灰とダイヤモンド
これは272回目。生き方を変えたい。そういう切実な希求に、誰しも襲われることがよくあります。たいていは、自分の意志一つです。しかしそれが、極限の社会情勢の中にある場合には、悲劇的なほど困難に近いでしょう。
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そうした悲劇を描いたのが、ポーランド映画の名作『灰とダイヤモンド』だ。反骨の映画監督、アンジェイ・ワイダの、「抵抗三部作」の最終作品である。
ポーランドという、歴史そのものが悲劇の連続である国家なればこそ、国家とはなにか? 人間の幸せとはなにかを、痛切に自身に問い続けなければならない日常があった。
そんな中で、一人の暗殺者マチェクの短い人生を、カメラは追って行く。ただこの話、ポーランド人にとっては、誰しも知っている歴史が背景となっているが、縁が遠い日本人には、なかなか設定されている状況がわからない。とりわけ平和ボケした日本人には、何の予備知識もなくこの映画を鑑賞しても、それこそちんぷんかんぷんだろう。
まず、話は第二次大戦中の、「ワルシャワ蜂起」にさかのぼらなければならない。1944年6月、後になってみれば、ドイツの降伏まで1年を切ったこのとき、ポーランド東部に進出してきたソ連軍は、ワルシャワ市民にたいして、「ドイツ軍に蜂起せよ」と促した。
7月30日には、ソ連軍はワルシャワまで10kmの地点に迫ってきていた。ポーランド国内のレジンタンスは、ソ連軍と打ち合わせし、ソ連軍のワルシャワ突入とレジスタンス蜂起の段取りを決めた。
ところがポーランド東部に残存していたドイツ軍はこの時、猛反撃をしてソ連軍の進出を止めた。ソ連軍は補給が間に合わず、進撃を停止。この知らせは、レジスタンスには伝えられることが無かった。
むしろ、ソ連のモスクワ放送はワルシャワ市民に蜂起を訴えかけつづけており、このためレジスタンス側は蜂起の計画が予定通りとみなした。
8月1日17時を期して、5万人のレジスタンスは一斉に蜂起。ポーランド兵士たちは、橋梁、官庁、駅、ドイツ軍兵舎、補給所を襲撃。
ヒトラーは、状況からして、ソ連赤軍がワルシャワ蜂起軍を支援する気がまったく無いと判断。蜂起に対する弾圧と、ワルシャワ市街の徹底した破壊を命令した。
主力がワルシャワにはいなかったこともあり、当初ドイツ軍は劣勢だった。おまけに、ドイツ軍には、カミンスキー旅団、あるいはSS(ナチス突撃隊)特別連隊「ディルレヴァンガー」といった、非常に素行の悪さで有名な部隊が加わっており、彼らは戦闘よりも、市民への暴行や虐殺に励んだ。このため、ワルシャワ市民とレジスタンスの結束を一層強め、戦意を高揚させた。彼らが捕虜にしたドイツ軍兵士は、ことごとくその場で処刑された。
不可解なことに、この時点ではすでにソ連軍の一隊は容易にワルシャワ市街への突入が容易な状況であったにもかかわらず、傍観。しかも、英米は、航空機によるレジスタンスへの物資補給や、西側連合軍による航空兵力による支援を申し出たが、ソ連が拒否。次第に、物量・質において勝るドイツ軍の前に、レジスタンスは劣勢に回り、蜂起は失敗に向かう。9月末には、蜂起軍はほぼ壊滅した。
ドイツは懲罰としてワルシャワを完全に破壊。このワルシャワ蜂起で、レジスタンスは1万6000人が、一般市民の多くもレジスタンスにくわわっており、結局22万人が死んだ。(一方、ドイツ兵は2000人戦死あるいは処刑され、ワルシャワ在住のドイツ人も200人が、レジスタンスによって処刑されている)
翌年1月、ようやく進撃を再開したソ連軍は、17日、廃墟と化したワルシャワを占領。そしてソ連赤軍は、なんと共闘を約束したはずのレジスタンス幹部を逮捕し、徹底的に粛清し、戦後ポーランドに自由主義的な政権が成立する芽を完全に潰した。
ソ連の裏切りを憎んだ、生き残りのレジスタンスは、郊外の森に逃げ込み、ソ連軍進駐後は今度は赤軍を攻撃目標とするようになった。1950年代まで、彼らは「呪われた兵士」と呼ばれ、森の反共パルチザンとして存続。ポーランドに共産政府が樹立し、ソ連支配下に置かれた後も、政府要人暗殺などしばらく抵抗を続けていた。
