百回の嘘には、一万回の真実を

歴史・戦史


これは253回目。中国の習近平国家主席と、韓国の文在寅大統領に、申し上げます。わたしが今、お二人の目の前にいて、相対面していると仮定して、これまでわたしの中で鬱積したものをすべて吐き出してみます。ここでは、なれなれしく「君」とお二人を呼んでみます。そのくらい親しくないと、言いたいことも、腹蔵無く言えるものではないですから。

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嘘でも百回言えば、事実になってしまう。それが外交という世界の非常識性だ。君たち二人が、二言目には「日本の軍国主義」を阻止しなければならないと言い続けているのはその典型的な例だ。

君たちは歴史を捏造するばかりではなく、とどのつまりには、「日本人は、侵略の遺伝子をもともと持っている、危険な民族なのだ。」とさえ言う。冗談ではない。三韓征伐があったかどうかわからないが、日本人が日本として物心ついた平安時代以降、朝鮮半島や中国大陸に日本が侵攻していったことは、たったの一回、戦国期にあった秀吉の明国出兵(朝鮮出兵)だけである。

対外戦争という意味では、明治期になるまで、世界でも稀に見る不戦の国家だったのである。日本は、戦国の百年を除けば、ほぼ「のほほん」と穏やかな歴史がずっと続いていた。それにくらべて君たちはどうだ。この千年以上というもの、戦乱のない時代のほうが珍しい。

むしろ虐殺と、暴政と、内乱が延々と繰り返されていたのは、君たちの歴史だ。暴力にかけては、君たちのほうが専売特許だ。暴力には遺伝子的に「慣れっこ」になっていたはずの、その君たちは、19世紀、西欧列強が押し寄せてきたときには、日本も含めて、アジア中のみんなが頼りにしていたのだ。君たちならなんとかしてくれる。東洋の意地を見せてくれるに違いないと、信じていたのだ。なんといっても歴史上、侵略と殺し合いが大好きな君たちだから。(これは皮肉だ。つい口がすべった。許せ。)

それがどうだ、なんというだらしない有様だったか、思い返せば良い。こてんぱんにやられたではないか。ボロ負けだ。その惨憺たる醜態を横目で見ていたので、「これは、やばい。次にやられるのは、俺だ。」と、日本人は肝を冷やしたのだ。

近代以降、常に東洋は西洋の圧力に屈してきた。オスマントルコも破れ、ムガールも敗れ、まさかの大清帝国も主権を失った。東洋が西洋列強のくびきに虐げられたとき、最後の最後に土壇場でちゃぶ台をひっくり返したのは、誰だと思う? 君たちが憎悪する「大日本帝国」ではないか。

アジアがほぼ植民地化されているという絶望的な状況下で、たった一国、無謀な賭けを何度も試みて、ついに歴史の歯車を逆回転させた(植民地支配崩壊の潮流)のは、1000年以上も戦争と内乱が日常茶飯事だったはずの君たちではなかった。百戦錬磨のはずの君たちではなかったのだ。同じころ、君たちは過去の栄光を自尊するばかりで、一番大事なときに、立てなかったし、立とうともしなかった。

立ち上がったのは、千年にわたってほぼ不戦を通した日本だけだっだではないか(秀吉の朝鮮出兵は例外。これは明らかに侵略であった。これは認める。)。自国の歴史を誇り、日本の歴史を蔑視する前に、まずどれだけ自分たちが、情けなく、だらしない国家の有り様を見せたのか、一国の指導者としてまずはじっくり、見直してみたらよい。

当時アジアが、ナメていた「近代」というものを、身をよじるようにして自家薬籠中のものとし、にわか普請(ぶしん)ではあったが、とにかく近代国家になりおおせてみたのは、日本だけだったのだ。

日清戦争では頑迷な守旧にこだわる大清帝国の不甲斐なさを天下の下に晒し、日露戦争では最大の強国ロシアの侵略を撥ね退け、それこそ満身創痍で、西高東低の歴史に異を唱えたのは、誰あろう、「大日本帝国」ただ一国ではなかったか。

