アニマルスピリッツ ~AIなんか怖くない

文学・芸術


これは128回目。時代はAIなんだそうです。間違いないでしょう。しかし、AIで人間が割りを食うということはないのです。また、そうであってはなりません。

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基本的にスマホなどしないほうがいい。しなくても済むはずのメールチェックを、いつも追われるようにして行い、知らなくても良い情報を知る。そんなことより、生身の体をなにかにぶつける時間を大事にしたほうがいい。

仕事ではよいのだ。これだけ便利なものはほかにない。わたしが言っているのは、なんでもかんでもではなく、「選べ」と言っているのだ。

仕事を除いて、日常あまりスマホを使わない人というのは、ある種の自信のある人と決まっている。年がら年中やたらにSNSで多くの人とつながり、ネット上で生まれる非常に曖昧な関係になにかを期待などしない。

ほんものを求めている人は、親しくなりたい人に会えば、瞬時に仲良くなれる。魅力的な人は、多くの人がなんとしてもその人と連絡を取りたいと、向こうから寄ってくる。ネットでひたすら、100人もの「親友」を増やすのではなく、自分の徳性を高めることに時間を費やすべきだ。

どうせ人間など、多かれ少なかれみな俗物である。だから、ちょっと徳を上げるだけでも、圧倒的な差をつけることができる。ネットよりはるかに確率が高い。心がけ次第だということだ。スマホには当然、心などない。

今では、スマホという手段の世界そのものが、つながっているというただの関係性の維持そのものが、人間から自由な空想と大胆な行動を奪っている。しかも一番大事な、人間とはなにか、という命題に迫る動機を奪っている。

平たく言えば、まともな人間は(いや、まともになろうとしている、なりたいと思っている人間はというほうがいいかもしれない)、あの6インチほどの小さな画面世界に一日中とらわれているというようなヒマはないのだ。

しかも、今度はAI(人口知能)ときたものだ。中国の電子商取引最大手、アリババのジャック・マー(馬)CEOは、「ビッグデータの時代、AI(人工知能)の力を借りれば、計画経済が機能する世界が来る」などと言っている。

習近平主席ら共産党政権におもねる、いわばごますりなのか。それとも本気でそう思っているのか知らないが、頭のいい人にありがちな勘違いである。あるいは仕事上の、意図的なポジショントークかもしれない。

一体、AIがナタデココやジェラートの流行を予見できたはずだとでも思うのか。AIがAKB48の登場を予見できたはずだと本気で思っているのか。文化大革命の発生と、それによる1000万人を超える犠牲者を予見できたはずだとでも思っているのか。もっと言えば、インターネットの勃興と破壊的拡大を、AIが予見できたはずだと、心底信じているのか。

AIというのは、ディープラーニング機能という学習能力がある。しかし、それは過去に起こったことから、今後起こるであろう状況や選択肢を、確率の高さで区分するだけなのだ。予想と発生する事実とのギャップを、極限まで縮小させることだけなのだ。人間にとっては、これは便利なものだ。しかし、結局新しいものを作りだすのは、われわれ生身の人間にほかならない。

ダーウィンの進化論を待たずとも、人間の世界というものは結局突然変異や偶然性で大きく変わってしまうことが多い。人類が火を使い始めたのも、偶然であろう。物々交換を、貝殻(貨幣)で代用し始めたのも、おそらく偶然の産物であったろう。しかし、その突然変異というものは、漫然とした日常の中で生まれるとはいえ、重大な「気づき」が人間の眼を覚醒させることで発生するのだ。

貝殻が貨幣の前身だったという先例を以て、AIはその後の似たような例をディープラーニングしてゆき、似たような現象の再発を予見しようとする。が、そのときAIにプログラムする「意味」が間違っていたり、的外れであったりしたら、結果はろくなものにならない。

貝殻を貨幣として代用したのは、それが物々交換を遠隔地同士で行うのに便利だったから、という「意味」に解釈してプログラムしたら、これはまったく有効性を持たない。

一体、あの古代に、貨幣に代用された貝殻とはなんだったのか? その意味が違うのだ。実物を持っていくより便利だからではない。そういう側面もあったろうが、副次的な要因だと現在では考えられている。

そうではないのだ。夏に秋刀魚(さんま)を食いたい奴がいるのだ。一方で、冬にスイカを食いたいやつがいるのだ。この両者が物々交換などできるわけがない。時節が違うのだ。遠隔地だからではない。