このワルシャワ蜂起を指導したのは、ロンドンに亡命していたポーランド亡命政府である。ここに、映画を、そして監督のアンジェイ・ワイダを理解する上で、「ワルシャワ蜂起」のほかに、もう一つの歴史的事実を知っておく必要がある。「カティンの森」事件である。
ポーランドは、第二次大戦勃発と同時に、西からはナチス・ドイツ軍が、東からはソ連軍が侵攻し、あっという間に敗退。国家は二分され、第一次大戦でようやく復活したばかりのポーランドという独立国は、第二次大戦でたちまち消滅してしまった。この「国家が消滅する」ということを、日本人は経験したことがないから、どんなに悲惨で屈辱的なことか、なかなかわからないだろう。
このとき、ソ連軍の捕虜となったポーランド将兵は25万人。そのほとんどが、その後歴史から「消えた」。文字通り、消えたのである。
やがて、独ソ戦が始まった。1941年である。敵の敵は味方ということで、ロンドンに本拠地を移していたーランド亡命政府は、ドイツという共通の敵を持つに至ったソ連に接近。ここで、行方不明のポーランド将兵の捕虜釈放を正式に要求したが、スターリンは「確かに釈放されている」と回答し、事務や輸送の問題で滞っているとし、以後、まったくこの問題に言及しなくなった。
ポーランドからさらにソ連領土に深く侵攻していたドイツ軍は、占領中のスモレンスクで、驚くべき事実を公表した。
もともと、スモレンスクでは、「1万人以上のポーランド人捕虜が列車ではこばれ、銃殺された」という噂が絶えなかった。ドイツ軍が調査した結果、カティンの森でそれが事実であることが判明したのだ。ソ連は、これに反論。虐殺はドイツ軍がやったのであり、ソ連軍に戦争犯罪をなすりつけているとした。
ドイツ軍は、ポーランド赤十字社に現地調査を勧告。結果、1940年3月から4月にかけて殺害されたものであることがわかった。各国も調査に参加しており、結果、ソ連軍による犯行だという結論になった。ところが、ドイツ軍指導の下による、「カティンの森」虐殺の発掘調査は、1943年6月には中断。ソ連軍の反撃が始まり、スモレンスクに迫っていたためである。
西側では、ジョージ・アール海軍少佐が密使として、この事件の調査を担当した。結論はやはりソ連軍による、大量虐殺であるというものだった。が、ソ連のスパイ(コミンテルン)に完全に政権を乗っ取られていたルーズベルト大統領は、この調査結果を拒絶。アール少佐は自身の調査結果の公表許可を求めたが、ルーズベルト大統領はそれを禁止する命令書を送りつけている。
アール少佐は、その後任務から外され、大戦の残りの期間を、南太平洋のサモアで過ごす羽目になった。左遷である。
実際、掘れば死体が出て来るというありさまなので、一体何人が殺されたのか、現在でもはっきりしていない。ソ連崩壊後、1992年になってようやくロシア政府は、最高機密文書の公開を始めたが、それはポーランド人275700人を射殺せよというスターリン署名入りの計画書、共産党政治局の1940年3月5日付の射殺命令書などである。
シベリアに大量に捕虜が送られているわけで、ロシア各地に、「カティンの森」が、実はまだたくさん残されているかもしれない。
さて、ようやく「灰とダイヤモンド」の中身に入っていける。この「ワルシャワ蜂起」と「カティンの森」事件が、ポーランドという国の置かれた立場というものを、なにものにも雄弁に語ってくれている。亡国とは、こういうありさまのことを言うのである。呑気な日本人はもっと、こういう事実を知るべきだろう。
アンジェイ・ワイダの父親は、カティンの森で虐殺されたポーランド国軍中尉だった。このことが、本作を含めた「抵抗三部作」をつくる、大きな伏線になっていることは間違いない。
1945年。終戦直後の焦土と化したポーランドが舞台だ。ナチス・ドイツが撤退した直後、しかしソ連の傀儡(かいらい)だったポーランド共産党政府も、完全には実効支配が出来ていなかった。一方では、ロンドン亡命政府(自由主義政権)も存在しており、ポーランド国内は、まとまりもつかず、雑然混沌とした時期だ。
大戦中は対ナチスのレジスタンス運動をしていた主人公マチェクは、ワルシャワ蜂起で多くの仲間を失っていた。マチェクは、ポーランドの独立を目指していた。彼のバックは、ロンドン亡命政府である。