君たちは「いやいや、日本のそうした行為の動機は徹頭徹尾『侵略』だったのだから、駄目だよ。」と言うのであろうか。確かに動機を探れば、いろいろある。答えは一つではない。大陸市場を独占しようという『動機』をもった日本人も多かったことは、わたしも否定しない。

しかし『動機』は、常に一つではないし、それより歴史で重要なのは、その結果と効果なのだ。

アインシュタインの物理学研究は、あくまで平和目的が動機だった。が、その結果は核兵器の実現であり、その効果は世界のパワーバランスの原理を根底から覆してしまった。

ナポレオンの大陸制覇の動機は、ほぼほぼ『侵略』だった。しかし、その結果は欧州世界全体における人民主権の台頭と、その効果は絶対王政という政治体制の崩壊だった。

なんでもそうなのだ。動機は、一つではない。しかも動機は、解釈論で話がいくらでも分かれてしまう。しかし、歴史で重要なのは、動機ではなく、結果とその効果だ。それはたった一つの事実しかないからだ。動かしようのないものは、結果とその効果にしかないのだ。それが科学的ということだ。

日本というアジア世界の「みにくいアヒルの子」が、たった一人で全世界といってもいい西洋列強と血みどろの大喧嘩をした挙句、無残な敗退をしたものの、たった一つ残すことができた成果とは、数百年に及んだ西洋世界による植民地支配の時代に終止符を打った、という事実なのだ。これは、長い世界の歴史の中で、ベスト3に入るといっていいくらい、あまりにもドラマティックなパラダイムシフトだったといっていい。

君たちがどんなに悔しくても、駄目だ。数々あった日本の動機のうち、もっとも不純で、日本人にとっては不都合なものだけを君たちはいつもあげつらい、(そのほかの正当な動機をすべて無視して)「日本は侵略国家」だとレッテルを貼ろうとしても、たった一つの事実は、誰も否定のしようもない。アジア中で、日本が先の大戦でアジアを侵略したと言っているのは、君たち二人だけだという事実がそれをよく示している。

日本が、西洋列強の与太者たち相手に、やぶれかぶれの自滅的な大喧嘩をしていたそのとき、君たちは一体なにをしていたのか。よくそれを考えよ。ただ指を加えて黙っていたのではなかったか。そして、同じ黄色人種の中で、ただ一国が抜きん出たことに対する羨望と妬みに心を焼かれ、自らの体たらくは棚上げし、日本が切り開いていった茨の中の一本道をただただ、後からずる賢く追随してきただけではなかったか。

「大日本帝国」が、東洋世界で初めて、西欧列強に一矢報い、「西高東低」の千年にわたる時代の潮流を逆転させた功績は全否定し、隠蔽し、すべてを侵略の一言で片付けたのは君たちだ。

要するに同じ黄色人種でありながら、自分にできなかったことを、極東の小国がやり遂げたという事実に向き合えない、あさましい劣等感と逆立ちした優越感の現れ以外の何ものでもない。

そもそも、満洲(満州ではない)も、新疆も、チベットも、中国固有の領土などではない。朝貢関係にはあったが、れっきとした独立国であった。だからこそ、満洲族に「支那(混乱するので、敢えてここでは漢民族地域をこう呼んで、区別しておく)」が「征服」されて大清帝国が成立したのだ。だからこそ、漢民族は辛亥革命で満洲族を本国(満洲=現在の中国東北部)に叩き出したのではないか。つまり、大清帝国とは、満洲族による漢民族の植民地支配だったといっていい。その植民地からの独立が、中華民国だ。その中華民国が満洲を支配しようなど、それこそが侵略ではないのか。

1000年の間に、17回も中国から侵略されたベトナムを見よ。にもかかわらず、君たちは「一度も中国は他国を侵略したことがない」などと、公的な場でよくも言えたものだ。「懲罰」だから、これは侵略ではない、という。そんな話が通ると真面目に君たちは思っているのか。この何千年君たちは、どれだけの侵略を繰り返してきたか、数えてみたらよい。歴史にきちんと向き合っていないのは、君たちのほうではないのか。

