不思議の国・日本
これは184回目。それは、われわれ日本人にとっては、実にたやすい、なんでもないことなのです。しかし、世界では奇蹟に近いことでもあるようです。
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2020年の東京オリンピック招致を巡る争奪戦以来、「おもてなし」という表現が日本のシンボルであるかのように、その言葉は世界中を駆け回った。
しかし個人的には、日本人は「かつて」外国人たちから、絶賛をされたことのうち、いくつかは忘れかけてしまっているようにも思える。
「微笑みの国、タイ」という標語が定着してしまっているように、あたかも微笑みの美徳はタイの専売特許のようになってしまった。実際、タイ人は美しい微笑みをする。
自分の経験では、スリランカ人がそうだった。コロンボでも、キャンディーでも、南端のゴールでも、無関係な行きずりの人たちは、偶然目が合うと、かならず微笑みをくれたものだ。
インド亜大陸の、同じインド系の人たちの、あの無表情のまま射るようなまなざしで人を食い入るように見つめる様子とは、雲泥の違いだった。自分では、スリランカがおそらくインド系にあっては、唯一仏教国だからかもしれない、と納得していた。仏教というのは、基本、優しいのである。それはタイも同じだ。
「怪談」で有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がこう書いている。
「日本人の頬笑みは、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである。それはまた沈黙の言語でもある。・・・もしわたしがどこかほかの国で暮らしていたとしても、このような人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか。・・・日本には美しい心がある。なぜ、西洋の真似をする必要があるだろうか。」
日本人は、かつてよく笑う民族であった。笑いが大好きなのだ。明治時代、メーチニコフというロシア人がいた。大山巌(日露戦争の、陸軍最高司令官である)が欧州留学中に知り合い、フランス語の指導を受けたことがある。これが縁で、来日し、東京外国語大学でロシア語を教えた。教え子には、二葉亭四迷がいる。
そのメーチニコフは来日当初、のべつまくなしに冗談をとばしては笑い転げる日本人たちの愉快な様子に見とれずにおられなかったそうだ。彼が、日露の不幸な戦争の前に、すでに亡くなっていたことは、むしろ幸いだったろう。
日本人のこの時代の人懐っこさ(そうでなければ、微笑みや笑いなど出ない)は、格別のもののように、外国人には思えたようだ。プロシア(ドイツ)企業の商人として来日したリンダウの文章が残っている。後に、彼は駐日スイス領事となった。長崎の寒村を歩いていたときのことだ。
「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けた事を決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、ただちに男の子、女の子があわてて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に座るようにすすめ、母親は丁寧に挨拶してお茶を出してくれる。
・・・・・もっとも大胆な者は私の服の生地を手でさわり、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪にさわって、笑いながら恥ずかしそうに逃げ出してゆくこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると「ありがとう」と、何度も繰り返して礼を言う。可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第だ。
私が遠ざかって行くと、道のはずれまで見送ってくれて、殆ど見えなくなっても「さよなら」と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった」
日本人が、外国へ赴いたときの評判も高い。戦後、海外旅行が解禁となってしばらくは、ずいぶんと馬鹿にされたものだが、それは、旗を立てた団体旅行が揶揄されただけのことだ。わたしは、さんざん東南アジアで、ドイツ人やアメリカ人を始め、多くの外人の団体旅行を目の当たりにしてきたが、なにも変わらない。連中だって、知らないところへいくとき、たいていは団体旅行である。おまけに同じように旗まで立てていたから、失笑した次第。
多少、当時は海外の習慣や、世界的な標準のマナーというものに日本人も疎かったため、その分、醜態をさらしたこともあったかもしれないが、知れたものである。どこかの国の人たちのような、傲慢さは、日本人旅行客にはほとんどない。
最近では、わたしが知る限りで、世界最良の観光客という調査では、2007年から3年連続で日本人が第一位であった。米国のオンライン旅行業者エクスペディアが、世界4000軒以上のホテルにアンケートをとった結果だ。
