破戒~平然と理性を狂わせろ。

文学・芸術

これは96回目。ひねくれ者の話です。主に、一休宗純のことです。やんごとなき血筋の出自ながら、在野で風狂の一生を送った、(一応)禅僧、一休です。既成の秩序を壊そうという人間は、やはり一分の狂気がなければ無理なのでしょう。

:::

世にひねくれ者こそが、既成の秩序を破壊する。一休は既成秩序の破壊こそできなかったし、そういう立場でもなかったが、その破戒のスピリッツは、永遠に後世に残したといっていい。ちょうど、吉田松陰が、何もできなかったが、その革命の意思というものは弟子や後世の人達に遺していったのと同じだ。

そのひねくれぶりは、若いころから炸裂していた。京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となり、「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えた。「有漏路(うろじ)」とは迷い(煩悩)の世界、「無漏路(むろじ)」とは悟り(仏)の世界。これで華叟をうならせ、華叟より一休の道号を与えられた。

と、思えば、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟はただちに印可状を与えようとするが、一休は辞退。華叟は「この馬鹿者め」と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活に埋没していく。一言で言えば、「煩悩にまみれた、世捨て人」という、大矛盾の人生である。

血統という、問答無用の高貴なものを持った一休である。後花園天皇が即位したときには、一休の推挙があったといわれるくらいであるから、国家の最高機関に対しても発言権があったわけで、とんでもない実力者ということになる。

一方で、逸話が数多くあるように、草庵を結び、俗に「一休寺」と呼ばれたが、民衆からも非常に慕われたとされている。

その破戒ぶりは徹底している。男色はもとより、飲酒、肉食、女犯(にょぼん)はおかまいなし。挙句の果てには、盲目の女(森侍者=しんじしゃ、森女)をはべらせ、木刀を持ち歩いた。

正月には、杖の頭のところに頭がい骨を載せて、「ご用心、ご用心」を叫びながら練り歩くなどもした。

ちなみに、上述の森侍者だが、通説では身分の卑しい盲目の女を手ごめにして、もてあそんだ、と言ったような解釈がまかり通っていたが、どうもそうではないらしい。

最近の研究では、一休と森女は、ともに、天皇の血筋であり、南朝方という点で共通点があったようだ。森侍者は、古来、芸能が盛んな住吉神宮の宮司の一族で、巫女として舞楽を演ずる女性だったようである。

一休は、森女を溺愛したというのは間違いないようだが(それも77歳以降である。森侍者は20代後半。)、どうも、もともと一休が森女に対してなんらかの強烈な恩義があったらしい。大徳寺の住持にかかわる一件ではないかとも言われているが、定かではない。いずれにしろ、相思相愛であったということは言えそうだ。

この破戒僧。逸話にはことかかない。もっとも有名な話には、親交のあった、本願寺門主蓮如を訪れたときの話だろう。蓮如は留守だった。そこで、一休は「上がらせてもらうよ」といって、さっさと居室に上がり込んだ。

なかなか蓮如が帰ってこないので、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕にして昼寝にしたという。帰宅した蓮如が、「俺の商売道具に何をする」といって怒った(ふり)をしてみせた。一休は、「おう、帰ったか」といって、起き上がり、今度は大般若経の経典の上にどっかと腰掛けた。蓮如がこれを諫めると、「そうかりかりするな。大般若経の上に大般若経が座ってるだけじゃないか」と言った。蓮如も大人物である。二人で大笑いしたという。

一休の破戒というものは、当時形骸化し果てていた日本仏教界に対する、根本的なアンチテーゼであったといっていい。形式と対面を、資金力で整えて、一方その内実は腐敗に満ちていた仏教界に、それこそ我慢がならなかったということだ。

それが、形だけの戒律や形式を片っ端から壊して見せて、ほんものとはなにかを身を以て見せようとする言動になって現れた。当然民衆の共感を呼んだ。おまけに天皇家の血筋であるから、誰も手が出せない。これはやりたい放題だ。

真実を見るには、理性(と信じているもの)が曇っていてはどうしようもない。あるいは、理性を盾にとっているが、ただの建前になってしまい、実態は腐りきっているということはままある話だ。それには理性そのものを破壊しなければ、世の中一歩も前に進めないということになる。

・・・平然と理性を狂わせろ(アルチュール・ランボー)

