは、そこで日本の軍艦を模した形代(かたしろ)をつくって奉納し、現在に至っているようである。
わたしも調べてみたが、確かに哨戒艇38号は、確かに存在した。旧帝国海軍の哨戒艇一覧を調べたところ、駆逐艦蓬(よもぎ)のようだ。 1944年(昭和19年)11月25日、マニラ向船団護衛の帰途、バシー海峡(台湾とフィリピンの海峡)西口で撃沈されている。この海域は、高雄に非常に近い。
具体的には、米潜水艦アトゥルの雷撃を受け、艦橋および機械室付近に魚雷2本を被弾。1分ほどで沈没。艇長以下、145名が戦死している。
ただ、艇長の名前が違うのだ。記録では高田又男大尉となっている。「太田」ではない。日本語のできない漁師のことゆえ、亡霊の称した名前を聴き違った、あるいは覚え間違ったのかもしれない。保安堂でも、朝晩に「軍艦マーチ」を流して、お祈りをしているとのことだ。
実は、これだけではない。台湾にはどういうわけか幾多の日本人が、神になっている。軍人ばかりではないのだ。たとえば、森川清次郎がそうだ。森川は、1861年(明治維新の7年前。つまり江戸時代生まれ)横浜の農家の出身である(一説には、山梨出身とも言われる)。彼も、台湾の廟で祀られている。
それは嘉義にある。ここに森川清治郎巡査が土地神として祀られる富安宮があるのだ。毎日のように観光バスが押し寄せ、多くの台湾人が富安宮を訪れている。
日本では、刑務所の獄吏という記録しか、残っていない。日清戦争後、日本の統治がはじまったころ、1897年(明治30年)に渡台。嘉義県東石郷副瀬村の派出所勤務となった。当時治安が悪かった村の治安改善に尽力した。また、識字率が非常に低かった村において、教育の重要性を認識し、私費を投じて、日本から教材を取り寄せ、教師を雇い寺子屋を開き、識字率の向上に貢献した。
ある時に、海の岩場に取り残されて身動きが取れなくなっている村人を助け、自身が負傷するということもあった。
そうした森川巡査だが、台湾総督府が村に漁民税を制定した際に、漁業中心の貧しい暮らしをしていた副瀬村は立ち行かなくなった。そのため、村民たちは、税の減免を森川へ嘆願した。これを聞いた森川は村民の意向を聞き入れ、嘉義庁東石港支庁へ赴き、減税を求めた。
しかし、当時の支庁長は、森川を罵倒。住民を扇動し、謀反を起こそうとしているとして要請を跳ね除けた上、森川を訓戒処分に処し、徴税を重ねて命じた。森川は1902年4月7日、所持していた村田銃の引き金に足の指をかけて頭部を打ち抜き自殺した。後に村人達により富安宮が建設され、土地神として祀られた。
巡査の死後、1923年に副瀬村や近隣にコレラ脳炎などの伝染病が流行。当時の村長の夢に巡査が現れ(ここでも夢告が登場する)、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」ということを告げたという。
ちなみに、嘉義市内にある日本統治時代1911年(明治44年)に開園した嘉義公園というのがあるが、ここには戦前、嘉義神社が置かれていた。すでに本殿は無いが、今も当時の社務所や灯篭、手水舎が残る。社務所は嘉義史跡資料館になっている。往時の台湾における日本建築がまだ、そのまま生きている。
最後に、もう一人書いておこう。彼の名は、廣枝音右衛門。神奈川県小田原市、現在の根府川出身である。逗子開成中学から日本大学予科を経て、1928年(昭和3年)に幹部候補生として佐倉歩兵第57連隊へ入隊。軍曹まで昇進する。
満期除隊後、湯河原町の小学校教員となるが、1930年(昭和5年)に当時難関の職業であった台湾総督府巡査を志願し晴れて合格、台湾に渡る。当時の台湾の警察官は、先述の森川巡査の例でもわかるように、治安維持の他にも台湾島民の文化水準を引き上げる役割を担っていた。頭脳明晰でありながら温厚な人柄により廣枝は部下に慕われただけでなく、島民からの信頼も厚かった。
昭和17年、警部に昇進した廣枝は、北部の新竹州竹南の群政主任として勤務していた。太平洋戦争の戦線拡大にともない、台湾で結成された総勢2000名に及ぶ、海軍巡査隊。総指揮官を拝命する。隊員のほとんどが台湾人である。つまり、「軍人」ではなく、「軍属」部隊である。
海軍巡査隊は、翌年12月8日(真珠湾のちょうど2年後だ)、高雄から特務艦に乗艦し、フィリピンのマニラ南岸のカヴィテに上陸。任務は、物資運搬・補給などの後方支援である。
戦局が悪化し、1945年(昭和20年)には、マニラの戦いが始まった。廣枝は重傷を負ったが、大声で部下たちの名前を呼び励ましつづけた。迫撃砲弾が降り注ぐ中、危険を顧みず、自らさらに重傷者たちを野戦病院へ護送するなど率先垂範を行った。
圧倒的な米軍の反攻を前に進退窮まったマニラの海軍防衛隊は、イントラムロス要塞に全軍を招集。廣枝たちも集合した。そこで、司令部から、棒地雷や爆雷を配布され、敵戦車へ自爆攻撃を命じられている。
2月24日、すでに戦局の前途を達観していた廣枝は、苦慮した末に、巡査隊の小隊長・劉維添を伴い、米軍とひそかに交渉を行ったとされる。いわゆる反逆行為に当たるが、部下は全員台湾人である。日本人ではない。しかも、軍人ではなく、軍属であり、もっと言えば、警察部隊である。廣枝は、おそらくそうしたことを深く案じていたのであろうと推察される。そして、部下たちに、最後の訓示を行った。
「諸君たちは、よく国のために戦ってきてくれた。しかし、今ここで軍の命令通り犬死することはない。祖国台湾には、諸君らの帰りを心から願っている家族が待っている。諸君らを連れて帰れないのは、残念だが、全員、米軍の捕虜となろうとも、生きて帰ってくれ。わたしは日本人だ。だから、責任はすべてわたしがとる。」
廣枝は部隊全員を投降させ、自身は拳銃で頭部を撃ち、自決。昭和20年2月23日午後3時。享年40歳。台湾には、妻子が3人いた。
音右衛門の決断によって、生きて台湾に帰還できた巡査隊の面々は、戦後、新竹州警友会をつくり、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、廣枝音右衛門隊長を祀った。
劉維添は、1985年(昭和60年)、廣枝の自決した場所で土を採取して持ち帰り、廣枝未亡人ふみに託している。ふみが他界した後、獅子頭山の位牌には、ふみの名も加えられた。
どれもこれも、たいていの日本人が知らない、台湾と国交の無い日本とをつなぐ細い細い糸である。台湾にとって、日本とは何なのか。そして日本にとって台湾とな何なのか、深く考えるとき、この細い細い糸に必ず行き着く。なにより、日本人とはどうあるべきかを、その糸は解きほぐして見せてくれる。少なくとも、わたしたちが先人たちを前にして「恥ずかしくない日本人でありたい」と思える、細い細い糸である。