日本人の行儀のよさ、礼儀正しさ、部屋を清潔に使う、騒がない、などをはじめ総合で断トツの1位。ずっと離れて英・独、カナダなどがでてくる。最下位には中国、インド、フランス、イタリアが並んでいる。アメリカ人は行儀や礼儀は最低だが、チップをはずむので総合では中くらいだそうだ。
こうした日本人の気質の尊いところは、ずっと昔からあったものだ。戦国時代、フランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスなどのヨーロッパの宣教師は、当時の日本社会の実情を記した手紙・報告書を故国に向けて、それこそ夥しい数のものを送っていたが、その中で彼らは日本人はヨーロッパの最先進国の人々ですら足元にも及ばぬほどの、高い文化とモラルを持っていると絶賛している。こんな調子だ。
「日本人はとても気品があり、驚くほど理性的、慎み深く、また才能があり、知識が旺盛で、道理に従い、その他さまざまな優れた素質を持つ・・・大部分の人は読み書きができる。・・・ 日本人はたいへん善良な人びとで、社交性があり、また知識欲はきわめて旺盛である。・・・今までに出会ったなかでは最高の民族だと言え、日本人より優れている人びとは異教徒の中で見つけることができないだろう。(東洋文庫「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」)
日本人の特筆すべき徳性の中に、正直であったり、筋を通したりする部分は、実際世界的にみても驚異的なものである。
サッカーのガンバ大阪に入った韓国のプロ選手・呉宰碩(オジェソク)がこう言っている。
「来日前は日本には本音と建前があり、韓国人には冷たいという先入観があった。だけど、みんな親切で優しい。先日もスーパーで財布を落としたのですが、翌日には出てきて驚いた。しかも、クレジットカードや現金もそのまま。韓国では絶対にありえないことですよ」。
しかし、そんなことを日本で言う彼が、自国に帰ったら、口が裂けてもこのことは言えるのか、はなはだ疑問だが。
311大震災の際の、被災地における状況、同じく交通機能が麻痺して大混乱となった東京においても、外人からみたら信じられないほど整然とした秩序が維持されていたようなことは、「およそありえない」事実だ。
サッカーの国際的な公式戦で、「大震災をお喜び申し上げます」などという日本語の横断幕を掲げた、どこかの国のようなことは、日本ではまず起こらない。そんなことをしたら、「見下げ果てたやつだ」といって、総すかんである。
かつて、幕末に来日して、初代アメリカの駐日総領事となったタウンゼント・ハリス(現在の、麻布善福寺が使われた。)は、強引な交渉で幕府を窮地に追い込んだが、そのハリスがこう書き残している。
「日本人の容姿と態度に甚だ満足している。日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀である。・・・私は時として、この日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進することになるのかどうか、非常に疑わしくなる。」
ハリスは、最初は下田に領事館を構えていたのだが、当然当時の下田は、いうなれば「僻地」であるから、貧しかった。
「柿崎(下田)は小さくて、貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりとして、態度も丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏といえばつきものになっている不潔さというものが、ここでは少しも見られない。」
この「清潔」という点も、日本人の徳性といえる。下田であるから、温泉は湧くが、なにも下田に限らず、(水が豊かだということもあるが)どこへいっても、貧民でさえ、毎日のように風呂に入るということに、当時の来日外国人たちは、強烈なショックを受けている。
スウェーデンの植物学者カール・ツュンベリは、1775年(江戸時代中期)、赤穂浪士討ち入りから72年後)、出島にきて江戸出府に加わり日本人を観察、記録した。
「彼らは第一級民族である。勤勉で賢明で礼儀正しく勇敢だ。・・・支那朝鮮では女は奴隷なのに、この国では女が男と同席し、表も自由に歩く。・・・清潔好きで週に一度どころか、驚くべきことに毎日風呂に入る」。
こんな具合である。
異口同音に彼らが書き残している文言は、不思議なほど同じである。片っ端から彼らの文章を読んでみたらよい。かならず、次の文言に目が留まるはずだ。
曰く、「日本は他のアジア諸国とはまったく異なる」。
やはり幕末、宣教師として来日した米国人医師ジェームス・へボン(ヘボン式ローマ字の創始者)も書いている。
「日本人は実に驚くべき国民です。西洋の知識と学問に対する好奇心は同じ状態にある他国民の到底及ぶところではありません」
この「異なる」の一番わかりやすい側面が、先述のオジェソクの経験と同じような類いだ。外人が、日本にきて、一様に驚くことの一つが、人気のない国道に自動販売機が置かれているという恐るべき事実である。
外国人記者クラブの発行物に、短い記事が掲載されたことがあるそうだ。ある外国人記者が有楽町のいつもの店で食事をした。勘定をして出ようとしたところ、店員から1枚の紙を渡された。「○○さん、先日おいでになったとき、お釣りの十円玉がテーブルに置き忘れてありましたよ」 そう書いて、十円玉がセロテープで紙に貼ってあった。その記者は、世界の一体どこにお釣りの十円が戻ってくる国があるだろうかと書いて、その短い記事を結んでいたらしい。
