酒の「さかな」って一体なんだ?

文学・芸術


これは110回目。私は、お酒が飲めません。とてもおいしいとは思えるのです。が、ビール1杯、お銚子なら小さいので一本が精一杯。いわゆる下戸(げこ)に近いのです。しかし、昔から飲みにいくのは大好きだったのです。

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なにゆえ、下戸というのか。酒飲みのことを「上戸(じょうご)」、飲めない人のことを「下戸」と言うわけだが、元々の由来は秦の始皇帝が、万里の長城の寒い山上の門(上戸)の番兵には酒を、平地の門(下戸)の歩哨には甘いものを支給したことから使われ始めたらしい。

ところで水には、硬水と軟水があることは広く知られている。水の硬度は、カルシウムとマグネシウムのイオン含有量で表示される。硬度の高い水はナトリウム・カリウム・カルシウム・マグネシウムを多く含んでいる。飲んでおいしいのは、ミネラルの多い硬水のほうである。日本の水は、軟水もしくは軽い硬水が多く、ヨーロッパには硬水が多いと言われている。

昔から「灘」の酒が有名なわけだが、灘の宮水は硬水で発酵が強く、酸が多めの辛口酒になる。これを「男酒」と呼んだようだが。新酒の場合、荒々しい味覚から、その名がつくようになったという。また夏過ぎから、丸みが出て飲みやすくなるという特徴もあり、俗にいう「秋あがり」のする酒と呼ばれる。

一方、京都伏見や広島西条の湧き水からできる軟水の酒は、「女酒」と呼ばれていた。おだやかに発酵させる、酸が少な目の甘口酒である。新酒の頃は、きめの細かいなめらかな味わいを持ち、男酒に比べると「秋落ち」しやすい特質があるようだ。

江戸時代には、灘を含めたいわゆる「上方」が酒造りの中心だった。江戸で飲まれる酒も、多くは上方から船に積まれて江戸まで運ばれてきた。この江戸に運ばれる酒が、上方から江戸に下るということで「下り酒」と呼ばれるようになった。当時の大消費地であった江戸に下って行く酒は、要は美味い酒だった。

逆に、地方で造られたその土地だけで飲まれる酒や、江戸周辺で造られた酒は江戸には下れない(下ることがない)酒であった。下れない酒、つまり「下らぬ酒」から「くだらない」という言葉が生まれたようだ。「くだらない」には、不味い・つまらない・価値がないという意味合いが含まれている。

酒といえば、肴(さかな)だ。その昔、酒と一緒に食べるものを「菜」と言ったようだ。これが「酒菜(さけな)」と呼ばれるようになって、1文字で「肴(さかな)」と呼ばれるようになったとか。

では、魚介類の「魚」はどうなるのか。こちらは元々、「うお」と呼ばれていた。どれをとっても酒の「菜(さけな)」に合う。そのため、魚も「酒の菜」という事になり、けっきょく「さかな」と呼ぶようになったらしい。意外にも、酒の菜のほうが、先に「さかな」と呼ぶようになり、後から魚を「さかな」と呼ぶようになったわけだ。

だいたいこの「さかな」は、マグロの刺身や焼き魚、タコの煮物、はたまた締めた鳥などが人気だったらしい。このほかにも(江戸末期の居酒屋のメニューによると)、ふぐ汁、あんこう汁、どじょう汁、葱鮪(ねぎま)、湯豆腐、めざし、芋の煮っころがし等々。

わたしには意外だが、かなり汁物が人気だったようだ。ただこの「さかな」は時代とともにかなり種類が多くなっていったようで、およそ現代人が居酒屋で目にするような類は、たいてい江戸時代にも原形があったと言ってもいいくらいだ。当時の「さかな」の番付表をみても、非常におびただしいメニューが羅列されている。

ところで、時代劇などを見ていると、どういうわけか八っつぁん、熊さんが蕎麦屋で酒を飲むシーンが頻繁に出てくる。蕎麦屋に限らず、酒を専門に飲む店、現在の居酒屋のようなところは、天明以降に多く出てきたようだ。

もともと酒屋が店頭で酒を量(はか)り売りをしていたわけだが、立ち飲みのサービスも始めた。おまけに田楽など激安価格でつけたりしたものだから、結構繁盛しはじめた。

この酒屋で酒を飲むスタイルを「居酒(いざけ)」といったところから、居酒屋という名前が生まれたらしいが、酒屋にとっては本来「居酒」というのは、おまけのようなものだったわけだ。それがやがて、店内で酒を提供する本業の「居酒屋」に発展していったという。

ただし、今我々が時代劇などのドラマ・映画で見るような、椅子やテーブルなどは当然ない。これは明治以降の話で、江戸時代までは床几(しょうぎ)という、要するに背もたれの無いベンチのようなものがあっただけらしい。しかも、女性の店員はほぼ皆無だったという。やはり酒を飲んで暴れるやつが多かったのが理由らしい。

ちなみに江戸っ子というのは、1日の節目節目に酒を引っかけていたようだ。朝、仕事に出かける前に茶碗半分くらいの酒を軽くひっかけたという。どうやらこれは、縁起担ぎらしい。

駕籠(かご)かきや大八車を引く車力たちも、「景気づけだ」と言って、かなり酒を飲んで仕事をしていたという。

昼は昼で、小腹がすくとちょこちょこ食べていたのだが、ついでに軽く一杯やったという。仕事が終わって、家に帰ると、今度は湯屋に行って、さっぱりしたところでまた一杯といった具合だ。当然、寝る前にもちょっと一杯なんだそうだ。

一説には1日2合の酒を飲んでいた、なんて話もあるくらいだ。現代なら仕事中に飲酒などありえないわけだが、いい時代だったのだ。江戸っ子たちは仕事中にも普通に酒を飲んでいたらしい。

ところが、今の日本酒と違い、当時の酒というのは、ずいぶんとアルコール濃度が違っていたようだ。現在の酒税は、酒造メーカーから出荷した段階で、そのアルコール度数に応じた酒税が課せられているが、江戸時代には造った段階で既に酒税が課せられていた。造った酒の量によって税をかける。それなら水分を少なくしてアルコール濃度の高い酒をつくり、あとで薄めるほうが得。すると樽廻船(たるかいせん=酒を運ぶ船)、問屋、酒屋(小売店)と順番に薄まってゆく。このあたりは「あうんの呼吸」だったとか。

したがって、造り酒屋の段階では濃い酒がつくられ、あとから水で割っていくということが横行したようだ。酒屋では樽詰の酒を仕入れて客が持ってきた徳利や壺に、はかり売りをしていた。酒屋でも水で割って酒の量を増やすことが通例で、割れば割るほど(酒屋が)儲かることになる。

消費者の手元に届く頃、アルコール濃度は当初の四分の一にまで落ち、4~5%ほどしかなかったという。これ以上薄めると、さすがに飲んでいるほうも分かったらしい。

日本酒の飲み比べの記録が残っているが、とてもではないが、今の度数であったとしたら、ありえない量である。ただ、そこまでアルコール濃度が薄まっていれば、ありうる。ひどい話になると、江戸の酒は「酒くさい水だ」と揶揄されるような粗悪商品も出回っていたらしい。

そういうあまりに割りすぎて薄くなった酒を、「金魚酒」と呼んだ。金魚を入れても生きているということから、そう呼ばれた。私は、金魚酒で十分だろうが。



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