マチェクは、共産党傀儡政府に抵抗する組織の活動員として、政府側の要人シチューカの暗殺という任務を遂行しようとしていた。その一日の午後から、翌日朝までの話だ。
マチェク自身は、ドイツ軍占領下におけるワルシャワ蜂起に失敗した経験があり、その挫折感からサングラスをはずさない。マチェックは戦後、ソ連と共産党の裏切りを許さず、反共テロの暗殺者となっていたわけだ。
マチェックは、かつての同志でソ連系共産党地区委員長(労働者党書記)シチューカの暗殺を実行するが、人違いで2人を殺害してしまう。地下組織は、シチューカの暗殺指令を再び発令する。
シチューカが泊まるホテルの隣室を借り、機会を窺うマチェクは、ホテルのウェイトレスのクリスティナと恋に落ち、あわただしく、思いもかけない情事をもつ。マチェクははじめて、生まれ変わり、暗殺指令を放棄しようとまで思いつめる。
「生き方を変えたい。今から普通に生きたい。今わかったことが昨日わかっていたら… 人殺しはもういやだ。生きたいんだ。」
マチェクは、クリスティナと夜の町をさまよう。破壊され、逆さまのになったキリスト像がある地下墓地の入り口で雨宿りをしたとき、クリスチーナが木版に彫られた詩を読みあげる。チブリアン・カミュ・ノルヴィッドの「舞台裏にて」の詩だった。
・・・松明のように、その身から火花が飛び散るとき
君は知らない、わが身を焦がすことで、初めて自由の身となれることを
持てるものは失なう運命(さだめ)にあるということを
残るのはただ灰と、嵐のように深みに落ちていく混迷だけだということを
そして、永遠の勝利の暁に、灰の底深くに、燦然たるダイヤモンドが残っていることを
クリスティーナが言う。
「きれいね。灰の底深く、ダイヤモンドの残らんことを。・・・私たちは何?」
「君か。ダイヤモンドさ。」
「あのね。変えてみたいものがある。生き方を変えたい。うまく言えないけど」
「いいわ。大体わかる」
しかしマチェクには時間がなかった。明朝までに、シチューカを暗殺しなければならなかった。
そうなのだ。マチェクは、暗殺などもうやめたかった。本当は生き方を変えたかったのだ。勉強をして、働いて、結婚をして、子供を作って、普通の生活をしたいだけだったのだ。
人違いで人を殺してしまった罪、これから向かう暗殺の道。もう戻れないところまで来てしまったマチェクは、首尾よく任務を果たしたあとは、逃亡を決めた。
マチェクは暗殺に成功すると、恋愛も正義も捨てて逃走しようとする。途中運悪く遭遇した保安隊に撃たれた。洗濯物がたくさん干してあるところで、真っ白なシーツにマチェクの血が生き物のように滲んでゆく。痛みに耐えながら、最後の力を振り絞り、マチェクは歩き続ける。
とうとう最後は、一面ゴミが散乱する集積場で、虫けらのように息絶える。最後の痙攣をするとき、遠くに、彼が乗るはずだった汽車の汽笛が鳴り響く。
さっきまでマチェクがいたホテルのバーでは、喪服を着た男女が無表情で、まるで亡霊のように踊り続けている。対ドイツ戦勝利の祝賀パーティが、まだ続いていたのだ。クリスティーナは立ち尽くしている。
一体、何が平和なのか? これが、戦争が終わったということなのか? 混沌とする世の中でマチェクだけではなく、誰しもが道に迷っていたのかもしれない。
この名作は、制作当初、ポーランド政府(当時は共産党政府)の検閲で、問題視された。共産党体制側にしてみれば、シチューカが主人公でなくてはならなかったのだ。シチューカを暗殺するマチェクに焦点が当てられているため、論争となったようだ。
ただ、マチェクがゴミ山の中で息絶えるラストシーンが、「共産党に対する反政府運動の無意味さを象徴したものだ」という見方で、一応上映が許可された経緯がある。
しかし、制作者のワイダは、ラストシーンを見た観客がマチェクに同情することを期待したという。
1958年公開。マチェクが夢見た「普通の生活」は、1989年の共産党体制崩壊まで、30年余りを待たなければならなかった。ソ連という鉄の規律から放たれ、ついにポーランドは名実ともに独立を果たすのに、それだけの長い年月が必要だった。