「死語」の世界へようこそ

文学・芸術

これは264回目。どんどんわたしの世代が使っていた言葉が、死語と化しています。そのスピードたるや、恐るべしです。だんだん背筋が寒くなってきました。わたしが足腰も立たなくなるような、後20年後には、わたしはまったく日本語がわからなくなっているかもしれないのです。

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ときに、理不尽な死語化というものもよくあるのだ。たとえば、二人連れのことを、昔は「アベック」と言った。今は、これは死語であり、どちらかというと使ったら恥ずかしいらしいのだ。「カップル」と言わなければならない。

べらぼうめ、と思ってしまう。アベックはフランス語だ。Avec toi アヴェッ・トワ、あなたと共にのように使う。カップルというのは、日本では使い古された外来英語ではないか。よほどアヴェックのほうが、お洒落だ。と、わたしがどう抗弁しても、通らないらしい。

わたしもついつい、「衣文かけ(えもんかけ)」と言ってしまうことが、家ではある。

そこまでとは言わない。が、あんまりというものだ、という死語化のケースがある。

「匙(さじ)」をスプーンと言わなければ笑われる。「コーヒー茶碗」をコーヒーカップと言わなければ笑われる。「マニキュア」をネイルと言わなければ、笑われる。冗談ではないのだ。

「チラシ」と言って笑われて、フライヤーでしょ、と笑われると、正直顔面を百回くらい殴りつけてやりたくなるわたしがいる。

これを言ったら、きょとんとされるか、冷笑されるか、というものが実に多い。昭和の人間は、ふと口をつぐんでしまいがちになるのだ。「冗談よし子ちゃん」なんて言った日には、わたしの周囲は突然氷河期に戻ったかのような寒々しい雰囲気に様変わりする。

「バイビー」なんって言った日には、あざけりに遭う。「テレビのチャンネル回して」などと言ったら、もはや宇宙人である。

たとえば、昔テレビというものは、チャンネルがダイヤル式だった。リモコンではないのだ。古くなると、ダイヤル調節部分が、すっぽ抜けたりして、「おおっと」と青くなったものだ。

「バッチグー」と言えば人格が疑われ、「許してちょんまげ」とか、「めんごめんご」なんて言いながら照れ笑いをすれば、ほとんど病院送りにでもされかねない。

確かに、現実の日常生活で使用されることが無くなってきた「物」の場合は、それでも致し方ないと思ってあきらめよう。

「蚊帳(かや)」などもそうだ。蚊帳を吊って寝たことのない子供のほうが圧倒的に多いだろうから、知らなくても当然だ。しかし、難しいのは、習慣というやつだ。

「煙草(たばこ)をのむ」という言い方がそうだ。わたしもたまにこれが出る。両親が始終そう言っていたからだ。今の人に「たばこをのむって、どーいうこと?」と言われてしまうだろう。

おそらく、今、「台所」と言う頻度が少なくなっているのではないだろうか。キッチンと言うのが普通なんだろう。

そういえば、なんだか「ずぼん」という言葉をトンと聞かないような気がするのだ。もしかしたら、世の中、男も女も「パンツ」呼ぶようになっているかもしれない、とだんだん怖くなってくる。それなら、男の「下着としてのパンツ」はなんと呼んでいるのだろう。まさか女と同じ「パンティ」ではないだろうな。

いろんなところで、わたしはどんどん時代に取り残されているような気がしてきた。つい先日も、わたしが会話の中で、冗談で「そだね~」とやったら、非常に寒い冷笑にさらされた。聞けば「もうそれは、古い」んだそうだ。愕然である。つい、数年前に流行だっだではないか。いきなりわたしは浦島太郎である。

先日友人が、「ツァラトゥストラはこう言った」という、ニーチェの著作題名を見て、がっかりしたというのだ。われわれの年代、「ツァラトゥストラはかく語りき」と言うのが普通だった。文語である。これを今風に、「こう言った」と訳してあったというのである。

意味は同じである。確かにそれはそうなのだが、どうかと思う。ヘミングウェーの「誰(た)がために鐘は鳴る」も、おそらくこの体で言えば「誰(だれ)のために鐘は鳴る」になるのだろう。興ざめである。

同じくヘミングウェーの「武器よさらば」は、「武器よさようなら」になってしまうのだろうか。

マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」は、どうなってしまうのだ。「風といっしょに行っちゃった」とでもなるのだろうか。さすがに、腰が抜けそうになる。ムードぶち壊しだ。

確かに、日本語の大半は、数百年前にはほとんど「言葉とは言えない」として否定されていたような言葉ばかりかもしれない。

そして今では、標準語が全土に普及してしまったことから、方言が絶滅危惧種と化している。逆に、「新方言」という代物が登場してきているという。「なんちゃってホーゲン」とか、「方言コスプレ」と呼ばれる類だ。それらはみな若者言葉として流通し始めているらしい。

そんなこんなで、ネットで拾ったのだが、今風の言葉にいろんな古典を置き換えようという試みがあったので、紹介しておこう。結構笑えるのだ。

「枕草子」の『春はあけぼの』の、ギャル語訳というのがあった。
まずは、紹介されていた原文と一般的な現代語訳を列挙してみよう。

(原文)