しかし、昨今、まともな欧米先進国で、誰も日本に軍国主義が復活するなどと思っていない、そう思っていたわたしは甘かったことを気づかされる一件があった。数年前だが、こともあろうに英国の名門新聞フィナンシャル・タイムズの社説で、「安倍政権の軍国主義復活に警鐘を鳴らす」といったような記事が出ていたのだ。さすがに、君たちの百回の嘘が効いてきているのかもしれない。由々しい事態だ。

そもそも癪に障るのがドイツの対日認識だ。あの国というのは、ときに「日本は先の大戦に対する謝罪を、君たち二人にちゃんとしていない」と言い出したりする。世論の認識からしてそうなのである。ドイツごときと、日本を同列に比べられたらたまらない。彼らは確信犯だったが、日本はそうではない。

ドイツがヒトラーという怪物を生み、第二次大戦の火蓋を切っていったのは、それこそドイツ国民の意思だったと言われても仕方がないのだ。ヒトラーは、ベルサイユ条約に対するドイツ人の怨恨から生まれた産物だ。ドイツ国民は圧倒的な支持で、それも正当な選挙によって選択し、この怪物を独裁者に祭り上げていったのだ。

これに対して、日本は、国内世論は、当時のドイツとは違い、まったく統一性は無かった。軍の内部でさえ、対中国強硬論と不戦派に分裂していた。ましてや対米戦に至っては、その現実性には、誰もが自信を持っていなかったのだ。

しかもドイツ人がずるいのは、自分たちが礼賛して選択したヒトラーとナチス党に、戦争の責任のすべてを押し付けた。だから、徹底的に謝罪するのだが、それは「わたしたちではない。ヒトラーとナチスがやったのだ。わたしたちは、騙されていた。ユダヤ虐殺など知らなかった。」という理屈である。

だからこそ、謝罪できるのである。心は痛くもかゆくもないのだ。だから、旧ナチス指導者の墓地を詣でるのを法律で禁じることができるのだ。だから、ハーケンクロイツ(鉤十字)のデザインを公に使うと、罰することができるのだ。

彼らは、ヒトラーとナチスがやったことを謝罪しているにすぎない。すべて、ヒトラーとナチスがやったことだといって、事実上ほっかむりをしているのがドイツ人なのだ。ドイツ人は、自分たちこそがそれを生んだことを、なにも謝罪していないのだ。こういうのを、わたしは「欺瞞」という。こんなドイツから、「日本はきちんと謝罪していない」などと言われる筋合いは金輪際ない。

日本の外交の最大の欠陥は、嘘を百回言い続ける厚顔無恥さが無いことだ。これは日本人の持って生まれた徳性なのだろう。公的な場で、嘘をつくのが苦手なのだ。ならば、相手が嘘を百回言うのであるから、真実を一万回言わなければ、負ける。

君たちは、日本が植民地支配をしたというが、植民地というのは、インフラに特段意を注がない。その住民たちには、本国の憲法など適用されない、純然たる隷属民でしかない。当然教育など行わない。

日本が朝鮮や台湾でやったことは、まったくその逆である。日本国内と同じことをしたのだ。どころか、たとえば京城帝国大学などは、東京帝国大学の予算の十倍をつぎ込んで英才を育てることに腐心していた。台湾でも同じだ。

朝鮮半島では「日本人が韓国語を奪った」というが、とんでもない。李氏朝鮮の時代を通じて、ずっと使わずに放置されていたハングルを持ち出し、教科書までつくって半島全土に普及させたのは日本人だ。嘘だと思うなら、田舎の古い蔵にでも行って、廃品の山を探してみたらいい。まだたくさん、その頃君たちの祖父母が勉強した、「日本人がつくった」ハングルの教科書が残っているはずだ。

君たちの虚偽によるプロパガンダは、常に反日・侮日の運動をたきつけることで、国内の不満の目を外国に、特に日本に向けさせている。日本は「事を荒立てない」ように腐心し、ますます立場はまずくなっていく。これは現在もまったく変わっていない。

