路頭に迷う愛

文学・芸術


これは253回目。それが果たして本当に「愛」なのか、疑問に思えるようなケースがあります。以前も、ロダンに弄ばれたカミーユ・クローデルの話を書きました。本人は「愛」だと信じていても、実は「愛」からほど遠いものかもしれません。

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アデル・ユーゴーは、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴー(「レ・ミゼラブル」がよく知られている)の次女である。長女レオポルディーヌは先に溺死している。ただこの長女の亡霊が、ずっとアデルに付きまとった形跡がある。

アデルは、一晩つきあった英国軍人を愛し、その自身の激情を妄信する。男につきまとい(完全に今でいう、ストーカーである)、男に振られても父親に「婚約しました」と嘘の手紙を書き、男がカリブ海に赴任して行くと彼女もまた後を追う。

最終的には、熱病に冒され、精神崩壊している彼女は、男とすれ違っても気がつかず、ボロを着てよろよろと路上を徘徊するに至る。結局、実家に連れ戻され、死ぬまで精神病院で過ごし、情念の限りを日記に綴り続けた。

日記には、こんな文章が出て来る。実家を出奔する直前のものであろう。

「今は、父が施してくれるパンの他には、何も持たない若い娘が、4年後には黄金を掴むのだ。自分自身の黄金を。若い娘が古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行くのだ。恋人に会うために」自分自身の黄金を。若い娘が古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行くのだ。恋人に会うために」

父親のヴィクトル・ユーゴーは、あまりにも偉大すぎた。彼女が、出奔先でカネに困っても、周囲の人たちがユーゴーの娘さんだということで、いろいろ支援してくれた。

「父の名は大き過ぎる。私はヴィクトル・ユーゴーの名から逃げられない」

アデルはそれを「支配」と認識したのだろう。あの時代にあっては、とりわけ自立心の強い女性だったようだから、余計これが心の重圧になっていた。

一方で、溺死した姉レオポルディーヌの悪夢にもしょっちゅう悩まされていた。対抗意識である。

「姉の衣裳を捨てよう。焼いてしまおう。バラバラにしよう。もう、姉の衣裳は見たくない。見るのは耐えられない」

自分は父から、姉よりも愛されてはいなかったというコンプレックス、偉大な父の力、そうした精神的重圧が彼女を「愛」という正義を盲信的に信じる道へ誘っていったのかもしれない。

アデルが愛するピアソンという英国軍人は決して立派な男、というわけではなかった。
好男子ではあったが借金まみれであり、女遊びも激しい。果たしてアデルはピアソンを純粋に愛していたのだろうか? 愛とはなんだろうか?

私はあなたを愛しているからあなたも私を愛して欲しい、どんなことがあっても手に入れたい、・・・この「愛」という情動は、どうもカミーユ・クローデルといい、アデル・ユーゴーといい、自身の「承認欲求」だったような気がする。アデルの場合はピアソンという人物が、その「はけ口」にされただけ、ということだ。

他者との人間関係を、うまく形成することのできないアデルは(極端に自立心、自意識が過剰であるため)、そのはけ口を一人の男に求めた結果、自縄自縛に陥り精神が分裂してしまったということだろうか。

当時の社会の通念からいって、結婚無くしては安定した生活を送ることができない、しかし自立したい。そうした矛盾が、「愛」という正義によって保証されると信じたのかもしれない。

彼女にとって「黄金」とは何だったのか? 自己承認の証である「愛」だったのか? しかし愛とは、相手あっての話である。延々と空回りするアデルの正義は、結局のところ自分という存在が認められたいという一点に集約されていて、そこには「他者」という、自分よりもっと大切にしなければならない存在が無かった。それを「愛」と誤解したところに、アデルやカミーユの悲劇はあったのかもしれない。

実はここに逆のパターンがある。同じく、「愛」というテーマを前にして露頭に迷う話だが、これは男である。異常なほどの多産なフランスの作家、オノレ・ド・バルザックの名作『谷間の百合』である。

この小説は出だしこそ冗長に思えるかもしれないが、主人公のフェリックスが恋に落ちてからは一気に引き込まれていくはずだ。こういう重厚な作品は古典の名に恥じない恋愛ものの名作だと言われている。

つまるところ、肉と霊の相克という、古くて新しい永遠のテーマである。青年フェリックスは、ある舞踏会で美しい貴婦人・モルソフ伯爵夫人(=アンリエット)に出会う。その後アンドルの谷間で偶然の再会を果たし、フェリックスは何とかアンリエットの好意を得ようと試行錯誤する。

