誰が殺したのか?

文学・芸術

これは273回目。Wikipediaなどで、古今東西の著名な暗殺事件をざっと数えてみますと、直近の金正男氏の暗殺を含めて、ちょうど300件余りです。Wikipediaで一覧に供せられているくらいですから、世界史的にそれなりに記録として残されているものほとんどすべてでしょう。その割には、意外に少ない気がします。

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日本では、幕末にも数々の暗殺が、討幕派のテロリストたちによって行われているのだが、それでも数としてはそれほどでもない印象だ。

もちろん、世の中には病死とされているものの、実は暗殺だった可能性が高いというケースも多い。たとえば、江戸時代・二代将軍の徳川秀忠正室「江与」がそうだ。

記録では、病死ということになっている。お江与とは、江(ごう)とも、小督(おごう)とも、また江与(えよ)とも呼ばれる、崇源院のことだ。

彼女は、浅井長政の三女。母は、織田信秀の娘・市(信長の妹と「されている」。個人的にかなり疑問。もっと遠戚のはずだ。)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉・茶々(後の淀殿)は有名だ。

徳川家としては、二代将軍秀忠の正室であるということから、血統的には織田政権からの「直系」の正当性にもなっている。この「江与」が三代将軍・家光の母ということにされているが、実はそうではなく、家康の妾になっていた明智光秀筆頭家老・斎藤利三娘の「おふく」(春日局)に、家康が産ませた子であるという俗説が根強い。

このNoteでも「誰が信長を殺したか」シリーズで、このへんの複雑怪奇な人間模様については書いているが、あの仮説を前提にすると、家康と明智一党との血脈で、将軍家を継承させていこうとしていくには、信長直系の「江与」は邪魔になる。

もし「江与」が「家光の出自」を知っていたとしたら、実父の仇敵・明智一党の血脈など許容できるわけもない。家光が、「二世権現」守りを後生大事にし、実父とされる秀忠より、ひたすら家康を崇敬していたことなど、二人が実父子であることをうかがわせる傍証は多い。

実際に何があったかは、当然闇の中である。ただ、はっきりしていることは、芝・増上寺における「江与」の墓所の調査では、徳川家累代縁者の中にあって、唯一彼女だけが火葬されていた事実が判明している。

しかも、(疑えばキリがないのだが)ちょうど夫・秀忠や息子たちは京都に行っており、江戸には不在の時期である。春日局が、暗殺の証拠を隠蔽するために火葬したのではないか、という俗説が根強いわけである。遺体が残っていては困るのだ。毒殺、刺殺いずれにしろ「証拠」を隠滅しておく必要に迫られた措置だろう。

よく歴史学者が、信憑性が高いとする「一級資料」というものほど、いい加減なものはない。一級資料とされるもののほとんどが、残された公式記録だからだ。それらは常に、勝ち残った勝者の側が都合よく改竄(かいざん)したものにほかならない。そのまま真実が記録されている可能性は限りなくゼロである、と思って構わないだろう。

今でさえ、都合の悪いことは隠蔽・改竄されていることが多々あるというのに、近代以前など押して知るべしである。

暗殺というものほど、割に合わない政治行動も無いと言われるが、それは実行犯にとっての話だろう。裏であやつる人間や組織にとっては、自らの手を汚さない限り、それなりに功利のソロバンが見合うものに違いない。さもなければ、政治リスクの高い暗殺など指示しようはずもない。

日本の歴史のみならず、世界史においても、病死や事故死とされていて、実は暗殺されていたというようなケースは、ずっと多いかもしれない。有名なマリリン・モンローの睡眠薬による自殺なども、当時から「消された」説が根強い。

モンローに関しては、さまざまな「消されたのではないか」という疑惑があるのだが、公式には睡眠薬の多量摂取ということになっている。が、考えてもみたらいい。致死量の睡眠薬は、当時彼女が常用していたものであれば、100錠飲まなければならないことが判明しているのだ。

つまり、ありえない。吐いてしまうからだ。検死の結果、モンローの肛門から左胸にかけて紫色に異常なほどの変色をしていたことから、肛門から睡眠薬が浸透して心臓に達した可能性が報告されている。

それが、自殺だとして、自分で肛門に致死量の睡眠薬を押し込んで死ぬなどということがあるだろうか。これ一つでもモンローがいわゆる自殺ではないということを示している。

とすると、誰がなぜモンローの口を封じなければならなかったかが問題になるが、これは話があまりに複雑になるので、ここでは割愛しておこう。しかし、この後モンローが同時に関係を持っていたケネディ大統領暗殺、弟のロバート・ケネディ(司法長官歴任)暗殺と、一連の人脈に暗殺が頻発したことから、よほど執念深い動機が背後にあったのだろうということは推察できる。