そこで秋刀魚を先に渡してやって、そのかわりに貝殻を受け取ったのだ。それは売掛金の証文と同じである。翌年、今度は貝殻を返してスイカを受け取ったのだ。つまり貝殻という貨幣の代用というものは、貨幣のもつ「信用」という価値概念だったのだ。

貨幣というものは「信用」という概念の上になりたっている共同幻想にほかならないからだ。だからいまだに、ただの「紙切れ」でも通用するのである。それが、貝殻だろうと、紙切れだろうと、よしんばただの石ころだろうとなんでもよいのだ。みんながそこに「信用」を認識すれば、それが貨幣なのである。

突き詰めれば、貨幣の誕生とともに、われわれ人類は信用創造によって、金融と経済という世界に偉大な道を開いたといっても過言ではないわけだ。ただの交換手法の問題ではない。もしAIにプログラムする価値があるとしたら、まさにこのロジックである。

このように貨幣というものの発生淵源というものを理解して、貝殻を信用創造という画期的な概念だと理解するのと、物々交換するのに都合が良い利便性として理解するのとでは、AIにプログラムするものがまったく変わってきてしまう。そのAIが導き出すものも、全然違う結果になってきてしまう。人間が、このAIに与えるロジックや「意味」を考えずに誰がするのだ。

金融学では、バートン・マルキールたちが言ったように、市場の動きはランダム(でたらめ)である。しかし幸い相場は景気と同じく、必ず循環しているから、AIの力を借りれば、格段のリスク回避とリターンの獲得の確率が高まるだろうということは言える。が、そこには重大な欠陥があることを忘れている。歴史というものは、とても似ているが、決して同じことは起きないという事実だ。

投資理論はかなり有効である。しかし、決して必ず当たる投資理論などは存在しない。相場というものは、過去の例と非常によく似ているから、あるていど次の仮説を立てることはできる。が、同じ相場は二度と無いのだ。だから「経験と解析」(AI)の上に積み上げられた「勘」と度胸が最後はモノを言うのだ。AIには、この「勘」も「度胸」も無い。心が無いのだから当たり前だ。

だから投資理論を知らないより、知っているほうが「かなり」運用では役に立つ。しかし「かなり」までである。AI化すれば、劇的にその有効性は高まるだろう。しかし、「劇的に」までである。最終的には、人間が判断せざるをえないのだ。

以前、発達障害の人間たちのことを書いた。アフリカの一角で誕生した人類を、地球規模に大移動し、拡散させていった原動力こそ、この発達障害の少数の人々だったのだという話だ。人類が地球を征服できた恩人は、標準偏差の中にはいっているほとんどの「普通の人」ではなく、「例外」に属する突然変異的少数者にほかならない、ということだ。おびただしい犠牲を払って、この少数者たちは人類を広域世界へと導いたのだ。

計画性も、機能重視も、可能性判断も、論理的思考も無い、この発達障害の人たちの無謀な情動が、人類をアフリカの一定の狭い生活圏から、全世界に引っ張り出していったのである。この情動そのものも、そしてその情動の発生タイミングなど、AIには予見できるはずがない。それまで、起こったことが無い現実だからだ。

そもそも事実というものは、例外的な事例から教えられることが多いのだ。その例外こそは、人間を大きく進歩させる契機になっている。だから投資の世界でも、この「例外的事象」に常に気を配っている必要がある。定石を打ち破る勝利は、かならず「例外の気づき」の中にその答えがある。AIにそれを見つけることはできない。今までそれは起こったことが無いからだ。

そして、この「例外」を気づかせるものこそ、アニマル・スピリッツだと、経済学者のケインズは言った。もともと彼が言ったのは、資本主義の原動力というものが、合理的な計算無しに不確実な未来に挑もうとする楽観的衝動だということだ。それが、アニマル・スピリッツだ。インテルの創業者、グローブCEOが言った「パラノイア(偏執狂)だけが、生き残る」といったのも、同じことだろう。

つまり、血気である。まだ見ぬものへ迫ろうとする血気である。それが衰え、数学的期待値に頼るほかなくなった企業活動は死滅すると、ケインズは書いた。自分を磨かなければ、AIに頼ったところで、毒にも薬にもならない。我々自身が、高見に登ろうとしなければ、事態は一向に改善されることはない。まず、人間を信じることだ。昨日までの自分を容赦なく破壊し、新しい自分を信じることなのだ。



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