この「異なる」とは、一体どういうふうに異なるのか、というのを、ロサンジェルスタイムズの東京特派員が、ある事実を指摘して解説していたことがある。それは、彼が阪神大震災の現場で、通信が途絶し、警察機能も失われた大混乱の中で、「組織暴力団・山口組が、本部前で炊き出しをやって、被災民に配っていた」事実である。
日本の社会の中にある、穏やかな秩序というものは、一見して見えない。しかし、これは他の国家にはどうひっくり返っても発見することができない、特殊な性質である。
幕末に来日した外国人海軍大佐は、こんな風に書き残している。
「なんという群衆だろうか。われわれを取り巻く、夥しい日本人たちの前には、脇筋から本通りへと彼らがなだれ込まないように縄が張られており、まれに、はみ出し者がいたりすると、役人が扇子(せんす)で頭を叩いたりして、制した。しかし、この光景をわれわれの国で想像してみてほしい。縄一本、扇子一つで行儀よくしている群衆など、一体この世にあるだろうか。」
見えない、柔らかい秩序のことである。
同じく幕末に日本に来ていたシュリーマンは、欧州文化に塗れた自身を呪った。シュリーマンとは、あのトロイの遺跡を発掘した男だ。実は、大の日本好きであった。彼の著書「「日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか」に、こんなエピソードが書かれている。
横浜に入港したときのことだ。ちょうど長州征伐のころである。日本人の官吏がにこやかに近付いてきて、おはようと言いながら、中身を吟味するから荷物を開けるようにとシュリーマンに言い渡した。(通関手続きである)シュリーマンにしてみれば、船で長旅のこの荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ1分( 2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて、おれは日本人だ、と言い、これを拒んだ。
彼が、当時の中国で最も不快に感じたのは、平気で嘘をつきお金をごまかす一般庶民の姿だった。乗り物に乗っても、最初に提示した料金とは全然違う高額の料金をあとでふっかけられたりして、閉口することがしばしばだった。
その彼が日本で渡し舟に乗ったときのことである。あとで料金を支払う段になって、中国で味わった不快な先入観が頭をよぎった。どうせ法外な料金をふっかけられるに決まっているだろうから、それならば最初から高い金を渡しておこうと思い、規定の数倍の料金を渡した。すると船頭が不思議な顔をして、「これは規定の料金とは違いますよ」と言って、余分の金を突き返してきたのである。一度ならず、二度である。シュリーマンは、恥じた。
単に見えない、こうした文化性だけではない。日本を開国させた黒船のペリーは、さんざん幕府を、剛腕な外交交渉で困らせたが、一方で「日本遠征紀」を書き残し、そこで近未来の日本を正確に予言している。「数十年もたたずして、この国は欧米先進国と肩を並べる唯一の国家になる。」それは、現実となった。
安政6年、1859年(明治維新の9年前)に日本に来たイギリス公使サー・ラザフォード・オールコックも同じ予言をしている。
「物質文明について言えば、日本が、東方諸国民の第一位にあることは疑う余地がない。もし彼らに応用化学の知識において欠けるところがなく、機械工業が進歩するならば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるであろう。従って日本の統治者が政策として、交通および貿易を自由にし、日本をしてバーミンガム、シュツフェルド、マンチェスターなどと競争する自由を与えたら、われらの蒸気機関や、すべての機械の驚くべき応用的知識を輸入し、彼らはたちどころに、シュツフェルドと競い、その絹を以てリヨンと競合するに至ることは、疑う余地がない」
彼が来た安政6年とは、日本がまだ開国したばかりで近代産業は皆無に等しく、しかも井伊大老の暗殺(桜田門外の変)があって世情は騒然としており、到底、落ち着いて近代化に着手するような雰囲気ではなかった。しかし、ペリーも、またオールコックも、すでにこのとき、日本の資質を見抜いていた。彼らが慧眼だったのではない。誰がみても、そうとしか思えない国民が、ここに現に存在していただけのことだ。
幕末志士たちと数多くの交流をしていた長崎の商人トーマス・グラバーは、(どうも、フリーメーソンだったらしいが)こう書き残している。
「幕末に長州、薩摩、肥後、肥前、宇和島の各藩とは何十万、何百万両の取引をしたが、賄賂は一銭も使わなかった。これは、賄賂を懐に入れるような武士が、まったくおらず、みな高潔かつ清廉であったためだ。こちらが賄賂をしたくともできなかったのだ。このことはぜひ特筆大書して後世に伝えておきたい。」
台湾系の金美齢女史の談話で、今日は締めくくっておこう。
「私は外国人だったから、前から分かっていましたよ。日本がどれだけ素晴らしい国か、いままで散々言ってきましたよ。日本人は、今頃分かったの?」