たとえば、中国旅行をした人は見たことがあるかもしれない、「万人坑」というのがある。日本軍に虐殺されたとされる白骨の山を、ご丁寧にも体育館のように上屋やドームで覆い、保存して日本軍国主義の爪痕を露骨にアピールしているものだ。あちこちの都市にある。

実はこの万人抗、日本軍の虐殺でもなんでもない。中国人の「のたれ死に」、無縁仏の共同墓地にほかならない。革命前、貧民街から出た死者(主に麻薬中毒)の共同墓地が、その実態である。

最近、慰安婦問題で、長年いかに朝日新聞がひどい捏造有害報道をしたか、あからさまになってきたが、朝日は謝罪せず、顰蹙(ひんしゅく)を買っている。顰蹙なら良いが、はっきりいって売国行為にほかならない。 この万人抗も、朝日が行った捏造有害報道の一端だ。正直、この新聞が三大新聞などと言っているのが恥ずかしい。日本国民は、はっきりと不買運動をすべきだろう。

中国の旧満洲には、多くの人骨が折り重なるように埋まっている場所がいくつもあり、場所によっては一万体以上埋まっている所もある。中国ではそれを万人坑と呼んでいる。

さて、これがどのように作られたのか、克明に記録した文献がある。満洲国警務総局保安局が1940年ごろ、ハルピン市の貧民街における住民の生活実態を調査した。その調査結果は極秘とされ、少部数印刷されて満洲国警察の部内資料となった。これが原書房から「魔窟・大観園の解剖」(満洲国警務総局保安局、原書房、1982年)と題されて復刻出版された。1982年版には著者の名前がなかったが、2002年版では、元拓殖大学教授佐藤慎一郎となっている。

これは、面白おかしく書いて売り物にしたのではなく、日本の情報機関がみずから貧民街に入って情報収集し、部内資料としたものであるから、その内容はきわめて信用度が高い。

著者は、警察官であったが、貧民街の実態を調査するにさいして、身分をかくす必要はなかった。貧民街の住人と親しくなった著者は、長期宿泊者の名前や身の上などをはじめとして、木賃宿や宿泊人の実態、売春婦・乞食・モルヒネ密売業者の実態、賭博・阿片・モルヒネの横行ぶり、盗品と盗品処理方法、さらに、宿泊人の末路まで、詳細に記録した。当時の貧民街の実態を記録した一次資料である。

ハルピン市の貧民街に大観園という劇場が建てられたが、経営が思わしくなく、内部を改造し、小さく区切って借家にした。そのため、大観園の中に木賃宿や商店ができ、その中で千人以上が宿泊できた。貧民街では麻薬がはびこり、大観園の中にも2軒のモルヒネ密売屋があった。住人のわずかばかりの収入は食費、宿賃以外に麻薬代に消えることになる。こうして麻薬に犯された肉体は早く衰弱していくから、貧民街からは死人がどんどん出た。

死ぬと、周囲の住民から衣服をはぎとられ、素裸で路上に捨てられた。そのような死体が道にころがっていても誰も気にもとめなかった。こうして、貧民街からは、身よりのない死骸がどんどん出たのである。著者がハルピン駅から貧民街まで友人と歩いた時のようすは次のようであった。

「大観園の裏通り長春三道街には朝の太陽が燦々と降りそそいでいる。私達は此処まで来るうちに既に九個の素裸にされた死体を見て来ているのだ。そして今更に又私達の眼前に三つの死体が転がっている。勿論街路の中央にである。骨張った顔面の骨が砕けて頬から後頭にかけてどす黒い血が乾き附いている。敲き殺された死体である。その向こうに脛の皮が赤く擦剥けて見えるのは、山盛りに積み上げられた塵芥に首を突込んでいる死体だ。こうした塵芥と死体の転がる大道の間隙を埋めて盛り上がるような人を集めているのは屋台店である。」