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ、ほたる飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

(一般的な現代語訳)

春は明け方が趣がある。
少しずつ白み始める空。
遠くに見える山の稜線が少しだけ明るくなり始める。
その周りには紫がかった細い雲がたなびいている。

夏は夜が趣がある。
月が浮かぶ夜は当然風情がある。
しかし、月明かりもなく闇に閉ざされた夜も良い。
漆黒の闇に見えるのは飛び交う蛍の光。
沢山飛び交っている光も良いし、一匹、二匹だけの光も趣がある。
雨など降っている時も、また風情がある。

そこで、ギャル語訳だ。

(ギャル語「春はあけぼの」)

春ってゆーかー、アケボノがよくなくなくね? つーかさ、なにげに白っぽくなってくみたいなー山際とかー、ちっと明るくなってぇ。でさー、紫っぽくなった雲が細くなって超たなびいてるのとかあ、ありえなくね? 超ウケルー。

このほか、芸能人・タレントの独特の言い回しを真似たこんなのもある。おなじ「枕草子」の『夏は夜』のルー語&スギちゃん風のものだ。

(ルー語&スギちゃん風「夏は夜」)

へい、ユー、サマーはナイトだぜぃ! ムーンナイトはオフコース。ダークナイトは、モアテンションあげあげぇ。ほ、ほ、ほたるがフライアンドフライ。ワン オア ツーが、ツイートしながら光ってるぜぃ、ワイルドだぜぃ。雨なんかふるっつうのも、ワイルドだぜぇ。

古典文学の面白訳もあった。夏目漱石の「吾輩は猫である」だ。

(元ヤンキー風「我が輩は猫である」)

ジブン、ネコッす。なまえってか、まだねーよ。どこでシャバに出たかとかシカトっす。何かこう、うすっくれぇジメーっとしたとこでニャーニャー泣いてた事だけのこってるっす。ジブン、ここでショッパナ、人間にガンつけたんっすけど、あとで聞くとそいつら、セイガクっつう人間中で超カスなヤツラだったつうか、このセイガクっつうのは、時々ジブンらをつかまえて煮て食うらしっす。オィーッス。喧嘩上等。

この面白訳の嚆矢となったのは、1978年に出た、橋本治の「桃尻語訳枕草子」からだそうな。上記の訳を読んでしまうと、もはや、以下の訳そのものが全く普通の訳、あるいは古典的な訳にすら思えてしまうから時代というのは恐ろしい。

「桃尻語訳枕草子」

春って曙よ!
だんだん白くなってく山の上の空が少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!

夏は夜よね。月の夜はモチロン!闇夜もねエ・・・・・・。
蛍がいっぱい飛びかってるの。あと、ホントに一つか二つなんかが、ぼんやりボーッと光ってくのも素敵。雨なんか降るのも素敵ね。

秋は夕暮れね。
夕日がさして山の端にすごーく近くなったとこにさ、鳥が寝るとこに帰るんで、三つ四つ、二つ三つなんか、飛び急いでくのさえいいのよ。ま・し・て・よね。雁なんかのつながったのがすっごく小さく見えるのは、すっごく素敵!日が沈みきっちゃって、風の音や虫の音なんか、もう・・・たまんないわねッ!

冬はつとめて(早朝)よ。雪が降ったのなんか、たまんないわ!
霜がすんごく白いのも。
あと、そうじゃなくっても、すっごく寒いんで火なんか急いでおこして、炭の火持って歩いてくのも、すっごく”らしい”の。
昼になってさ、あったかくダレてけばさ、火鉢の火だって白い灰ばかりになって、ダサイのッ!

平成ギャル語訳に比べれば、桃尻語訳のなんと典雅で格調高いことよ。言葉など、結局どうにでもなっていってしまうのだ。古い良い言葉は残ってほしいが、努力したところでそれは残っていかないのであろう。古典はしょせん古典として残るしかない。言葉は生き物だから、生きている人間が変わっていく以上、言葉はそれにともなって千変万化するのである。昭和30年代の自分としては、時代と言葉の変容を前に、忍び難きを忍び、堪え難きを耐え、あくまで昭和の言葉を持ちながら、莞爾として舞台を去っていこうと思っている。

まあ、暇な人間というものはいるもので(スミマセン)、ネットに「ハズカシ度数」というのがあったのだ。この言葉を使うとどのくらい恥ずかしいかというランキングなのだ。

ちなみに、このサイトによると、今後「死語化」が予想される言葉は、以下の通りだそうである。

これ、マジヤバイ!
ありえねぇ~!
イケメン
ビミョー
うぜー!
キモい
キショい
キョドってる
いえーい!

今後「死語化」すると宣告されたこれらの言葉のうち、すでに「キショい」と言う言葉自体が、そもそもわたしには意味不明である。理解不能のうちに、死語化していくこの時代の変貌スピードというのは、戦慄すべきものだとつくづく思い知った次第。



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