よくそういうと、「そうしたやんごとなき血筋だから、そんな自由気ままなことができたんでしょう」と言う人がいるが、これは人間というものがわかっていない人の発言だ。

誰も手が出せないようなステータスの高い人なら、敢えて周囲の非難や批判の矢面に立つような言動をするだろうか。普通しないのである。「金持ち喧嘩せず」である。一休は、自分でなければ周囲を糾弾できないと思ったから、「狂ってみせた」のである。

たとえば、幕末に高杉晋作という男がいた。長州藩きっての家老職を出す家柄だ。その男が自らつくりあげたのが非正規軍・奇兵隊だ。この奇兵隊が藩の正規兵2万人を敵に回し、存亡の危機に立ったとき、百姓らの出身者が多い諸隊の幹部(将校)を集めて決起を呼びかけたが、誰も賛同しなかった。2000人の奇兵隊で勝てっこないと思ったからだ。兵力差10倍である。

逡巡する幹部連中を前に、とくにそのとき高杉が放った一言が、幹部連中をして「呆れさせ」たと言われている。その一言が、「おまえら百姓になにがわかる」という一喝だ。

みんなこう思ったのだ。「なあんだ、高杉さんは、身分差別のない軍隊をつくろうといって奇兵隊ができたけど、結局高杉さんは侍で、俺たちは百姓上がりだ。高杉さんは、やっぱりおれたちを見下しているんじゃないか。馬鹿らしい。」

しかし、その場にいた伊藤博文の、後の談話によると、このときの高杉の一世一代の暴言で言いたかった真意とはどうも違うらしい。「俺(高杉)は家老を出す家柄の人間だから、侍の社会を壊さなくてもよいのだ。このままこの立場に安住していたほうが楽に決まっているんだ。しかし、その俺が自分の属するこの侍社会を壊して、お前たちの社会をつくろうと言っているのに、肝心のお前らが立たないでどうするんだ」・・・

一休の常軌を逸する言動も、この高杉の一世一代の暴言も同じことだ。

一休の、一見非常識きわまりない言動というものは、そういう立場からは到底言えるはずのない人間だからこそ意味があったのである。だから一休という「記録」が歴史に刻まれたといってもいい。

この男、実は、政治的にもかなり過激である。ときは室町時代、足利義政将軍とその妻・日野富子の幕政を批判したことも確認されている。

ときに、その禅僧でも「参った」と言うことはある。あるとき何を思い立ったか、高野山を訪れた。そこのある寺に、一泊を願い出た。住職は、それを許した。一休は、日ごろ腑に落ちなかった疑問を住職に遠慮なく投げつけた。

「あんたたち密教僧は、印(いん)を結ぶが、あれはいったい、効くのかね」。

密教では、手で印を結び、口で真言を唱え、心で仏を観想し、祈祷をする。その印を結ぶしぐさのことを言っているのだ。たとえば、大日如来に降りてきてもらうには、左手を握り、その人差し指だけを立てる。右手で、その人差し指を覆うように握る。これを智拳印(ちけんいん)という。「ありゃあ、子供の手遊びみたいなものだな」と笑った。

住職は、眉をしかめた。「貴僧は、この寺に一泊の願いを申し出られた。しかし、当寺のことを誹謗(ひぼう)なさるなら、お引き取りいただきたい」。「そうか、泊めぬと言われるか。ならば仕方ないのう」。そう言って、一休は立ち上がり、部屋から廊下に出た。

そのとき、住職が後ろで、手をパンパンと大きく叩いた。一休が振り返ると、その住職が無言で、手招きしている。「ほう、気が変わったか」といって、また部屋に入ってきた。

そこで住職が言った。「貴僧は先ほど、われわれが印を結ぶのを子供の手遊びと申されたな。では、何ゆえ私が手を叩いただけで、振り向かれたのか。何ゆえ手招きしただけで、こちらにまた入ってこられたのか。子供の手遊び同然のこのしぐさでさえ、傲慢(ごうまん)な貴僧をここまで動かしたのだ。印を結んで効くかどうかなど、言語道断」。一休はこれまでと思ったか、「参った」と平伏したそうな。

破戒僧も、ときに隙(すき)あり、悪手を打つということがあるようだ。そこがまた魅力なのだ。ただの破れかぶれの暴れん坊とは、一味違う。



文学・芸術