再び古い時代に戻るが、豊臣政権下における千利休切腹という大事件があった。ここで問題になるのは、利休のことではない。秀吉の異母父弟・秀長の死である。

秀長は、家康ですら心服しており、「秀長が太閤を継ぐのであれば、一もニもなく従う」と述べていたくらいだ。その秀長は、1591年1月22日に死去。わずか51歳であった。

そして一か月後の2月28日に千利休切腹というあわただしさである。どうみても、豊臣政権下で重鎮となってきていた利休を排除するために、まず秀長が暗殺されたという線を疑いたくなる。なぜなら、秀長こそ利休を庇護していた最大の実力者であったからだ。

もちろん、利休排除の実働部隊が石田三成一派であったことは明らかになっているから、秀長暗殺は、石田三成らが行ったということになる。では、それを秀吉が命令したか、黙認したか、一体この点はどうだったのだろうか、ということになる。

実は秀長暗殺説には、もう一つある。家康=利休結託説である。先に述べたように、秀長は大変な人格者であった。豊臣家の実質支配や、最終的な転覆など遠大な謀略を備えていた家康としては、秀長こそ最大の邪魔者であったということになる。

この説は、利休による秀長暗殺(家康の教唆)というシナリオに基づいている。もともと、すでにこのころ利休と秀吉は確執が始まっており、東京芸術大学創立者の岡倉天心の「茶の本」には、千利休が豊臣秀吉暗殺に失敗したという説を唱えている。

さらに、その後利休は当時の記録である「医学天正記」に書かれている秀長の死亡に至る症状から推測すると、胃腸系のヒ素中毒の可能性が指摘されている。

つまり、利休としてはやがて、秀吉によって自分が排除されることを予測し、家康に死後、自分たちの遺族が家督を相続できるよう、家康に頼んでいたという線が出てくる。秀長急死の2日後に、利休は家康と二人だけで茶をたてているのである。

その一か月後に、利休切腹となるがここでも不思議がある。秀吉による利休切腹命令が下されると、諸大名はこぞって利休の除名嘆願に奔走した。が、唯一家康だけがそれをしなかったのである。ただ、家康はその後、遺族の家督相続には強力に動いている。そこには、二人の間で、生前取り交わされた「信義」があったのではないか、と想像したくなるところだ。

このように、秀長急死というのは、病弱によるただの病死なのか、実は利休切腹までからんでくる、もっと大きな謀略の一環なのか、いまだに諸説あって定まらない。もっといえば、この伏線は本能寺の変まで遡るほどの深いものであったかもしれない。

本能寺における信長最後の茶会には、公家の代表格すべてが招かれているという異様さなのだが、そこにはどういうわけか、津田宗及や千利休などは招かれていない。招かれたのは、九州の豪商・島井宗室だけであった。

このとき、利休や宗及は、堺で家康をもてなし茶会を催していたのだ。家康と光秀、秀吉をつないだ線が、伴天連や堺の商人だというのが、この説の主張なわけだが、もしそうだとすると、後の秀長暗殺の遠因はもしかすると、実は本能寺にまで遡らなければならないものかもしれない。

以前、このNoteで「裏読み・元禄赤穂事件」を書いたことがある。将軍綱吉正室・鷹司信子と、次期将軍家宣正室・近衛熙子が、赤穂浪士たちと連携していたという解釈の話だった。覚えておいでだろうか。

あそこでは書かなかったが、実は綱吉が死亡した後、不可解なことが起こっていた。信子が一か月も立たないうちに急死しているのである。問題は信子の墓所だ。現在改葬されているが、江戸時代を通じて墓所には金網が掛けられていたことはよく知られている。

墓石に金網を掛けるというのは、「罪人」としての見せしめである。綱吉を刺殺したという俗説も、当時からあったが、一体信子の最後がどういうものであったのか。少なくとも、病死・急死では片づけられないものがあることは、容易に想像できる。あるいは、やはり暗殺であったかもしれない。

このように、病死とされていても実は謀殺だったのではないかという例は、実は非常に多い。表向きの正論をうのみにするくらいばかばかしいことはない。直近の金正男暗殺事件に関しても、おそらく誰も(わたしを含めて)北朝鮮による刺客が背後にいたのだと疑わない。誰もがそう信じているだろう。

しかし、本当にそうだろうか。当たり前すぎて、わたしなどは非常に気味が悪い。みんながそう思うように、「仕向けられている」としたらどうだろうか。メディアの一方的な報道というものには、よくよく距離を置いてものを考えたほうがいい。それで、一体だれが得をするのか、ということだ。

とても、わたしには金正恩総書記が得するとは思えない。本当の黒幕は、果たしてだれなのであろうか。確かに実行犯は、北朝鮮の特務機関とそれに雇われたバイトのような行動班だったのかもしれない。しかしもっと重要なのは、一体、だれが金正男の居場所と行動日程を、北朝鮮の刺客に「売った」のか、のほうが問題だ。



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