ハルピン市だけでも、年間の行路死亡者数は次のとおりである。
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行路死亡者その他の死体数に関しては、警務庁では年三千名前後と見、ハルピン市公署年鑑によると毎年大体二千四、五百となっている。(「魔窟・大観園の解剖」281ページ)。

このように貧民街では、麻薬で命を縮めた死人が多く出て、それがどんどん道に捨てられた。それを市当局が集めた。衛生夫は丁度魚屋が魚を勘定する時に用いるような大きな鈎を持っていて、死骸の首に引懸けて大きな乾鱈でも引ずるようにして自動車に積み上げる。ほとんどの死体が赤裸で、衣服はみな盗まれている。時たま衣を着けたままの死骸にぶつかると、衛生夫たちは我が意を得たりと悦ぶのである。死骸の衣服は勿論彼等の役得だからだ。衣服をまとったままの死骸は著者の直接算えた所によれば、80余の死骸中6体しかなかった。

市公署ではかくして集められた死体の足首に、番号の入った小さいブリキ製の札を結びつけて、俗称『万人坑』(万人も入る大きな穴と云う意味で、市では予め大きな穴を掘っておいてそれに死体を抛りこむのでこう呼んでいた)。正確には『南崗大有坊市立貧民義地』の大穴に文字通り抛り込むのである。義地とは共同墓地のことだ。

大観園附近で集められた死体は行路死亡者として、此処の萬人坑に抛りこまれるのだが、その穴の大きさは縦7m・横2m・深さ2mの大きさを持っており、一個の穴で80体から100体位を収容出来るのであるが、夏季は腐爛して悪臭を放つため、穴に抛り込んで土を薄く被せて置くが、冬季は穴一杯になるのを待って土を被せる。

この万人坑に埋めた死体の数は、番人小屋の記録表によると、3月には111体、4月には17日までで87体となっている。この年は、文章の前後の関係で1940年と思われる。

ハルピン市が1936年5月につくった公墓一覧表がある。それによれば、29カ所の墓地があり、そのうち廃棄された義地(共同墓地)は5カ所ある。ハルピン市の管理墓地は5カ所で、その内、4カ所は使用料が無料である。その一つ「圏河義地」は1917年創設で1936年現在、埋葬数は1万以上で満了となっている。

同じく無料の「貧民義地」は1925年創設されて10年経過し、もはや埋葬可能数は数十しかなく、まもなく満杯となると書かれている。著者がたずねた無料共同墓地「南崗大有坊市立貧民義地」は1936年に創設された。この共同墓地は、記録表によれば、3月は111体埋めたとされているが、かりに一ヶ月に100体が埋葬されたとしても、10年なら1万2千体になるのである。

こうして、万人坑が、各地でつぎつぎとつくられていった。満洲など北部に多かったが(おそらく、寒冷気候で冬を越えられない者が相対的に多かったためだろう)、なにも満洲に限らない。これで分かるように、万人坑とは貧民街からでた行路死亡者(主に麻薬中毒者)を埋葬した共同墓地で、多い所では1万人以上も埋葬されているのである。

このような万人抗は、日本の傀儡国家・満洲でさえこうであった。ましてや、無法地帯さながらの当時の中国においては、言わずもがなである。これを朝日新聞は「日本軍の虐殺」だとしたのである。中国でも、ずっとそのように認定され、各地で日本軍の蛮行の跡として「記念」し、保存されているのだ。しかも、民主党・鳩山元首相は、これを訪問して、日本軍国主義の蛮行を謝罪するという、驚くべき事実誤認の行為をおこなっているのだ。きちんとデータをベースに検証もせず、自国の価値を毀損するような行為は、売国とそしられても致し方あるまい。思想の違いなどではない。国家的犯罪に近い。それは、朝日新聞も同罪である。

日本人や日本軍の非道はあったろう。何も無かったなどと言うつもりはない。しかし、どれが本当にあったことで、その背景や事情はどうだったのか。そして、なにが嘘で、冤罪なのか。はっきりさせようじゃないか。君たちにそれをする勇気があるだろうか?

