オリアナ~思いは、必ず伝わる

文学・芸術

邦題こそ「追想のオリアナ」だが、原題はおそらく「Oriana(オリアナ)」だと思う。ベネズエラの映画で、1987年公開。かつてわたしが見た映画の中では、もっとも美しい余韻を残す、南米風のゴシック・ロマンだ。ゴシック・ロマンと言っても、幽霊が出てくるわけではない。

原作はコロンビアの女流作家マルヴェル・モレノ。同じコロンビア出身で、ノーベル文学賞受賞者ガルシア・マルケス(「百年の孤独」で有名)の流れを汲んだ「魔術的リアリズム(マジック・リアリズム)」の手法だ。

たぶん、かつての伝統的なゴシック・ロマンというものは、現代においては「魔術的リアリズム」と呼ぶのではないかという気がする。

「追想のオリアナ」は、このように原作が女性、監督も女性、主演・助演も女性と、女性づくしでつくられた映画だ。いまや独裁と経済破綻に苦しむベネズエラで、かつてかくも美しい映画が製作されたことがあったのだ。これは驚きであった。原作がいいからなのか?

この映画をわたしが見たのは、レンタルビデオ店から借りてきてなのだが、おそらく1990年代前半であろうと思う。ビデオテープの時代だ。原作者のモレノは50歳代で亡くなっている。1995年のことだから、ちょうどわたしがビデオを見たちょっと後かもしれない。

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原作の翻訳を読んだことはない。日本にそれが存在するのかも知らないが、少なくとも映画は、女性がつくっただけあって、非常に繊細で、残酷で(男以上に)、ミステリアスで、抒情的である。

直接的には決して表現しない。たとえば、父親の死のシーンだが、彼がいつものように馬に乗って出かけていく。やがて、馬だけが帰ってくる。・・・そんな調子だ。

さて、筋書きだが(ネタバレはできるだけ避けて書く)マリアは結婚して欧州に棲んでいる。そこに、ベネズエラの叔母オリアナの死が伝えられ、遺産の相続者だと知らされる。

その処分をするつもりで、夫とともにベネズエラのオリアナ邸を訪れる、そんな始まり方だ。

農園に囲まれた古い、陰湿な邸宅は、固く閉ざされ、厚い埃につつまれていた。マリアは邸内を歩き回るうちに、少女時代、(筆者註:たしか夏休みのようなものだったと思う)しばらくの間、預けられ、ここで過ごした記憶がよみがえってくる。

当時美しい叔母オリアナは、下男と召使女と共に、住んでいた。それこそ世間から身を隠すように暮らしていたのだ。独身を貫いていた。

マリアは、当時まだ少女ではあったが、その少女特有の好奇心で、オリアナには誰にも言えない「秘密」があると感じていた。

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ある日、マリアは少年の影を見た。オリアナは気のせいだという。・・・当時、少女時代に見たものは、錯覚や思い違いだったのか。部屋を一つずつ見て歩くうちに、昔抱いた謎が次々と蘇ってくる。

開かない扉。くたびれたトランクのなかの古い写真。写真のなかの少女の頃の叔母と、その叔母によりそう褐色の少年。そこから見えてくる二人の関係。叔母が死んでも守りたかった秘密。なぜ、オリアナはわたしに相続させたかったのか・・・

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少年の正体を知ったマリアは、その地を去ってゆく。

一当たり内覧した後、邸内から出て来たマリアに、待ちくたびれた夫が聴く。
「どうするんだい? やっぱり売るのかい?」
「いいえ、売らないことにしたわ。すべてはこのまま。・・・それが一番いいのよ。」

一言で、美しい映画である。心にしんみり、しっとり、じんわりと受け継がれる人間の切なる思いというものが伝わってくる。一切言葉にも残さず、かすかな記憶だけで、時空を超えてその必死の思いが伝えられていく、そういう作品だ。

映像シーンも美しいのだが、セリフもかなり美しい。これが、原作者モレノの文章なのか、それとも制作・編集を担当した女性監督のものなのかは、わからない。

・・・立ち去る時間を止めて、心から望めば、それは見えてくる。
目を閉じて、目を開ける。
ほら、あなたはそこにいる・・・

この世の中には、見えないものが見え、無いはずのものがあると信じられる瞬間がある。切なく思い続けているといつかそれが現実になる。この映画は、映像のなかにそういう瞬間を閉じ込めてみせた、そんな気がする名作だ。一度、だまされたと思って御覧あそべ。損はしない。少なくとも時間の無駄ではけっしてない。そして明るい日常が、ふと息を吹き返す。

ブレイクの詩を思い出した。

・・・砂粒の中に世界を見て 野生の花の中に天国を 手のひらを無限に握りしめ 永遠を一瞬の中に閉じ込める・・・



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