フェリックスは、アンリエットへの恋慕に盲目となっていく。他方で、アンリエットの方も若き純真なフェリックスに惹かれていく。傲慢で他人の話を聞こうともしない夫と病弱な二人の子どもとの不幸な結婚生活に落ち込んでいたアンリエットには、フェリックスの率直で清潔な愛情が「初めて人に愛された」ように思われた。

しかし貞淑な人妻であるアンリエットは、聖女のような精神的愛情を注ぐにとどまり、それ以上の関係を持とうとしなかった。燃えるような情熱をぶつけてくるフェリックスに対し、時になだめるように、時に叱るように制止するアンリエットの内面は正直、崩壊寸前であった可能性がある。

アンリエットは自らの情熱的愛を封印し、その教養と知性の全てをフェリックスに託し、彼のパリ社交界での成功に貢献していく。

アンリエット仕込みの教養を身につけてアンドレの谷間を離れ、パリでルイ18世に気に入られたフェリックスは、順調に政治的・社会的地位を高めていく。

ところが、そこでフェリックスは、青年が抵抗し難いような妖艶さを備えたイギリス伯爵夫人アラベルに出会う。フェリックスはアンリエットの精神的愛情を頭の片隅に置きながらも、肉欲に抵抗し難いということを言い訳にしてアラベル夫人と関係を結ぶ。

アラベル夫人は、教養や精神性などの点でははるかにアンリエットに及ばなかったが、フェリックスのために全てを捧げるほどの愛情を示した。

ここで、フェリックスは二者択一を迫られる。つまりは肉と霊との相克。どちらも、フェリックスにしてみれば、「愛」なのである。

こういう定番のテーマ、おそらく誰もが一度は突き当たる壁であり、それを劇的に描ききったところに、『谷間の百合』が名作古典だと言われる真骨頂があるのだろう。

これまた、多くの男が思うように、フェリックスはアンリエットとアラベルとの「両立」(つまり二股)を模索しつつ、アラベルに傾いた自分の弱さに言い訳しながらも、最後はアンリエットのもとに戻ることになる。

フェリックスの「浮気」は、いつの間にかパリ社交界で話題となり、アンドルの谷間のアンリエットの耳にも入ることになった。この心労が原因となってアンリエットは病に伏すことになるが、フェリックスは何とか自分の行動を説明しようと試みる。それは男の私が読んでもみっともない自己弁護に思えるが、フェリックスにできることはそれしかなかった。

フェリックスは、アンリエットに対して言い訳する際に、アラベルに傾いてしまった事実をも率直に語っている。

『本当はアンリエットを愛している、あなたが全てである、しかしアラベル夫人に一瞬心を囚われたのは事実である。』

ここに、男というものの、無神経さ、身勝手さが見事に活写されている。

この肉と霊の相克という問題を取り上げた『谷間の百合』だが、作品全体の構成には実はもう一工夫なされている。この一連の恋愛劇を、フェリックスは自己の経験として、「現在」恋愛中のナタリーに宛てて、説明するかのように書いた手紙という体裁だ。

つまり、今つきあっている恋人のナタリーに、過去の恋愛模様を回想し、告白するという体なのである。

この手紙に対して、ナタリーは、

「あなたの索漠とした心をあらわにお見せになるような告白は今後二度となさいませんように」・・・「いっそのこと嘘をついてだまして下されば、あとあと感謝申し上げたことでございましょうに」

・・・との言葉を残し、フェリックスに別れを突きつける。

恋愛や結婚における「言わなくてもよい」ことを秘密のままにしておくのは比較的女性に多く、逆に「全て打ち明けてしまいたい」という衝動に駆られるのは男の方が多い、というパターンが読み取れる。

男としては、すべて「打ち明けてしまいたい」というフェリックスの衝動もわからないこともないが、やはりそこには「相手」に対する思いやりは、欠如していると言わざるを得ない。結局、フェリックスの場合、先述のアデルと同じように、自己承認が非常に重要なポイントになっており、「愛」とはなにか、は二の次になっているともいえる。

他者なくして、「愛」は無いのであり、ともすると、自分よりも「他者」のほうが大事なのだということが、「愛」というものの本質なのだろうが、アデルも、フェリックスも、最終的には自己の魂の救済が目的になってしまい、狂気か、さもなければすべてを失うという結末に至っている。

人類が誕生してから、この「愛」という概念は、どれだけの迷走と試行錯誤が繰り返されてきたことだろう。その時代その時代に、どれだけの文学作品がこの同じテーマを取り上げては、正解を導きだせずに、消えていったことだろう。

太宰治が書いていたように、結局、「愛はない。愛という実体はないのだ。あるとすれば、愛したいという思いだけだ。」ということかもしれない。



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