まともで公正な事実認定(裏をきちんと取る)こともしないで、十把ひとからげに、「侵略」の一言で片付けようとする、君たちの不勉強さ、歴史と民族(自他とも)への不誠実さだけは、絶対に看過できない。君たち二人がやらないで誰がするのだ。

こうした「万人坑」のような、あからさまな嘘というものは、徹底的に暴露し、糾弾し続ける必要があるのだが、どうも日本人、そして日本のメディアというのは、「大人の対応」をしすぎる。その紳士的な態度は、自らを滅ぼす。

要は「事を荒立てる」、それが外交というものだ。黙っていることは、日本という国家、日本という歴史、そして日本人に対する冒涜に等しいということだ。そして将来の日本の価値も毀損する。そして、そういった嘘を黙認することは、君たちをいやがおうにも増上慢にさせ、君たち自身の民度や文化性をも腐らせる。二重の罪だ。

事実やデータがすべてだ。わかっている事実で、話をしよう。憶測や先入観、ただの伝聞で、相手を決めつけないようにしよう。歴史を、政争の具にしないように心がけよう。それは、どこの民族であれ、自身を切る刃となって跳ね返ってくるのだ。

その愚かな、相克の連鎖を断ち切るには、歴史の「事実」がどうだったのか、という民族意識を超えた真摯な科学的アプローチ以外にない。つまり、データの確認である。公平の秤(はかり)は、データによって確認された事実の上でのみ機能する。

逆に、「定説」などに疑問を持っている中国人や韓国人が、ネットでがんがんレスを立てているのも、近年は非常に多く見られる。わたしより、はるかに冷静な事実分析や認識をしている意見も、最近ではふつうに観られるようになった。それは、ネットという匿名性が生み出した奇蹟だろう。

「日本人のことなんか言えないよ。俺たちの国は、自分の国民を、日本軍よりはるかに多く殺したじゃないか。」

これなどは、わたしの言葉ではない。中国のネットに飛び出した中国人の若者のレスだ。

日本が、失ったものは大きい。しかし、その後得たものは、失ったものよりもっと大きい。

その「大日本帝国」が、戦後、ただの「日本」になったように(アメリカによってだ。われわれが自力でしことではない。)、「大韓民国」から「大」の字がとれて、ふつうに「韓国」となれるのはいつの日だろうか。「中華人民共和国」が、肩の力を抜いて、ふつうに「中国」という国名になれるのは、いつの日だろうか。それが出来たときには、もしかしたら、あらゆる意味で日本を「超えて」いるかもしれないじゃないか。そのとき日本人は、嫉妬など抱きはしない。多少は羨ましいとは思うかもしれないが、逆立ちしたコンプレックスで、君たちを下にみるような、そんな器量の狭い国民ではないのだ。それははっきり言っておく。

わたしにこういうことを言われて、多少なりとも耳が痛いと思ってくれるのなら、まだわたしにとってはありがたいことだ。「こいつ、なにを言ってるんだ。とんちんかんだな。」と思うようなら、ほとんど救いようがない。知人ではあるが、友人ではないと見切るよりほかない。

余談だが、わたしの母方の祖父は、終戦まで満洲で土建屋をやっていた。橋梁と道路が主な請負工事だったらしい。羽振りが良かったそうだ。

毎年、東京から夜行列車で下関まで行き、関釜連絡船で釜山へ。そこから京畿鉄道で満洲へ。冬の終わりに旅立ち、冬の初めに帰ってきた。

満洲からは毎年のように、チョコレートやお菓子、衣料などぜいたく品をどんどん送ってきたそうだ。もちろん大枚の送金もしてきた。

ところが、祖母はいつも珍妙な顔をして、祖父の手紙を読んでいたそうだ。

「どうしておとうさんは,『大日本帝国』と書かないのかねえ。いっつも、『日本国』と宛先に書いてあるんだよ。ほかの人たちと同じように『大日本帝国』って書けば良いのにねえ。」

祖父は、どうやら、大日本帝国よりはるか以前、とっくに肩に力をいれなくなっていたようだ・・・



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